9 「……困らせたくねえんだ」 佐上は、ひく、と喉を鳴らす。 涙が今にも零れそうなその瞳を、真っ直ぐに見つめることはできなかった。 「困らせたくねえ。傷付けたくねえ。……だから、言わねえ」 想いを告げたら、あいつは困るだろう。 本当は優しい奴だから、今までの俺との関係を悔いて、罪悪感を抱えてしまうだろう。 そんな姿、見たくねえから。 だから、言わない。 それに、言ったところで、何一つ報われるわけがない。 「幸せに、なってほしい」 (森下にも、お前、にも) だって、あいつはお前が、好きだから。 つ、と佐上の白い頬を涙が伝う。 ついに長い睫毛を濡らして零れたそれに、胸が痛んだ。 だけど、もう、抱き締めない。 「……佐上」 「……っ、……」 それでも極力優しい声で呼ぶと、佐上は嗚咽を噛みながら、ボロボロと泣きだした。 その頭を軽く撫でて、俺は吐き出す。 身勝手な、自分本意の願いを。 「佐上、忘れろ」 忘れて。忘れてくれ、佐上。 「幸せになって」 俺のことなんか忘れて、出来るならどうか、あいつと。 言えない言葉は飲み込みながら、笑う俺。 佐上は、嗚咽をこぼしながら、涙を流す。 しばらくそうやって、泣きじゃくる佐上の髪を撫でていた。 揺れる細い肩も、柔らかな体温も、あいつが愛するただ一つのもの。 あいつが想い、俺を想ってくれる、綺麗なぬくもり。 「……私は」 やがて佐上が、まだ喉の奥を小さく揺らしながら、言う。 上げられた顔は涙で濡れていた。 だけど、ああ、泣き顔まで綺麗なんだ、佐上は。 「私、は……後悔なんか、してないです」 「……」 「先輩を、好きになったこと。……だから、忘れたり、絶対しません」 先輩を好きだったことを、絶対に。 そう泣きながら真っ直ぐに俺を見つめる、真っ直ぐな佐上の言葉。 罪悪感も何もかも、包み込んで拭ってくれる、優しい言葉だ。 一方で、頭のどこかで、想いを吐き出せる佐上を羨ましいと思った。 俺には、絶対に、叶わないことだから。 何も言えずに黙っている俺を少しの間見つめてから、佐上は笑った。 涙は相変わらず流れたままだったけれど、すごく、綺麗な笑顔だった。 「先輩」 「…、……」 「好きでした」 ずっと、大好きでした。 そう笑う佐上は、本当に、綺麗で。 俺は、ありがとう、もごめん、も、言えなくて。 ただただ、佐上を見ていた。 「……お時間とらせてごめんなさい」 「……謝んな」 頭を下げる佐上に、俺はぶっきらぼうにそれしか言えない。心底自分が嫌になった。 だけど佐上は、「ありがとうございます」と、やっぱり柔らかく笑う。 「……私、先に戻りますね」 「……ああ」 「先輩も、早く戻ってくださいよ? 私のせいで単位落とした、とかやですからね」 「わあってるよ」 おどけて言う佐上。 だから俺も笑って、頷いた。 何度も、何度も。 「それじゃあ、失礼します」 「……ああ。……ありがとう」 また頭を下げる佐上に、やっとそれだけ伝えた。 ありがとう、と。 佐上は何も言わずに、ただ微笑んで、踵を返す。 俺はその背中を、見送っていた。 佐上の白く細い指が、ドアノブを掴む。 ゆっくりと開いたドアの向こうを見つめ、佐上はゆっくりと、その中に、戻っていった。 ばたん、と、ひどくゆっくりとした流れで、扉が閉まる。 佐上がいなくなった屋上には、俺だけが残された。 誰も、誰一人として、いない。俺だけ。 それを実感すると、俺は、フェンス伝いに、座り込んだ。 なぜだか、声を上げて泣いてしまいたい気分だった。 ← [戻る] |