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禁じられた恋のナミダ※連載休止中
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男は、グラスを持ち上げると、マスターに向けて小さく乾杯した。香りを嗅ぐような洒落た真似などしないで、すぐに半分を空にした。

「ワインは、久しぶりだな」

男は、ふと、何かを思い出したような顔をしていた。大事な思い出を、そっと胸の奥から取り出し、味わうような顔付きだった。

「さぞかしいい女だろうね、30年も連れ添うなんて」

「ええ、それはもう。とてもいい女です、昼も、夜も―――。見ますか?」

マスターは、胸ポケットからセピア色の写真を取り出した。妻の若かりし日の写真。

「美人だな。羨ましいね。記念日なら、店を閉めて二人で食事にでも行けばよかったのに」

「そうしたかったのですが、もう半年前から、別居です。妻は、家を出ました」

目を見張る男に、マスターは、微笑を浮かべて、天井を見上げる。

「天国に引っ越したんです」

マスターの言葉に、男は黙ったまま、グラスを持ち上げ飲み干した。別段、気の毒そうな表情を浮かべるわけでもなく、淡々とした顔つきが、マスターには、気に入った。

「オーストラリア産?」

ワインの産地のことだ。マスターは、呆れ顔で、頷いた。

よくぞ見抜いたものだ。自分で飲むならば、フランス産よりも素朴な味わいのオーストラリア産のものと、決めている。高いワインの味など、よくわからない。手軽なワインで十分だ。

案外、この男もワインの好みは、同じなのかもしれない。自分よりもはるかに年下の、この風変りな男も。

「ひと頃、飲んでいたワインと同じ味だ。あの頃は、ワインしか飲まなかった。呆れるね。俺も随分、はしゃいでたものだ」

「はしゃいでいた?」

「恋、にね」

マスターは、喉の奥で笑った。

普段はスコッチでも、色恋沙汰に浮かれたときには、ワインが飲みたくなる……。まだ青年らしさの残る男は、そう言いたいのだろうか。かつては若かったマスターにも、それはよくわかる。だからこそ、妻を想う日である今日、マスターも、ワインを手にしているのだから。

「可愛い恋人でしたのでしょう?」

マスターは、その恋は、悲恋に終わったのだと察していた。いたわりを込めて、スコッチのグラスを差し出した。立場は違えど、二人とも、愛する人を失った者同士だ。

「いや、全然、可愛くなんかなかったね。手のかかる面倒な子だった」

男は、手にしたグラスを眺めている。

男は、胸の中の記憶を、そっと愛でるように、眩しそうに目を細める。口先の言葉と裏腹に、深い情愛を目の奥に滲ませていた。

一度、思い出してしまえば、まだ、生々しく蘇ってくる記憶なのだろう。男の口元には、苦さが漂っている。

マスターは、遥かに年若の男に、しばし、心を寄り添わせ、空になったワイングラスを脇に置いた。今度は、自分が、この男に相伴しようか。自分のためのオールドグラスを一つ取り出す。

薄く茶色い液体を注ぎ、顔を上げて、その男の顔を見て、マスターは、息を飲んだ。

男は、グラスを眺めたまま、静かに涙を流していた。

どうやら、男自身、まだ、そのことに気づいていない。

男は、グラスを空にして、息を飲むマスターと目が合い、やっと、自分の頬が濡れていることに気づいた。

一瞬、不意を突かれた表情を見せ、次に、唇の端で、小さく笑う。

「俺にも涙が流せるとは思わなかった。愚かなものだ」

「失恋で泣けるのは、それが良い恋だったからです。誇らしいことですよ」

マスターは、ますますその男に興味を抱いていた。この男、かなりの変わり者だ。意地を貫くタイプの男だ。報われないとわかってても、意地を張り通す、そんな男だ。

「泣くのが愚かなのではない。愚かなのは、その恋を禁じたのが自分だからだ。自分のしたことで泣くなんて、あまりに、馬鹿らしい」

男の口元に浮かぶ笑みは、自分を嘲笑うものだった。

男は自ら恋を終わらせたのだろう。

マスターは、何も言えず黙り込んで、その男を眺めるしかなかった。

男は、じっと、薄く笑みを浮かべたまま、静かに涙を流していた。

声音も変えないで、瞼さえ震わせることもなく、ただ静かに。





禁じられた恋の涙を――――――


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あきゅろす。
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