証―彼は僕のものになる 何か変なの出た! しかし、不意に声が聞こえてくる。蹴飛ばした椅子は倒れなかった。 「死なれちゃ、困るんだよね」 突然現れたそいつは、困り果てた顔をしていた。椅子を両手で押さえている。 「頼むから、考えなおしてくんない。俺も、協力できるところは協力するからさ。これまで、一緒にやってきた仲だろ。それなりに、助けあってやってきたじゃん」 そいつは、ふんどし一丁で、藁草履をはいていた。小汚い僕が言うのもなんだが、明らかに汚らしい身なりをしている。同じ空気を吸っていると、悪い病気でも感染されそうだ。 「あ、どうも、こんばんわ。てゆか、あんた、誰?」 男は、天井に飛びあがって、フックからロープを引きちぎった。動きが人間業を超えている。男から、今まで嗅いだことがないような不快な匂いが漂ってきた。肥溜、とかいうものの匂いかもしれない。 「俺ァ、あれだ。お前さんの守護神、貧乏神だ」 もしかして、死んでるのかな、僕。天国じゃなくて、貧乏の国、という死後の世界に来たのかな。 「死んじゃいないよ。生きてるって、ほら」 そいつは、僕の頬をつねってきた。 痛ッ。 「な、痛いだろう?」 心の中を読んでいるのか? 「まあね」 では、こいつは、本当に貧乏神なのか。確かに、強烈な貧乏臭さがある。そばにいるだけで、貧乏が感染りそうだ。 「つか、もう、感染っているんだよ。生まれてこの方、お前さんが、貧乏じゃなかったときなどあるかね?」 いや、ない。僕の家は、これでもか、というほどの、貧乏の連続だ。 まさしく貧乏神が取りついたかのような激貧ぶり。 本当に、貧乏神が取り付いていたのだ。僕んちの貧乏には、タネも仕掛けもあったということか……? 「納得したか?」 マジかよ!? 「マジだ」 でも、守護神って、幸福に導くものじゃないのか。これは、タタられている、という状態なのではないのか。 ゴスッ。 いきなり、貧乏神が、頭を小突いてくる。 「これでも、守ってやってんだよ。お前、貧乏なだけで、それ以外で、何かつらいこととかあったか?」 「つらいことだらけだよ。お父さんもお母さんも出て行ったきりだし、勉強できないし、友だちいないし、いじめられるし、僕の人生、つらいことだらけだよ」 「はァ?」 貧乏神は、驚いたように口を開けている。 「そんなことがつらいことなのか?」 「十分、つらいよ」 「お前、人生を、なめてんじゃねえのか。つらいというのは、病気したり、大けがしたり、だろうがよ。お前は、今まで、病気も怪我もないだろう」 確かに、体は丈夫だし、事故にも遭ったことはない。けがは、殴られて青あざ作るくらいなものだ。 「俺が、今まで、守ってやってきたんだよ」 「そんなこといっても、怪我や病気以上につらいことだって、この世にはあるんだ。現にこうやって、死にたがってるくらいなんだから、察しろよ。あんた、人の心が読めるんだろ? 僕がどんな気持ちで人生を生きてきたか、わかるだろ?」 「いや、その、普段、お前の気持ちなんぞには、興味ないからな。とりあえず、取り付いているだけだし。俺、ペットとか、面倒見るの得意じゃないし」 「誰がペットォォォ!?」 「いや、その……」 貧乏神は、まごついて、指をもじもじさせて、それから、溜息をついた。 その息が、どうしようもなく、ひどい匂いだった。 こんな、守護神、ホント、要らない。 「もういいよ。今度は邪魔しないで」 僕は、もう一度、ロープを手に取った。椅子に上って、天井のフックに掛ける。 「ちょ、ま、ちょっと、待った。俺が悪かった、ほったらかしにして悪かった。もう少し、面倒見てやるから、死ぬな。俺にもメンツがあるんだよ」 「あんたのメンツなんか知らないよ。僕を金持ちにでもしてくれるの? できないだろ、どうせ、貧乏にしかできないんだろ」 貧乏神は、黙りこんだ。 「自分の守護神が貧乏神だなんてわかったって嬉しくないよ。死に際になって、あんたに会うなんて、僕の人生、ホント、ついてない。今、あんたにできるのは、僕が死ぬのを邪魔しないってこと、それだけだ」 「おいおい、見くびってもらっちゃ困る。さすがに金持ちにはできないが、それ以外のことは、ほとんど叶えてやれるんだぞ。貧乏神をなめんな」 「ほとんどって?」 「何か、一つ言ってみろ」 そう言われても、すぐに思い浮かぶものはない。死ぬことだけを考えていた僕の頭には、叶えてほしいことなど、何も思い浮かばなかった。 「父ちゃんとか、母ちゃんとか、戻してやろうか?」 僕は、両親がいたころの生活を思い浮かべたが、あまり、楽しい思い出もない。あの人たちがいても、疲れるだけだ。もう、今となっては、不要な存在だ。 「友だちとか、言ってなかったか?」 友だちがいれば、僕の人生も変わったかもしれない。だが、今までの人生で、友だちになりたいと思える同級生は、一人もいなかった。 「お前、ホントに可哀そうなやつだな」 「あんたに、言われたくないよ。人の心、勝手に覗くな」 そのとき、ふと、一つの姿が、脳裏に浮かんでいた。 ニッコリと僕に笑いかけ、助け起こしてくれた人。彼みたいな人が友だちだったら、明るい青春が送れたのではないか。 そんなことが、胸に、よぎる。 だが、もう、こんな人生は終わらせるのだから、もうそんなことを考えるのは無駄だ。 ロープに手をかけたとき、強烈な匂いに襲われた。 目の前で、貧乏神が、頭をゴシゴシ掻いていた。掻くたびに、嫌な匂いがたちこめる。 はああ、このオッサンが、僕の守護神か。 「よし、わかった。その願い、かなえてやるから、死ぬなよ」 貧乏神は、どこからか取り出した手帳に何やらメモした。 「わかった、って、何がわかったの?」 僕は言ったが、返事はない。 あれ、どこだ? 六畳一間の室内には、既に、貧乏神の姿はない。肥溜の匂いのかわりに、生ごみの匂いが漂っている。いつもの僕の家の匂いだ。 何だ、さっきの? 白昼夢? まあ、いい。どうせ、すべて終わる。 僕は、ロープを手に取ろうとした。 だが、天井からぶら下げたはずのロープは消えてなくなっていた。 あいつが持って行ったのか? 夢かうつつかわからないが、ロープがどこにもないことは確かだ。 結局、その日の自殺は、見送るしかなかった。 そして、翌朝、僕は、炎の中で目を覚ますことになった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |