短編 幸せな夢を見ていた 世界で誰より愛した者は、春の暖かな日差しを受けて微笑っていた。蕾が綻ぶ瞬間のような、まだなにも知らぬ幼子が母親に見せるような、そんな、柔らかく純粋な笑みで。それはあまりにも彼に似つかわしくない、けれど同時に最も彼らしい笑みだった。 「こんな世界も、こんな世界でのうのうと生きてる奴らも、ぶっ壊してやりたかった」 紅を差したように朱く、女子のようにふっくらとしたそれから紡ぎ出される物騒な言葉には、未だに慣れない。どうしたって違和感が滲みだし、思わず眉を潜めてしまいそうになる。もちろん実行したのは出会ってから本当に幾日も経っていない頃の話だが。今ではそれを受け流す術をしっかり身につけている。 しかしその本人はこちらの思考等には気付こうともせずに、光の加減によっては紫にも見える漆黒の絹糸を惜し気もなく靡かせていた。 「なんでだろうな」 本当に不思議そうな声音にはっと顔を上げる。そして坂本はひっそりと、無意味な疑問を心の中で問い掛けた。 先程物騒な言葉を放った人間とは思えない、少し困ったような、泣き出す直前のような笑い方をするのが癖であると、自分で気付いているのだろうか。 実際に声を出した訳でもないから答えなんて期待していない。けれど気付いてはいないだろうと、確信めいた思いを抱いてしまったのは坂本が幾度もその笑みを見て来たからだ。気付いているならば、そんな弱さにも似たそれを、素直に見せてはくれないだろうから。 「大事なものなんざ、あの人だけでよかったはずなのに」 彼はあの人だけで、と繰り返してやっぱり泣きそうに笑った。 いつになろうとその小さな身体が痛々しい程に追い求める面影。それは彼の戦う理由で。ひいては彼がこの世界に存在する、唯一つの楔でもある。 目の前の、世界を最も憎んでいる美しい人間は、坂本が会ったことのないその人の為だけに戦い存在していると、いつだったか淀みない声音で言ったのだ。 そうして先程よりほんの幾分かだけ強く、風が吹いた。降り注ぐ日差しのように、自分が愛した者を包み込むような優しさを含んだ風だった。 眩しそうに目を細め、これ以上漆黒の絹糸が乱れないように手を当てるその仕草に、坂本は泣き出してしまいたくなる。 数え切れぬ程の生命を奪った刀も、誰ともわからぬまま降り注いだ血液も、全て背負った屍も、目の前の少年のような大人には、全然似合わないじゃないか。 「なあ、辰馬」 「……なんじゃ?」 競り上がる涙も鳴咽も悟られないように、坂本は応えた。それだけでもう、精一杯だった。 けれどその全てを見透かしたように笑うから。ちょっと困ったような、泣き出す直前のような顔で、それでも幸せを滲ませたように笑うから。坂本はもう、なにも言えなくなる。 愛した者は、そんな自分さえ包み込むような笑みのまま、柔らかく言葉を紡いだ。 「気付いたら、好きになっていた」 言わせては、ならなかった。その言葉は、自分が言うべきものだった。 この言葉を言うだけの決心がつくまで、どれほどの葛藤を繰り返したのだろうか。壊したい程憎む世界に好きなものができたと認めるまで、どれほど苦しんだのであろうか。 なにもかも受け入れるような、そんな、穏やかな顔をして。 「っ……わしも、好きじゃ」 思わずその華奢な身体を抱きしめていた。 それでもまだ、この有り余る想いを伝えられない。どれほど伝えても、伝え切れない。 「世界で一等愛しちょる……!!」 抱きしめた相手の顔は見えなかったが、気配で笑ったことがわかった。 それはあの、ちょっと困ったような、泣き出す直前のような顔ではなくて、ただ純粋な、少年のような笑みだった。 彼もきっと気付いている。もう決して、今までの自分ではいられないことも。今までのようにただ純粋に大事だった人を追い求めることなんてできないことも。大事な人が隣にいた頃の幸せな夢に浸れないことも。だって、今まで拒み続けていたこの世界の一部を、受け入れてしまったのだから。 それでも自分の腕に抱かれた愛しい人が、笑顔であればいいと思った。出来るなら、自分の隣で。出来るなら、幸せなそれを。一生涯見ていたいと思った。 柔らかな、初夏の風に包まれながら。 幸せな夢を見ていた (これからはもう、)(夢なんかじゃなくて) 終 [*前へ][次へ#] [戻る] |