◆短編
掬う手
始業時間の1時間前。
まだ誰も出勤していない部屋の中、いつも通り机を軽く拭いて、いつも通り薄いコーヒーを入れる。
ちらりと近くの席を見ると、昨日部下が残したであろう書類が机の上に堆く積まれていた。
いつもならきちんとその日のうちに終わらせるよう指示するのだが、とある理由で強く出れずに居る。
「エリーちゃん、優雅に休んでないで出してー」
通勤用の鞄の中から小さな虫籠を取り出しドアを開けるとふわりと蛍のように弱い光を放ち、浮かび上がった光球が一際強く光り、その姿を変えた。
「エーリッヒだ。名前くらい正しく呼んでくれ」
「エリーちゃんの方が可愛いじゃん」
光球から人間へと姿を変えた青年は、見た目だけなら美男子と言って遜色ないだろう。
だが、ぷうと頬を膨らませた顔は笑いを誘い、親しみや気安さを感じる表情だ。
何を隠そう、彼が理由である。
彼の名は光彦。
死神である私の手によって魂を刈り取られ、天に導かれた魂のみの存在だ。
光彦の魂を天に迎え入れてからすでに一月程の時間が経過した。
個体差はあるものの通常は数日で転生を受け入れて成仏するものなのだが、光彦は1月経つ今もまだ成仏していない。
珍しい事例である上に落ち着きのないコイツを放っておいたら、勝手に地獄にでも落ちそうだという上司の判断で今は私の家で飼っている。
言い方は悪いかもしれないが、家事は出来ない、時間は守れない、風呂は言われなきゃ入らない、頭も悪い。
……、比べるだけ犬に失礼かもしれない。
常に目を離す事が出来ずしょうがなく職場まで連れてきているのだが、ここに来たってひと所に落ち着いていられる訳がなく、暇になったと言っては部下にちょっかいを出している次第だ。
それでも生来のなつっこさの成せる技なのか、多少邪魔をしても本気で嫌われたりしない。
「それにしても一体いつまでフラフラと霊体でいるつもりだ?」
「童貞を卒業するまで!」
「……、無理じゃないか?」
「酷いっ!」
俺だってもてない訳じゃないだの、これでも告白された事があるんだからと光彦は目元に涙を浮かべて騒ぐ。
何を勘違いしているのかわからないが、私は光彦がもてないとは思っていない。
むしろその綺麗な顔ならば女性にもてるだろう。
無理なのは現在霊体な光彦が人間の女性に触れる事であり、すなわち触れなければ出来ない性交渉が不可能であると言いたかったのだ。
(いや、強く想ったモノに対しては触れる事もあるというから不可能ではないのか)
確立は0に等しいと言って過言ではないが。
「ここの女性達はどうなんだ」
「……うん、皆綺麗だよね。……うん」
話題を振った途端、小刻みに震え始めた光彦はきっと見てはいけない女性の裏側を見てしまったのだろう。
私の勤める課に勤める女性たちは皆一様に華やかで美しいが、その反面彼女達は酷く現実的で、容赦がない。軽々しく声をかけようものなら手酷いしっぺ返しを喰らうだろう。
そして光彦もその被害者(?)の1人となってしまったようだ。
自業自得だとは思うけれど小型犬のようにプルプル震える男は……、別段可愛くないが長く付き合っていれば情も湧く。
光彦の頭をクシャクシャと撫でると、情けない表情のままにへりと笑った。
「気長にとは言えないが、頑張りなさい」
「エリーちゃんって先生みたいだよね」
嬉しそうに言う光彦の声音は弾んでいて、頬はほのかに紅潮している。
死人の頬がこんなに健康的に色づいていていいのかは謎だが。
「こんなに出来の悪い生徒はいらんよ、私は」
「えー、可愛いでしょ?」
両手の人差し指を頬にあててにっこりと笑った光彦に、少し、ほんの少しだけ、強制的に成仏させてやりたいなんて思ってしまった。
光彦には言えないが、死神には強制的に霊体を成仏も出来る能力がある。
霊体は身を守る為の肉体をもたず、また非常にうつろいやすい。
良く言えば純粋、悪く言えば騙されやすいのだ。
数万人の魂を狩ってきた私だが、悪魔にその魂をかすめ取られた事は一度や二度ではない。
生き返らせてやる、身内に会いたくないか、そんな甘言に誘われて無垢な魂は悪魔の手に落ちてしまう。
そんな時、死神は無力だ。
せめて悪魔の贄とならないように強制的に成仏、いや、殺してやるしかない。
鋭い鎌の切っ先が霊体に突き刺さる感触は、何度体験しても慣れる事がなく、降り積もる様に救えなかった後悔だけが残っていく。
「エリーちゃん、どうかしたの? なんか暗い表情してるみたいだけど」
「ん、あ、……ああ、なんでもない。ちょっとぼんやりしていた」
「早起きしすぎなんだよー、寝不足だって絶対! 今日だって始業の1時間前に来ちゃうしさぁ」
「これでもなかなか起きないお前に会わせて30分ずらしているんだが」
「ギャー! どれだけ仕事好きなの、エリーちゃん!」
頭を抱えて信じられないと騒ぐ光彦の声は喧しい。
バタバタと忙しないし、一緒に来たって何を手伝ってくれる訳ではないし、手伝ったって対して役には立たないだろう。
だけど不思議な情が湧いている。
「仕事は好きだ」
「うえぇええ……、真面目ー」
「それぐらいしか私には長所がないからな」
仕事好きの真面目な死神だからこそ、フラフラと落ち着きのない魂を神の作り出した器から零れ落ちないように掬いあげる事が出来る。
「天職だよ」
彼が納得するまでその生を見守ろう。
ちゃんと最後まで面倒を見て、きちんと成仏させてやるのが死神の義務だ。
……、昔こんなフレーズを人間の世界のペット事情で見た気がするのだが、気のせいだと思いたい。
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