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◆短編
絶望エクストリーム
歩き出そうとした瞬間、靴の紐がほどけた。
鼻をかもうと取り出したティッシュが空だった。
紅鮭のおにぎりが目の前で売り切れた。
ドアノブを掴もうとしたら静電気で指先が痺れた。

恋人に浮気されてフラれた。

何のことはなく日々は過ぎて世の中は今日も平和だというのに、なんで俺だけがこんなに不幸なのか。
きっと考えても答えは出ない。

それにどこか麻痺してしまったのか、俺はあんまり不幸ではなかった。
嫌だとか、痛いとか、面倒くさいとか、ネガティブな感情は湧いてくるのに、すべてが嫌になった訳でもないし、明日が不透明でも嘆いたりしない。

好きだと思っていたはずの恋人も別に男がいると知った瞬間、この胸に感じたのは嫌悪感ばかりで、ショックを受けるより先に眉を顰めていた。

もしかしたら恋人は浮気した事を怒って欲しかったのかもしれないし、悲しんで欲しかったのかもしれない。
でも俺の心は別に怒りも悲しみも感じないで、ただ目の前の別の男に抱かれた恋人をどこか遠くの事象のように感じていた。

現実感がどこかに忘れてきたみたいに置いてけぼりだ。

「意識していないだけで傷ついてたんじゃないの?」

スッと出されたウーロン茶は氷がたっぷりで喉を潤す分なんてほとんどない。
だけどこれで500円、暴利。

「俺、頼んでないけど」

「傷ついてる宮くんに私から奢り」

紅い唇に指を当ててにっこりと微笑んだママには俺と同じチンコがついている。
だけど綺麗。

ママみたいに綺麗だったら人生楽しいんだろうか?
恋人に振られたら悲しいって素直に思えるのだろうか?

「傷ついてる、かな?」

「さあ?」

「ちょっと」

「いいじゃない、私が勝手に宮くんを癒したいんだから」

薄暗い店内は他に客がいないのか空いており、ママは自分の分のオレンジジュースをマドラーでかき混ぜながら笑う。
スッと持ち上げられたマドラーの先から水滴が一粒置いた。

「……口説いてる?」

「あら? 私は前から宮くんに好きだって言ってるけど?」

確かに以前から店に行くたびママは俺の事を好きだと言っていた。
だけどそれってリップサービスだ、きっと同じ言葉を誰にでも言う。

「嘘ばっか。だって俺バリネコだもん、恋人の事まともに抱けなくて掘って欲しくて浮気されるような甲斐性ナシだもん」

「そうなの? じゃあピッタリじゃない」

「は?」

「女装家がネコだなんて思い込み駄目よ?」

「え、ママってタチなの?」

その綺麗な顔で男を抱くのかと思うと、何だか凄い背徳感。
組み敷かれる男が喘いでいるのを想像すると興奮するし、なによりママが男を犯しているのを考えると妙な高揚を感じる。

「どっちも試したけどタチの方が好きねぇ、あとは奉仕するのが好きなのかも」

「おふぇら?」

「全身どこでも、例えば……」

「うひゃっ?!」

スッと伸びた腕が俺の髪の毛をかすめ、耳に優しく触れる。
決して嫌な訳ではないのだけど、その優しい触れ方はもどかしくてゾクリとしたものが背中を走った。

「耳のくぼみに舌を這わせて隅々まで舐めてあげたいし、おへそも奥まで可愛がってあげたい。足の指一本一本に舌を絡めてふやけるまで口の中でマッサージしてあげるのも楽しそうよね」

俺の耳を撫でながら、いや、これって、愛撫?
なんか、なんか、下肢に熱くて重い感覚がしてやばいんだけど。

耳を軽く揉んでいた指が首筋を滑り、うなじを爪先で嬲る。
あがりそうになる息を必死で抑えてママをキッと睨むが、感じるのを堪えて真っ赤になった顔でどれだけ効果があるのかはわからない。

「う、うなじ、くすぐったいんだけど!」

「違うでしょ」

「え?」

不意に首筋から熱が離れ、スッと耳元に風を感じる。
それがママが耳元に顔を寄せたのだと気付いたのは

「感じてるんだろ?」

低くて甘い声が鼓膜を揺らしてからだった。

揺さぶられた脳みそがグワングワンと危険信号を出している。
その男は危険だって、好きになったりしたら絶対振り回されるって。

「ママって」

「なぁに?」

「……、浮気とかしない?」

「もちろん一途よ」

こんな事確認するなんて、やっぱり傷ついていたんだろうか?
火照った頬を冷まそうとウーロン茶を煽るけれど、やっぱり量が少なくて全然火照りが抜けない。

「恋人とかいないよね?」

「いないけど、付き合いたい人なら目の前に」

「う、ぐ……」

あ、なんか、もう、俺って尻軽なのかな?
今日恋人と別れたばっかりなのに、今もうママに傾いてるって、恋人の浮気云々って言えなく無いか?

「好きだよ」

低い声が俺の耳を甘く撫で、理性が少しずつ崩されていく。
この声で囁かれるの、気持ちいい。

忘れてしまったみたいに言葉がつまって返事が出来ない俺は手の平をママの方に向けて伸ばす。
緊張で指先が震えて凄く情けない。

だけどママはそれを全部わかっていたみたいに俺の手に指を絡めて握ってくれる。
……知らなかった、ママの手の方が大きい。

「ねえ宮くん、私浮気はしないんだけど」

「うん?」

「その分恋人を愛しすぎちゃうタイプだから覚悟してね?」

「え?」

ペロリと唇を舐めたママからは普段見せている柔和さが消え失せ、欲を滲ませた雄を感じさせた。
あれ、もしかして、俺、早まった、かな?


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