◆短編
夏の庭
細く長い指が縁側で寝転がる僕の頭と撫でた。
それは全く優しくない手つきでガシガシと動く手は少しだけ痛いけれど、僕はその手が優しいことを知っている。
「夏バテなんかしおってからに、お前は本当に役立たずだな」
「すみません」
ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らした彼は謝る僕を冷たい視線で一瞥すると、髪を指に絡めてクンと引いた。
地肌が引き連れる感触は痛みよりもくすぐったさが先立って、僕はムズムズと身を捩らせる。
「大体お前は妖怪の癖にこの程度の暑さでバテるなんておかしいだろう?」
彼が爪先で僕の角をピンと弾いた。
痛覚はないので痛みはないけれど、感覚が繋がっているからか弾かれた感触で脳が軽く揺れる。
僕が彼の庭に迷い込んだのは3年ほど前のこと、彼はあの頃から全く変わっていない。
人間だから年は取ったし髪の毛が伸びたりはしているけれど、変わらないのはその態度だ。
普通の人間ならば異形のモノを見れば恐れたり逃げ出したりする筈なのに、彼は持っていたホースの先をギュッと握って僕に向けた。
優雅な放物線を描いていた水の軌道が鋭く空を裂き、その切っ先が僕に向かう。
『なに勝手に人の家に入り込んでんだ!』
ビショビショに塗れた僕を冷たい視線で睨みつける彼は僕を恐れた様子すはない。
それどころか持っているホースで威嚇する有様だ。
あまり人と関わった記憶がない僕は『近頃は人間もたくましくなったなぁ』なんて変な所で関心してしまったけれど、今になってみると彼が特別勇ましいだけのようで、人はあまり変わっていない。
相変わらず僕を見れば恐れ、逃げ出す者ばかり。
そんな特別な彼とあまりいい出会い方こそしなかったモノの、今もこうして一緒にいたりする。
僕に特別な興味も関心もなく無駄に干渉してこない彼の傍は心地いい。
僕も彼に不必要に干渉したりはせず、お互いの心地いい線を越えないように気を使う。
馴れ合わず、適度な距離を保った関係は僕らに合っていた。
「近頃の人の世の暑さがおかしいのですよ、昔は夏といってもここまで暑くはなりませんでしたし」
「そうなのか?」
「ええ。元々の気温が高くなっているのも原因でしょうけど、昔はコンクリートやアスファルトではなく、土の地面だったので夜になれば熱も逃げて涼しく過ごせたんです。何で人間は自分から生きにくくしてしまんでしょうね」
「知らん」
短く明確な返事をした彼にクスクスと笑う。
実に彼らしい返事でなぜだか安心してしまった。
「人間なのに」
「別に俺がコンクリを敷き詰めた訳でもないし、俺は今の世の中が生きづらいとも思わないからな」
「おそらく人には生きやすいようになったんでしょうね」
機械、電気、道路、携帯電話、様々な発明が人の世を大きく変えた。
誰もが便利で快適な生活をしたいと思うのは当然で、人の世が大きく変わったのも当然だろう。
だけどその裏で様々なモノが失われ、僕たち妖怪が生きるのが辛い世界になってしまっていた。
それが悪いとは思わない。
時代というのはそういうものだと理解していたし、納得もしている。
だけど寂しい。
「この庭は変わらないですね」
季節によって様々な花を咲かせて四季の移り変わりを感じさせてくれる庭は、彼がきちんと整備しているからいつ来ても穏やかで優しい空気に包まれている。
ざあ、と吹く風もさわやかだ。
暑さにやられてしまうほど弱い妖怪の僕は、いつの頃からかこの庭以外だと当てられて弱ってしまうようになっていた。
おそらく自然が失われてしまったが為に、自然からエネルギーをもらって生きる僕たちは存在する事すら難しくなってしまったのだろう。
(こうしてこの庭に来れるのもあとどのぐらいだろうか?)
ここに来るのは義務ではないし、なにか用事があって来ている訳じゃない。
いつだって止める事が出来るはずなのに僕はなぜかそれをせずにいた。
「俺が生きてここに住んでる限り、この庭は変わらん」
「生きてる限り……、それはまた根気強い」
「そういう変わらないものが一つぐらいあったっていいだろう?」
自分の庭を見つめながら、彼は口元を綻ばせた。
ほんの僅かな表情の変化が珍しくて僕は彼の顔をじっと見つめる。
涼しげな彼の視線はまだ青い稲をそよぐ風に似ていて、見ていた僕の身体をスゥとさわやかな風が通り抜けるようだ。
「素敵だと思いますよ、変わらないのも」
出来ることなら変わらないでほしい。
この庭も、……彼も。
水をもらって青々と輝く庭木を見ながら僕は小さくつぶやいた。
「今日も暑いですね」
「何をする訳でもないんだから関係ないだろ、文句を言うな」
優しくない彼の手が頭を撫でる感触を感じながら、僕はゆっくりと目を閉じる。
情けなく夏バテはするし、アスファルト独特の臭気は鼻に辛い。
人の世の夏は妖怪である僕に特に生きづらい。
でも僕は夏が嫌いではなかった。
――彼と出会ったこの夏が。
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