あー、疲れた。
そう内心呟きながら、心がパソコンの画面から外へと視線をうつすと、複雑な色をした空が窓いっぱいに広がっていた。
青と群青と赤とオレンジが混ざりあったような、少し不思議な色。
沢山の色の中を、黒い烏が四羽、連れだって飛んでいく。
(烏は山に……とかいう歌だったっけか)
その風景に、子供の頃に母が少し外れた音程で歌ってくれた童謡を思い出し、ふう、と一息。
なぜだか先ほどよりさらに押し寄せてきた疲れに、心は液晶の見すぎで重い目頭を指で揉んだ。
今日片付けなければならない仕事は、すべて片付けた。
3日後の会議で使う資料作成も、つい今さっき、やっと終わったところだ。
ちなみにこれは、定時で上がろうとした矢先に、いつものごとく嫌がらせで先輩から押しつけられた仕事である。
(誤字脱字はねえよな……と)
心はすぐ横のプリンターからプリントアウトされたばかりの資料をとる。紙が熱をもって少し、あたたかい。
ざっと目を通しながら、つい一時間ほど前に同じ部署の女性が淹れてくれたコーヒーに口をつける。
口内に広がる独特の苦味に、少し体の疲れがとれた気がした。
資料は、我ながら文句なしの出来前だ。
さすがだ。心は誰にも聞こえないよう心の中で、そう自分を褒めた。
(帰るかな)
少し伸びをし、心は、それとなくぐるりとオフィス全体を見渡す。
いつも嫌味を言うばかりの上司も先輩も、今はもう帰宅していた。
今日はもうこれ以上、仕事を任されることはなさそうだ。
(……仕事、もうないよな?)
自分の後ろの席でうんうん唸りながら作業をしている後輩二人には、たしか指導係がいたはずだし。
仕上げておいた方がよさそうな仕事は仕上げた。
やり残しもミスもないだろう。
念のため一通り確認すると、心は席を立ち、帰り支度を始めた。
今日は珍しく、真っ暗になる前に会社を出れそうだ。
(夏だから、日が長いというのも理由の一つだが)
それ自体は、非常に嬉しいことなのだが。
(はやく、帰らねえと)
(……何買ってこいっつわれたんだっけな……)
はあ、と溜め息を吐きながら、つい眉間に皺が寄るのを感じた。
最早クセとなってしまったそれを、今更治そうとは思わない。
「笹田ァ、ちょっといいか?」
書類のつまった複数のファイルを一つ一つ鞄に詰めていた心の背中に、そんな声がかかる。
心は、その声にピタリと一瞬動きをとめた。
なぜなら、その声の主は、溺愛する彼女とのデートだ食事だと言ってよく心に仕事を押しつける、同僚の小島だからである。
「言っておくが残業はパスだ断固拒否する」
「ぅお、まだ何も言ってねーよ」
振り返ると同時に言えば、小島はケラケラと笑ってみせた。
「それに残業じゃねーよ、残念ながら今日はな」、と言ってのける小島は、もう鞄を持っていた。
「……なんだ?」
「今からよ、“ジゴロー”に飲みに行くんだわ。俺と佐伯と松田で。お前もどう?」
「……あー……」
小島のその誘いは、心にとって非常に魅力的だった。
“ジゴロー”というのは、駅のわりと近くにある個人営業の居酒屋で、こじんまりした店なのだが酒も料理もつまみも旨いので、心や小島のお気に入りだ。
しかも飲みに行くメンバーも、基本的に同じ部署の中で親しい人間がいない心にとって、数少ない友人である三人である。
(小島はよく心に残業を押しつけるが、それも小島ならば許せる…気がする)
そして、今日は土曜日、明日は休み。
前に飲みに行ったのは、もう4か月も前だ。
本来ならば、断る理由はない。
しかし。
「悪い、今回はパス。また近いうちに誘ってくれ」
心はそう言って、鞄のチャックをしめて手にとった。
小島は少し意外そうに目を瞬かせた後、ニヤニヤと笑いだす。
そんな小島に、思わず心は「きもっ」と呟いた。
「なんだぁ? オンナでも出来たか、このこの!」
「出来てねーよ、お前の頭ん中そればっかだな」
「彼女、かわいい系? それともあやちゃんみたいな美人系?」
「俺の話聞いてねえなお前」
あやちゃんというのは、小島溺愛の彼女である。
クールそうな美人という見た目に反して、中身は電波をとおりこして宇宙人だと言われるほど、思考回路がぶっ飛んでいる。
ちなみに、彼女は心の大学時代からの友人だ。
ほんとお似合いなカップルだな、と内心呟きながら苦笑してしまう心。
そんな二人は、正直微笑ましい、とすら思う。
「ま、とりあえずまたな。佐伯と松田にもよろしく」
「おうーまたな!」
「彼女出来たら一番に紹介しろよっ」などとしつこく言っている小島のことは、「ハイハイ」と軽く流した。
そこで心はふと、自分の腕時計に目を落とし、しめされた時間に少し、顔を強張らせる。
時刻は、19時を過ぎていた。
「やべ……そんじゃ、またな!」
「……やっぱカノジョ、」
「だからいねえっつってんだろおたんこなす」
そう懲りずに言い続ける小島に、背中越しにスパッと言い返し、残っている社員たちに短く挨拶をして、心はオフィスを後にした。
(なんだか、なあ)
行きたいはずの飲みに行けないわりに、つい足早に帰路についていることを自覚して、心は眉間に皺を寄せた。おもしろくない。
なんでこうなったんだ、と内心呟きながらのため息は、誰に聞かれることもなく、静かに宙に溶けた。
(今日はメシ、なんだろう)
そんな心の背中を見送りながら。
「やっぱ彼女が出来たんだな、あやちゃんの方が可愛いだろうけど!」
と小島が一人ニヤニヤしていたことは、心の知らない話である。
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