U sideHIDE
裏切り
勉強机に、赤い受験参考書が残っている。敏の忘れものだ。
工業高校に通う敏には、進学などする気もなかった。俺が、大学受験を命じたときには、あきらかに尻込みしていた。
だが、敏は、俺の通う高校が係属している大学に行かなければならない。どれほど、無謀だろうと。
俺の身の纏うものすべてを、引き継いでいかなければならないからだ。
不可能ではない。いや、俺が可能にさせる。
俺は、参考書を手に、奴の部屋に行った。
ドアを開けて、俺が見たものが何か、一瞬、理解できなかった。
鏡のフックにタオルで作った輪をぶら下げて、それに手をかけている。
何をやってる?
敏が、これ見よがしにしていることは、それは。
俺は、事態を理解した。
自分からどんな声が漏れたのかわからない。
どんな声で何をしゃべったのかわからない。
気がつけば、俺は、奴を殴りつけていた。
これほどの裏切りはない。
どうしてだ、どうして、こんな真似を。
どうして、こんな真似をされなければならない?
敏は、首を吊ろうとしているのだ。
どうして?
どういうことだ。
まさか、俺から、去ろうとするつもりなのか。
さっきまで、俺に甘え切っていたのに、なぜ?
俺は、怒りのために、呼吸が苦しくなる。
これは、裏切りだ。
もっともひどい裏切りだ。
その裏切りは、俺へに対するものであり、神に対するものでもある。
死にたがる人間には、健康な身を与えられ、生きたがる人間には、欠陥した身しか与えられない。
絨毯に転がった奴の顔を平手で打つ。
打たれた奴の顔を見たとき、自殺する人間の顔ではないことに気づいた。俺は、視界の端で、鏡を捕らえた。
鏡のフックは、人間の体を支えることなどできないことは、一目瞭然だ。
あんなもので、自殺などできるはずがないのは、敏もわかるはず。
では、一体こいつは何をしようとしていたんだ。
俺は、頭が混乱して、立ち上がると、奴に背を向けた。顔を見られたくない。俺は、恐ろしく惨めな顔をしているはずだ。
俺は、奴に、これっぽっちも、自分を移し込むことなどできてはいない。
どうしてなんだ。どうして、俺は、こんなに惨めなんだ。
命は奪われ、拾い上げたものも、手には残らない。
たった一人の人間を、手にすることもできない。
喉の奥に苦いものが広がった。喋らなければならなかった。惨めさに、突き落とされて、何をしでかすかわからない。
「お前クズだな。仕方なく生きてるお前を見てると、どうしようもなくイライラする。最近は、ましになってきたと思っていたが、クズのままだった。お前、本物の、バカだな。俺になつきやがって。もう、お前には、俺に逆らえるものなど、一個も残ってないだろ?俺が死ねと言えば、死んじまうような奴だろ」
これは、嫉妬だ。
俺は、嫉妬している。生き残るお前に嫉妬している。
そして、せっかく生きているのに、惨めな生き方しかしてこなかったお前を憎んでいる。
そうか、俺は、かわいがってきたつもりで、実は、憎み続けていたのだ。嫉妬が、憎ませていた。
黙り込んで聞いていた敏が、身じろぎもせずにいることが背中でわかった。
やがて、微かな声を聞く。
涙をこらえている声だった。
飼い犬が主人に捨てられた時に鳴く、あの声だ。
「死ねと言えよ。ヒデが言うなら、死ぬさ」
その言葉は、完全に俺から正気を失わせていた。
お前は、俺にどれだけ残酷な言葉を投げかけているか、わからない。
死にたいのなら、殺してやろう
俺は、奴に飛びかかっていた。首に手を伸ばす。
いや、殺すなんて、勿体ない。
「死なすわけにはいかない。せっかくある命だ。惨めに生きろ」
殺すより、酷いことをしてやろうじゃないか。
人間としての尊厳を傷つけてやる。
こいつは、俺の拾った犬でしかない、俺の許しなく死のうとするとは、罰を与えなければならない。
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