君
「待って。」
薄暗い部屋の中心、彼女はヨマワルの手を取ろうとしていた。よかった、間に合って。
「マ、ツバく…」
彼女の顔が青冷めていく。そんなこと構わずに、僕は彼女の目の前に立った。
「えっと、あ、どうしたの?あの、」
「もういいよ。」
「…、なに、が…?」
埃臭くて、泥臭い。その空気を大きく吸い込む。そして「僕、」小さく小さく吐き出した。
「 全 部 知 っ て る よ 。 」
そう言った瞬間、冷えた空気が、彼女の表情が、凍る。自分で言っておいて僕は泣きそうになった。それでも言わなければ。彼女の唇が震える。
「…ぜんぶ?」
「…そう、全部。」
名前の瞳が涙を溜めて弧を描いた。そのせいで溜まった涙はつるつると頬を伝っていく。拭おうと手を伸ばして、やめた。どうせ拭えないからじゃない、自分の服を握っていたからだ。
「ミケは、名前だったんだろう?」
名前は微笑んだまま頷いた。
「名前は、もう"ここ"にいないんだろう?」
名前の笑顔が崩れる。それでも名前は頷いた。
「ごめん、マツバくん、ごめん、会いに来て、ごめん、ごめんね…!」
どうして謝るの。そう言おうとしたのに、一緒に涙も零れそうで言えなかった。目頭を強く押さえ、一拍置いてから搾るように声を出す。
「どうして、会いに来たの。」
溢れた言葉は余裕が無さ過ぎて、鋭く名前に突き刺さった。違う、こんな言い方がしたかったんじゃない。咎めている訳ではないのに、これじゃあ彼女を否定しているようだ。ああ、訂正しなければ。そう思うのに、喉が熱くて声が中々言葉を生めない。本当に言いたいのはもっと違う言葉なのに。
「ごめんね、」
「………、」
(ううん、嬉しいよ。)
「ごめん、ごめん、私、ごめん、」
「……………っ、」
(だから謝らないで。)
「ごめん…でも、それでも、どうしても会いたくて、」
「………っ、………、」
(それは、僕の方だ。)
「だって私、私ね、」
「……、…………っ」
(だって僕は、)
「マツバく、のことが、ずっと、ずっと好きだったから…っ」
呼吸が、止まる。
どうして、どうしてどうしてどうして、
「どうして名前は、ここに、いないんだろう…っ」
君がここにいたら、抱きしめることが出来るのに。どうして君はここにいないんだろう。どうして取り返しがつかなくなってから、そんなことを知らなきゃいけないんだろう。どうして、僕もだよ、そんな幸せな言葉が涙でつかえなきゃいけないんだろう。
ついに涙が零れ落ちた。ぼろぼろぼろぼろ、止めどなく。俯いて拭うけれど追いつかない程に零れた。
「どうしてわた、し、ここにいないんだろうっ」
同じようにぼろぼろ涙を零して、名前が叫ぶ。
「ここにいたら、マツバくんの涙、拭いてあげるのに…っ」
視えるのに、いない。こんなにお互いを求めてるのに、触れられない。歯痒い、つらい、悲しい、悔しい。二人分の涙は重力に従って落ちるか、自分の服の袖に拭われるかしかしない。
「僕はね、君がもういないって、認めた、くなかったんだ。」
嗚咽を堪えながら言う。もう涙は拭わない。だって僕の手には時計があったから。この時計は、引っ越し祝いなんて理由に始まったものじゃない。時計を、撫でる。
「名前を、ここにいるように扱おうって、」
「いや、いるように扱ったら、いるようになるんじゃないかって、」
「そう思って、君にこれを買ったんだ。」
「君が着けられない、のを、知っていたのに、」
「もしかしたら、あっさり着くんじゃないかって…」
途切れ途切れの言葉を、名前は最後まで頷くだけで聞いていた。しゃくり上げているからきっと喋れないんだろう。ああもう、可愛くて仕方ない。好きだ。好きだ好きだ。「ねぇ、」
「いかないで。」
そう言った途端、お互いに俯く。酷かった涙が更に酷くなったからだ。喉が焼け付くように熱い、舌が上手く回らない、視界がぼやける。それでもどうにか言葉を吐いた。
「嘘、だよ。」
それこそ嘘だとわかる程に震えた声が、情けない。誤魔化す様に急いで次の言葉を作った。
「手、出して?」
「…手?」
怖ず怖ずと名前の左手が差し出される。止まった時計がまた涙を誘おうとしたけれど、何とか耐えた。
「目を閉じて。」
「…?」
首を傾げたものの、名前は素直に目を閉じる。僕はゆっくり、時計を持たない右手で彼女の手に触れるような動作をした。実際には触れられないけれど、僕も目を閉じる。
「僕、今名前の手、握ってるんだよ。…わかる?」
「……っう、…わかる…っ」
そっと握る様に指を曲げてみた。きっと名前も曲げているんだろうと思ったら、泣きながらも笑えた。僕らがしていることはあまりにも滑稽だ。
「あのね、僕も、名前にずっと言いたかった、ことがあるんだ。」
返事はない。代わりにしゃくり上げる声が聞こえる。
「君がいたおかげで、今、僕はここにいられるんだよ。」
「だから、」
「君がいて、本当によかった。」
言いたい事は山の様にあるけれど、今言いたいのはこんな事じゃない。もっと、もっと大切な事だ。早く言わなければ。そう思うのに、上手く言えない。
「次に会ったら、僕が君を、元気にしようって、ずっと思ってた。」
名前のしゃくり上げる声が、小さくなった。
「だって、僕は、…、」
名前のしゃくり上げる声が消えていく。
「っ僕は、名前のことが──」
──かしゃん。
乾いた音に目を開ける。そこにはもう、名前もヨマワルもいなかった。上げたままの右手が、冷たい。床を見ると、止まった時計が埃の上にのっている。ああ、また、
「また言わせて、くれなかったね。」
名前は昔から、意外に意地悪な女の子だった。それで、僕は昔から、名前のことになると涙もろい。今も、ぼろぼろ零れる涙が止まらない。仕方ないから幼いあの日そうしたように、またこの場所で暫く泣こう。
彼女はもう帰ってこない。それでも、
「今度こそは、僕がやれるようにしよう。」
今の今まで気配を隠していたゲンガーが、僕の前で大きく頷く。僕は涙を拭わず、ぼろぼろ零しながら自分に言い聞かせる。そう、僕にとってのたった一人の彼女、彼女に恥じない人間になるために。
「僕が、名前を元気にしてあげるんだ。」
そのために、僕は止まらないでいよう。彼女を忘れるなんて出来ないけれど、地面を見て歩いたりはしないでいよう。次に会うときに、彼女を直ぐに見付けられるように。
彼女が消えて、冬が来て、年を越した。今はもう春が来ようとしている。僕の家の庭の桜が蕾をつけて、咲くのを今か今かと待っていた。ゲンガーが今年もそれを無理矢理開こうとするので、今年もフワライドが止めている。春が終わったら今度は梅雨。僕はあれから――彼女が消えてから、雨が苦手になった。泥臭いあの臭いが、こびりつきそうで。
僕はしゃがんだまま、ポケットから似たデザインの時計を取り出し、眺めた。一方は7と8の間で短針と長針が止まっている。もう一方は今の時刻を正確に指していた。
と、と、
薄暗い空間の奥から、足音がする。どうやら、挑戦者らしい。僕は眺めていた二つの時計をポケットにしまって立ちあがった。そして、真っ直ぐ前を睨む。
心配しないで、
「ようこそ、エンジュジムへ。」
僕は今日も前を向いているよ。
ふ わ り
(掴めない)
(掴めなかった)
(それでも君は生きていた。)
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