不毛な、身分違いの恋なんて、しなければよかった。 そう彼はよく、俺に溢した。 あまり口数の多い方ではない彼は、酒に酔っている状態でも多くは語らなかった。 だけれども、普段決して弱音や不満、愚痴を溢さない彼のその台詞は、彼の心中を俺に悟らせるには、十分なものだった。 彼の想う相手の女は、血の繋がりはさほど濃くはないとは言え、有力な大名の親戚。 一方の彼は、武士に憧れ、俺と共に俺の父の道場で剣術を習う、江戸の町商店の、一人息子だった。 戦乱の時代ならばまだ、女に相応しい身分まで出世することもあり得ただろうが、この安穏とした時代に、それはまずあり得ない。 そして、大名の親戚の娘が、一介の商人と一緒になるというのは、有り得ないし、許されないことなのだ。 たとえどんなに、二人が愛し合っていたとしても。 「あの人に恋をしたことを、ひどく後悔することがある」 彼のその言葉は、俺にも共感出来るところがあるものだった。 「恋に落ちることさえなければ、……こんな思いを、することもなかった」 酒を片手に、ぼんやりと月を見上げる彼の横顔に、何時ものような力強さはなかった。 ただただそこには、哀愁だけがあった。 そんな彼の横顔を見てるのが、ひどく辛く。 俺も同じように、月を見上げる。 「許されない恋など……苦しいだけだ」 許されない恋。たしかに、そうなのだろう。 彼は、身分が違いすぎる女を愛し、許されない恋に、身を焦がしている。 女を盗み出しでもしない限り、決して一緒になることは、出来ない。 結ばれることは、ないのだ。 (、それでも、お前はまだいい、) (だって、想いを重ねることが、出来たのだから) 俺は、違う。 想い人と想いを重ねることも、それどころか、想いを伝えることさえも、許されてはいないのだ。 誰もが、きっと許さない。 誰にをも、この恋心を言うことは、出来ない。 許されない想い。 人知れず、消えていくのを待つことしか出来ない、想い。 「……辛いなら、捨てればいいんじゃないか?」 そんな簡単な話ではないことはわかっていたが、俺は言った。 俺から彼への、細やかな嫌がらせだった。 自分が最低なことをしているのは自負していたが、やめるなんて出来なかった。 何故ならそれは、俺自身への言葉でもあったからだ。 辛いなら、こんな想い、捨てればいい、と。 けれど俺の言葉に、彼は、その端整な顔を歪めて、首を振った。 「………出来ない」 「……」 出来ない。出来るはずがない。 そううわごとのように繰り返しながら、彼はただ月を見つめていた。 (或いは、月に重ねた彼女の影を、彼はただ見つめていた、) そして残された俺は、月を見つめる彼の横顔を、やはりただ、見つめた。 「どうしようもないほど、苦しい。胸が張り裂けそうな痛みを覚えることもある。……けれど、」 そこで彼はようやく、俺を向いた。 彼のその黒い双瞼が、切なげに、それでも強い意志を称えて、俺に向けられる。 その目に捕らわれて、俺は目が離せなくなってしまった。 彼は、僅かに目を細めて、そんな俺に、笑ってみせた。 「……それでも、どうしようもないほど、あの人を愛しているんだ」 「――」 彼のその目に、その笑顔に、その台詞に、言葉をなくした。 だって、あまりにも。 呆然と彼を見つめる俺に、彼はもう一度、柔らかく笑む。 そうして彼がまた月に向き合ったことで、やっとほどけた視線に、ようやく俺の思考は、再起動された。 そして、ぼんやりと、思う。 (嗚呼――お前も、同じ、) 彼も、俺と同じような、気持ちなのだと。そう思った。 そして、彼の返した答えは、何故か俺を安堵させ、同時に、締め付ける。 ← [戻る] |