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◆短編
HIDE AND C君4(終)
異常な事態でも慣れていくもので、異常が日常に変わっていくのがわかる。
認識されない僕の世界はそのまま続いていた。

僕の事を忘れた両親も、反応しない店員も、片づけられない机も、それが普通なのだと主張せんばかりにその場にあり続ける。
それが当然だと言わんばかりに。

人並みの中に立ちすくみ、流れていく人の動きに埋もれていく。

存在は流れに削り取られて消えたのだろうか?
何らかの意図があって消えたのだろうか?
僕は生きているのか、そして死ぬことが出来るのだろうか?

誰の口からも答えを聞く事は無い。



床に敷かれた布団からモゾモゾと起き上がり、左ひじを掴んで身体を伸ばす。
まだ眠っていたい身体が強い引力で布団に吸い寄せられるのを何とか耐えると、魅惑的な睡眠への誘いを振り切るように顔を洗うため立ち上がった。

キュと音を立てて蛇口をひねると水が零れだし、手で作った器を満たしていく。
冷たい水を顔にかけるとしみ込むような感覚と、氷が溶けるように眠気が消えていった。

卵を3個ボールに割ると菜箸でリズミカルに掻き混ぜる。
あまり混ぜすぎると卵にコシが無くなると以前テレビで言っていたような気がするので、今日は少し少な目に混ぜてみる事にした。

油を引いたフライパンに薄く卵液を流して表面が軽く乾いたら丸め、端に寄せて卵液を再度投入する。
おっと、丸めた卵を持ち上げて卵液を下まで流すのを忘れないようにしないと。

料理は上手くなった。
食べてくれる人がいると上手くなるというけれど、本当にその通りだと思う。

口いっぱいに作った食事を頬張り『美味しい』のセリフ。
それだけで食事を作る労力は消え、次への意欲が湧いてくるのだから言葉の力は侮れない。

隣室からガタガタと物音がして同居人が起き始める。
あまり目覚めは良い方ではないらしく、起き始めてから起き上がるまで早くて10分、遅いと30分ぐらいかかってしまう。

……食事の支度が終わるまでに起きてこなかったら起こしに行こう。


・・
・・・

「ぅ、おはよーございまふ」

「早くない。さっさと起きろ」

「うん……、……うん」

「起きろ、椎名!」

被り直そうとしていた布団を引っぺがすと、布団の上で椎名がコロンと転がる。
こちらを見る目はいまだトロンとしていて、かわい……、いや、眠そうだ。

「飯が冷める、さっさと起きないと朝食なしだからな」

「え、やだ、起きます」

カッと目を見開いた椎名はいままでの怠惰な動きがなんだったのかと思う程俊敏な動作で起き上がり、俺を先導するようにして部屋から飛び出した。
まったく、かわい……、現金な奴。



俺が高校を卒業して、大学生を経て、就職をする程度の時間が経った。
その間も色々試してみたものの、椎名が誰かから認識されることはなかった。

「今の所困ってないし、いいんじゃない?」

と、相変わらず問題を深く考えていない様子の椎名だったが、俺が就職で実家を離れると言った時は動揺していた。
流石に唯一話せる相手がいなくなるのは嫌だったのだろう。

「一緒に行くか?」

誘ったのは俺。
椎名が自分から一緒に行くと言う事は無いだろうと思っていたのもあるが、俺自身、離れるのは嫌だった。



(生殺しというのはこういう事を言うんだな)

高校生の頃に感じた淡く甘い恋心など、今はすっかり煮詰まってドロドロした明らかな欲求に変わってしまっている。

好きだから触れたいし、好かれたいし、セックスだってしたい。
相手が男なんて事はもうとっくに乗り越えている、それ以上に誰にも認識されない特殊体質だって気にならない。

だけど触れない。
嫌われるのが怖い、傷つけるのが怖い
椎名から救いを奪ってしまうのが怖い。

「いただきまーす」

のんきに俺の作った飯を頬張りつつ、美味しそうに身体を揺らす椎名を見ながら、俺は深くため息を吐いた。

「あえ、中野、食べないの?」

「食うに決まってんだろ、というか俺が作った飯だ」

「美味しいよー」

「知ってる」

嬉しそうに口元を綻ばせた椎名の笑顔に、つい先ほど吐き出したため息すら消えてしまうほどの嬉しさを感じている自分がいて情けない。
帳消しどころか貯金が貯まりそうな勢いだ。

「あ、あのさ、朝からする話じゃないとは思うんだけどさ」

まだ食べ途中の茶碗をテーブルに置いた椎名は指をくるくると目まぐるしく動かしながら、懸命に言葉を選びながらたどたどしく話し始める。

「ん?」

「昨日は僕が中野のベッドで寝てたじゃん?」

「ああ、だから仕方なく家主の俺が床で寝たな。まあ俺の方が先に起きるし踏みつける心配がないのは悪くない」

「そうじゃなく、え、えっと、僕としては割と頑張った方だと思うんだけど、中野は布団敷いて寝ちゃうし、ちょっと焦ったというか」

視線を斜め下に落とした椎名は顔を真っ赤に染めてちらちらと俺の方を見たり、視線を逸らしたり……。
それって……

「これからも俺に床で寝ろと」

「違うから! 中野、僕に散々鈍いっていうけど自分だって鈍い!」

「お前にだけは言われたくない」

「鈍感!!!」

言葉と同時に袋に入ったままの味付け海苔が顔面にビタンとぶつかる。
痛い訳でもないし衝撃すらほとんどないのだが、食べ物を遊び道具にしてはいけないと教え込まなければならない。

「ムグゥー!!!」

「食い物で遊ぶな」

「きょ、今日だけは謝らないぃいい!!!」

頬を抑えていた手を跳ね返すように椎名の頬がぷぅと膨らむ。
かわい……、生意気な奴だ。

食べ物で遊んだ罰と称して椎名の頬の感触を楽しみ、結局解放したのは10分ほど後の事。



椎名がベッドで眠った本当の理由を知り、俺が据え膳を食い損ねていた事実を知るのはそれから1か月ほど先の事。

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あきゅろす。
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