深夜2時、終電もとうになく仕方なく乗り込んだタクシー。
明らかに労働法違反な残業、それをやっと終えての会社帰り。
体は疲れきっていて、だがそれ以上に精神的に笹田 心は疲れはてていた。
「……○○駅まで」
行く先を聞かれ、短くそうとだけ答える。
最寄り駅から心の自宅までの道は非常にわかりにくく、しかもところによっては一方通行だ。
そのせいでいつもタクシーに乗っても10分少々歩くハメになる。
ハア、と重い息を落とし、重い体をシートに沈めた。
「あ、ラジオうるさいですか?」
「……いいですよ、別に」
嫌なこと苛立つこと疲れることなら、数えきれないほどにある。
嫌味を言うだけの上司。
表面では祭り上げてくる同僚と後輩。
騒ぐだけで仕事をしない同じ部のOLたち。
押しつけられた連日の残業。
乗り込んだタクシーの煙草くささ。
逆に、嬉しいこと楽しいこと癒されることは何一つない。
いつからだろう。繰り返す毎日が、ひどくつまらなくて窮屈で、息苦しく感じるようになったのは。
「シートベルト、してもらっていいですか?」
「……あ、はい」
「すいませんねぇ、最近うちの会社うるさくてねぇ」
そう言う運転手のすぐ左側にある灰皿は、煙草の吸い殻でいっぱいだ。
(……運転手のマナーにはうるさくねえのかよ)、と毒づきながら、口に出すのも面倒で、黙ってシートベルトに手を伸ばす。
疲れた体に少しの圧迫感を不快に感じながら、運転手に向かい「お願いします」とだけ言って、車窓から見えるネオン街に目を向けた。
その声音にか、運転手が苦笑したのを感じる。
たしかに、自分でも少し苦笑したくなるほど、疲れきった声だった。
(……帰ったら、風呂入って昨日の残りのカレー食いながら明日のプレゼンの資料仕上げて、終わったらこないだの企画の報告書作って……)
「……すいません、あの、」
帰宅してからの今夜のスケジュールを考えたところで、心はどうやら今夜は一睡も出来なさそうだということに気付いた。
それならタクシーの中で少し寝かせもらうため、「駅に着いたら起こしてもらえますか?」と頼もうと、口を開く。
だが、その途中で。
突然、まだ動き出していなかったタクシーの扉が開いた。
心の乗り込んだ後部座席の、扉が。
「………は…?」
ポカンとして、心はそれ以上の言葉もなくその開いた扉を見た。
なんで開くんだ、酔っ払いか?まさか強盗じゃないだろうな……。
そう残業で疲れはてた頭を働かせる。
しかし、そんな心の考えをよそに、ひょいと車内をのぞきこんできたのは、至極まともそうな(あくまで、まともそうなだけであるが)――青年だった。
(なん、だこのガキ……)
年齢は、おそらく心よりもいくつか年下だろう。
ガキ、と呼べる年かはわからないが、社会には出ていないだろう。まだ、雰囲気が幼い。
しかしそれでいて、青年には、どこか言葉にしにくい独特の雰囲気があった。
知り合いに、こんな男はいなかったはず。
困惑する心を他所に、車内に心の姿を確認すると、青年は――心の目の前で、その顔に、緩い笑みを浮かべて。
「お疲れですね、オニイサン」
「は?」
酔っ払いにしては、しっかりとした口調で、そう言った。
そして、予想だにしなかった言葉に余計に困惑する心に、満面の笑みを向ける。
そして、高らかに、
「オニイサン、さあギブミースマイル!」
−−そう、言い放った。
「…………は?」
心のこの反応は、至極当然のものだろう。
見ず知らずの年下の男に、突然こんなことを言われたのだから。
むしろ、これ以外に返す反応があるのなら、教えてほしいものだ。
「ん?」
しかし、相手はそうは思わなかったようで。
きょとんとした表情で、心をじっと見つめてきた。
(………いやいやいや、)
「な、に?」
本当は「ん?じゃねえよなんなんだお前意味わかんねえつかどっか行けよ俺は帰って仕事しなきゃいけねえんだよ何がギブミースマイルだ酔っ払い!」と言ってやりたかったのだが、それをすべて言葉にすることが出来ないほどには、心は動揺していた。
「……んん?」
当然だが心の言いたいことがきちんと伝わっていない青年は、不満そうな不思議そうな顔で、首を傾げる。
青年も心もお互いに目を反らさないので、視線は重なったままだ。
青年を見ながら心はガン、と運転席のシートを蹴るが、運転手は今は空気に徹している。
面倒ごとに巻き込まれたくないらしい。
思わず舌打ちしたくなるのをぐっと耐え、青年と数秒見つめあっていると。
「あ、そっか」
青年は、ポンと手を叩き、またにこっと心に笑いかけた。そして、今度は、こう言った。
先ほどと同じように、満面の笑みで。
誰よりも幸せそうな笑顔で。
「オニイサン、」
笑っておくれ!
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