[携帯モード] [URL送信]
第00楽章。





――ああ、落ちるように、
堕ちてゆく。






「ちょ、……ッ、オー、ナ……っ」


声が、冷えた空間に、虚しく響く。
その声の主である俺は今、暗く冷えた人気のない部屋のソファに、押さえつけられていた。思うように動けない俺の上に、覆いかぶさる一つの影。
革の生地のソファは、俺が横たわっていた部分以外はひんやりと冷たく、そこに触れた肌に鳥肌が立つ。
黒いそのソファはかなり丈夫な作りで、その上で大の男二人が多少揉み合っても、ギシリとも言わなかった。それがせめてもの救いだった。


「なに、考えてるんですか……っここ、店……」


焦ってしまって、普段のように喋れない。
それでも俺は、なんとかそう自分の意思を伝えようと言葉を募らせる。そしてそれを裏付けるように、彼の肩を両手で突っぱねて、押し返した。

そう、ここは俺の勤めるホストクラブの一室なのだ。
そして俺はその店の従業員で、俺を組み敷いている彼は、その店の、オーナー。


「誰か来たら、どうするつもりですか……ッちょ、っと、」


抗議している間にも、服の中に侵入しようとしてくる大きな手をなんとか押さえる。それにも、彼は口元を歪ませるだけだ。
店が営業を終えてから、まだ間もない。
接客の疲れと酒のせいで、ぐったりと眠っているホストがほとんどだろう。そうとは思うが、眠る場所を求め、まだ店の中を徘徊している従業員もいるかもしれない。


「安心しろ、誰も来やしねえよ」
「、でも……ッ、」


たしかに冬が明けきっていないこの時期、俺がいるこの部屋はかなり冷える。まだ店内に起きている従業員がいたとしても、滅多に人は寄り付かないだろう。だが、それでも誰かがくる可能性がないとは言い切れないではないか。
そう懸念する俺に、前髪を乱暴な仕草で掻き上げながら、彼は、ふっと嫌味に笑ってみせた。
俺以外の大部分の人間に見せる、落ち着いた優しげなものとは違うその笑みに、ぞくっとする。


「それに、その時はその時だろ? お前の淫らな姿でも見せてやりゃあいい。……ふ、店の連中、さぞや驚くだろうなァ?」
「ッ、なに……何を考えてるんですかあなたは……っ!」


なんて自己中心的で、非情な男。
そう思い、本格的に抵抗しようとした、その時。
見計らったかのようなタイミングで、彼は、俺の耳元に口を寄せる。
そして、低く掠れた声で、こう言ったのだ。


「……お前のことしか、考えてねえよ」
「……ッ」


耳元で囁かれたそんな言葉に、かあっと顔が熱くなった。
わかっている。彼のその言葉に、深い意味はないのだと。そんなことぐらい、とっくに。
でも、……それでも。


「……希一」


明らかに欲情した低く響く声に、意思には反して、体が芯まで火照る。
硬直する俺に、彼はまた笑ってみせた。
そして、俺の耳をわざと、甘噛する。それだけで、跳ね上がる体。


「、やめ……っ」


俺は、半ば反射的に顔を背け、彼の肩を押した。
その触れた服越しの熱に、一種の恐怖染みたものさえ感じながら。


俺が押してもびくともしない、逞しい男の肩。
俺をとらえる、欲情した鋭く黒い目。
いつも店の人間に向けられる柔和なものではない、男の表情。
ふとした瞬間にふわっと香る、彼のお気に入りの香水の匂い。
そのすべてに、眩暈さえ、覚えて。


(だ、めだ、)


それらの全てに、俺は今にも、陥落しそうだった。
彼を拒む理性。
それでもたしかに心は、体は、彼を欲していて。
だから、頭がこんがらかって、わけがわからなくなって。
耐えきれずに、俺は強く、瞼を閉ざした。ひどい、耳鳴りがした。


(やめてくれ、)
(もう、これ以上――)


もう何度繰り返したかわからない、懇願。
それを阻むように、その時、彼がまた俺を、呼ぶ。
小さな声で、そっと。
まるで、愛しおむように。



「――きい……」


それは……今はもう、彼だけが、情事の時にだけ呼ぶ、俺の呼び名。



「――っ」


だから、息がつまって、何も言えなくなって。
理性なんか、どこかへいってしまって。
いけないとわかっているのに、拒むことが出来なくなる。
目の前の男だけが、すべてになって、いく。


(拒めるわけが、ない)
(だって、俺、は)
「きい」


また、彼は俺を呼ぶ。
そうして落とされる、額に触れるだけの、恋人同士のような口付けに、内部まで深く深く、犯されていく。
彼に触れられたところ全てがじんじんと熱くて、まるで媚薬のような男だと思った。


「きい、」


俺の目を見た彼と目が合って、彼はうすく笑った。
その目の奥は、優しくて。


(ああ……、)
(そんな目で、俺を見ないでくれ)


拒めない。欲してしまう。……勘違い、してしまう。
目を反らしたいのに反らせないでいる俺の鼻頭に、またキスをする彼。
そして、彼は、言った。いつものように、いつもと同じ言葉を。


「俺を、呼べ」


――わかっている。
それは、鎖、だ。
俺を捕らえて離さない、俺を縛り続ける、引きちぎることも出来ない、鎖だ。


「……ッ、」


もうこんな想いをしなくてすむ方法なら、わかっている。
簡単なことだ。
呼ばなければいい。
呼ばずに、はっきりと、拒んでしまえばいい。
もしも呼んでしまったら最後、俺はそれにがんじがらめにされ、抜け出せなくなっていくから。
ああ――けれど。


『お前、名前は』
『……希一』


あの日俺はこの人に救われた。


『希一、お前は好きに生きろ』
『俺はあなたのために生きたいです。あなたを支えたい』


あの日俺はこの人のために生きると誓った。


『お前は、俺の言いつけを破った。……俺を裏切ったんだ、わかるか?』
『捨てないでください……ッ』


あの日、俺は――何があっても、何をされても、絶対にこの人なしでは生きていけないと、そう思った。
だから。……だから。



「…………風見、さん……」



ああ、鎖に捕らわれることを望むのは、いつだって、俺なのだ。

彼の名をいつものように紡いだ俺に、彼は、風見さんは、満足そうに口の端を吊り上げ、俺の衣服を暴き始める。
これから始まる、繰り返されるきっと意味なんてない行為に、やり場のない空しさを覚えて、泣き出したくなった。
それでも、涙を溢さないのは。


(だって、彼は、嫌うから)


そう言った、重いものを。
彼は、煩わしく思い、嫌う男だから。
だから、泣けない。


「風見さ……っ」


泣くことさえも、出来なくて。
それなのに溢れそうになる涙を、なんとか堪えたくて、俺は風見さんの右腕に、縋りつくように、触れた。


(ああ、……ふれられない)


泣かないために、涙を堪えるために掴んだ風見さんの腕から伝わる、風見さんの体温は、あたたかくて。
この腕に体温に触れることは出来ても、彼に触れることは出来ないんだと思うと、よけい、切なかった。


(くる、しい)


辛い。
苦しい。
悲しい。
切ない。


(風見さん、)


くるしくて、いきができない。
ああ、いっそのこと、この行為に、快楽に。
溺れてしまうことが出来たら、きっと楽になれるのに。


「、かざ……っ」
「きい」


泣きたくて、泣けなくて。
やめたくて、やめられなくて。
気まぐれに返される呼びかけに、歯止めは利かなくなるばかりで。
だから俺は、何度も彼を呼ぶ。
まるで、壊れた玩具みたいに。
何度も何度も、彼を、彼だけを、呼び続けた。



たとえこの声を、腕を。
彼に届かせる術が、この手になくとも。















ああ、落ちるように、堕ちていく。
まるで、堕落しきった狂想曲のように。


俺は彼に、堕ちていく。












[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!