◆短編
水底の楽園
吐き出した息が円になり、コポリ、コポリと音を立てて身体から抜けていく。
冷たくて真っ暗な世界に唯一見える月明かりに手を伸ばそうとするものの、まるで私を拒むかのように小さくなっていった。
(死ぬって、怖いな……)
水神を鎮める為に育てられた私が生贄に捧げられるのは当然の成り行きで、来るべき時の為、大事に育てられた事も理解している。
だけど怖い。
身体を支配する冷たさは身を刺すような水温の所為か、それとも確実に忍び寄る死の腕か。
終わりを告げるようにゴポリと最後の空気が吐き出され、代わりに肺を水が満たしていく
薄れていく意識の中、視界を埋めた煌めきは私の死を見守る月の瞬きだったのだろうか?
・
・・
・・・
「ニエ、ニエは居るか」
「はっ、はい、こちらに!」
元々不器用者の私はいまだ水中での動きに慣れておらず呼ばれた声の方向に進もうとするものの、その場で情けなくもがくばかり。
傍にいた小さな魚がクスクスと無様な私を笑う。
『うふふ、ニエったら水神様がお呼びなのに』
『あはは、ちっとも前に進んでないじゃない』
『くふふ、ヒレを持ってないニエって可哀そう』
歌うように滑らかな声で私を馬鹿にする小魚は、周りをスイスイと泳ぎながら道を塞ぐ。
強引に進めば身体がぶつかって小さな彼らを傷つけてしまうし、ここに留まれば水神様のお呼びに答えられない。
進む事も戻る事も出来なくなってしまった私はただオロオロとするばかりで、無情にも時間だけが過ぎていく。
「ニエ!」
身体が流されるような激しい水流と雷のような大きな怒鳴り声が響き、それと同時に水が流れを作りはじめる。
それは次第に明確な形を作りだし、よく知る私の主へと姿を変えた。
水の流れのように長く美しい髪の毛は高貴な紫を品よく混ざった薄紫色で、透き通るように白い肌は陶器のような妖艶な滑らかさを持っている。
凛々しく整ったお顔立ちは眼元を飾るまつ毛の一本まで美術品のようだ。
「水神様〜」
「……まったく、またそんな小物に馬鹿にされおって。散れ!」
『キャー、アハハ』
水神様がスッと手を動かすと指先からあちらへと流す水流が生まれ、私を囲んでグルグル回っていた小魚たちは笑い声をあげながら流されていく。
まるでこの時を待っていたかのようなはしゃぎ様に、水神様も小さくため息を吐いた。
「お呼びに答えられず申し訳ありません」
「気にしなくていい、あやつらに絡まれていたのだろう? お前の事を気に入っているようだが、悪ふざけ過ぎる」
「私の泳ぎがからかいたくなる程に下手なのも原因な気がします」
「ニエはまだ人の身だからな」
水神様の手がスッと伸び、私の輪郭をなぞって耳に触れた。
水に馴染んだ者とは違う人間の耳の形、そう、水底に住みながらまだ私は人として生きている。
あの日、生贄として捧げられ短い生涯を終えようとしていた私を救ってくれたのは、他ならぬ水神様だった。
沈みゆく私の身体を抱き寄せて、口移しで口に注がれた空気はとろけるように甘く、死ぬというのはこんなにも幸せな事なのかと錯覚したほどだ。
結局人間など食わんと食べる事を拒まれて、行くあてのなくなった私は、水神様のご厚意で傍へと仕えさせていただいている。
時折小魚にからかわれてしまう事もあるけれど、生贄として生きていた頃に比べて随分成長したように思う。
そして水神様が付けてくれた「ニエ」という新しい名前も気に入っている。
生贄だからニエなんてちょっと安直だけれども。
「あの水神様、なにか御用時だったでしょうか?」
「御用時もなにも、そろそろ息が切れる頃だろう」
「え、あ……」
水神様の力で水の中でも暮らせるようにして貰っているもののその力は永遠ではなく、一日に一度必ず水神様のお力を頂かなくてはならない。
確か昨日お力を頂いたのが月が真上に来た頃で、今はもうすぐ月が真上に……。
「息が切れる!」
「だから言っているだろう」
水神様の腕が水の抵抗も重みも感じさせない動きで私を抱え上げる。
普段は見上げるばかりなので水神様を見下ろすのは新鮮だ。
覗き込んだ水神様の瞳は澄んだ色をしており、眺めていると意識が取り込まれてしまいそうだ。
視線が、離せなくなる。
「ニエ、口を開けて」
「は、い」
徐々に近づく水神様の顔に全身が震えた。
ちゅ、ちゅ、と濡れた音を立てて軽く唇が触れあい、重なった唇の隙間から徐々に水神様の舌が口内に入りこむ。
絡み合う舌から伝わる熱と意識を蕩けさせる甘さ、荒くなる息とは裏腹に呼吸が楽になっていく。
次第に自ら水神様の舌にしゃぶりつき、役目を終えて離れた舌を追って水神様に縋り付いていた。
「ん、まだ息苦しいか?」
「あ……」
まるで赤子のように水神様に甘えていた自分に気づき、全身がカッと赤くなる。
あまりの恥ずかしさに言葉の出ない私は、言葉の代わりにフルフルと首を横に振った。
そんな私の内心を見透かしたように水神様はクスリと笑うと、私の頬を優しく撫でた。
「惜しくなるな」
「え」
「ニエが水中で呼吸できるようになってしまったら、この表情が見られなくなるのかと思うと惜しくなる」
「す、水神様!」
からかいを含んだ水神様の瞳の奥にどこか強い熱を感じて背筋がゾクリと震える。
その震えは決して不快なモノではなく、水神様の熱が私に移ってしまったかのように全身が熱い。
「ニエ、もう一度口を開けて」
「もう、息苦しくないです」
「俺がしたい」
指で唇を撫でられて、ムニムニと刺激された口が自然に開いていく。
ゆっくりと重ねられた水神様の唇に、私はもう地上に帰れないだろうと確信した。
だけどそれは寂しい事ではない。
私の幸せは、ここにあるのだから。
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