「……」
小さな猫はうずくまって動かない。
「マコ……マコ」
自分を呼ぶ声、だけど聞いたことのない声だった。誰だろうと思ったが、体の痛みでそれもかき消される。
「ボロボロだな……誰かにやられたのか」
背中に触れる。
「にっ!」
「ここが痛むか。マコ、ちょっとだけ我慢だ」
三度名を呼ばれてどこか懐かしい気分になった。知らない猫は傷だらけのマコの体を抱えて、少し離れた人気のない川の側へ運んだ。
「あの…あっつっ」
綺麗な水で流した後、毛繕いをするように舌で舐め、薬草で丁寧に傷口を拭く。少ししみて顔が歪む。
「細いな、ちゃんと食べてるのか?」
当然マコは答えない。本当にこの猫は何者なのだろうか。介抱してくれているが、まだ信用は出来ないでいた。
「俺の名前は……覚えてないか、ミナトって言うんだけど」
やはり、全く聞き覚えのない名前である。
じっくり容姿を見てマコは驚く。黒猫だった。しかもマコと毛色が同じだ…ただマコは耳の先と尻尾の先だけが黒いのだが、長い間凝視してしまっているのを見られていたことにハッとする。
「自分より黒くてびっくりした……って顔に書いてるよ」
「ごめんなさい」
内心を読まれたことと、優しい笑顔にドキッとなった。傷付いてないのだろうか。
「あ、の」
「時間、大丈夫?」
言われて空を見上げると、赤々とした色を放っていた太陽はもう半分になり沈みかけていた。
「ここら辺は危ない猫が沢山いるって聞いたからね、早く帰った方が良い」
トンと背中を押され、『またね』と意味深な耳打ちをされた。
***
数日が経ち、その助けてくれたミナトがマコの家へやって来るなり、マコの母、義理の母へ机に乗りきらない程の大金……大量の魚を払ってきた。
母は初め、ミナトを訝しげに見ていたがその魚を見た途端、笑顔になった。ミナトという男は人身売買の仲介者らしく、マコをすぐに引き取りたい猫がいると言う。
「すごいわ、こんなに!」
前に母から聞いた事がある。人を売って儲ける仕事があるのだと、だが、自身にそんな価値もないと言われたが……。
本当に沢山の魚だった、その量のくらいの価値があるのだろうか。
「丁度良かったよー近々そいつを売ろうと思ってたんだよ!」
今までにないくらい目が蘭々としていた。マコは言葉を失う。
「何してもトロいし、役にたたないし、実のとこ血の繋がりなんてないしねぇ」
今までの内に溜まったものを吐き出すかのように、よく喋る。
「しかし、引き取りたいって、そいつに何があるってんだい……娼婦にもなれなさそうだし、物好きもいたもんだねぇ」
義理だったとしても、幼い子供になんて事を言うのだろう……とミナトは顔を少ししかめた。
マコからすれば、こんな母だったから別れはしなくても良いと思った。ただ父には拾ってくれた事、母に内緒で介抱してくれた事などもあって挨拶だけでもと思うも、今は出掛けてしまっていて夜になるまで帰って来ない為、諦めるしかなかった。
「奥さん、最後に約束をして下さい。この子や私を街で見ても、今後、一切関わらないようにして欲しい」
そこでも母は、意気として承諾した。
ミナトと並んで家を出る際、ちらと母を見たが、やはりマコには目もくれず、魚ばかりを見ていたことにしょぼくれていた。
ぞんざいな扱いを受けていたとしても、まだどこか淡い期待を持っていたようだ。自身でも驚いてしまう。
「寂しい?」
耳を伏せながら首を横に振る。
「ミナトさんはマコの事を売る人なの?」
「そうだよ、君が他の奴らに売られるのを知って、俺が買った。君みたいな猫を欲しがる奴は沢山いるからね」
前にも見た優しい笑顔だったが、今は少し畏怖を覚えた。
「俺から逃げてあの家に帰るか?」
「それじゃミナトさんが生活出来なくなるよ」
純粋な眼差しだった。
「それに、もう家には帰れないよ…ミナトさんも聞いたでしょ?」
最後の最後にまであんな光景を見た後では、母の元へは帰れないと心底思った。
だけど、食べ物の調達の仕方が一切分からないし、自力で何とかしようにも『怖い』という概念が強い為、その自分を必要としてくれる猫に付いて行くしかないと判断した。
「どんな猫なのかな」
投げやりな口調で言う。大量の魚を出すくらいだから、富豪ばかりなのだろうか。
「酷いことする猫かも」
ミナトは意地悪く笑ったが、マコはもしそうなら、と複雑な表情で悩む。
「冗談だよ、ちゃんとマコのこと可愛がってくれる猫だから」
「……そうだと良いな」
力無く笑う。尻尾をうねらせ、あれやこれやと考えていた。少なくとも、マコのことを知っている風な言い方だから、気に入ってくれているということなのだろうか。
それに、毛色のことも……。
マコが居た街から随分歩いて、ミナトが足を止める。目の前には小さな小屋があった。
「ここが?」
「そう、マコの家になるとこだよ」
とても富豪が住むような家とは程遠く、暮らすのに必要最低限の小ささで、ペンキも剥がれていたり、草も鬱蒼と茂っていた。
ミナトはマコの肩を掴み真正面に向き合う。マコはどうしたんろうと、首を傾げるばかりだった。
「……マコを欲しがってる猫は俺なんだ」
「え!? っ? ど、ういう」
一気に混乱する。
「あの街でマコを見た後、あの家で酷い扱いを受けていることや、街の連中に虐められている事とか売られるのを知って、助けたくてね……俺は人身売買をする奴じゃないよ」
最後の言葉を聞いて少し安心したマコだった。
「騙してごめん。でも、あぁしないとマコのこと引き渡してくれないだろうし、マコが逃げないようにするには一芝居打たないと」
ミナトは辛そうな顔をしていた。
「逃げないよ」
「無理矢理連れ出してもマコは付いて来てくれた?」
嘘を付かれたが、悪い嘘を付くような感じではない。
「分からないけど、ミナトさんは悪い猫じゃないと思うよ」
「ありがとう、良かった……逃げてもまた連れてくるつもりだったけど」
そうだとしても、ミナトがどうしてそこまでしてくれるのか理解出来なかった。
「遅くなった。ずっと辛かったろ。富豪ではないけど、もう安心して欲しい」
顔に触れる。
「マコ」
「に゛ゃ!?」
小さな耳にキスをした瞬間マコはしゃがんでしまった。
「やだ! こ、怖い」
「……怖い?」
マコを見ると小さく震えていた。
事情を聞き出すと、あの街に来てから、耳を引っ張られたり毛先が黒い事が周囲の者に散々気味悪がられてトラウマになってしまったようだ。
「ここでも……酷いな、マコは悪くないのに。さっきの母親だって俺の手前、言わなかったんだろうけど、マコは言われてたんじゃないか?」
マコはしゅんとしながら頷く。
「世間は勝手だ、色が黒いってだけで意味嫌う」
じっと見つめた後、優しい口調で言った。
「でもマコ、黒は嫌いか?」
そう聞かれハッとする。ミナトはマコより真っ黒だ。
「嫌いじゃないよ、マコも黒色だもん……嫌いになんてなれない」
「そうか、マコは良い子だな。毛色が黒いからって何かある訳じゃない、人に何と言われようと自信を持って」
再び耳を今度は手でそっと触った。
「! ……にー」
毛が少し逆立つ。
「さっきは驚かせて、ごめん」
「だ、だいじょうぶ。ん……っと、聞いても良い?」
さり気なく手を耳から遠ざけられ、残念そうな顔をした。
「……うん?」
「ミナトさんも黒色ってだけで虐められたことがあるの?」
同じ黒色ならあるはずだと思った。
「俺は相手を負かしてたけど、六年前マコのこと守ってたんだよ?」
六年前にミナトと会っているらしい、だとしたらマコは幼過ぎて覚えてないのも頷ける。
「マコが変わってなくて良かった」
「泣いてばっかりだった?」
「ふふ、にぃちゃんにぃちゃんって俺に頼って可愛いかったよ」
「んん? ……覚えてないや。でも、昔も泣いてばっかりだったんだ」
複雑な顔をした。
「強くなりたい、ミナトさんみたいになれるかな」
思いきって言ったが、返答はマコにとって、意外なものが返ってきた。
「うーん、俺はマコはマコのままで良いと思うけどね」
「マコのまま?」
「今のままでも良い所が沢山ある。喧嘩に強くなることが一番利口なことではないよ。外を磨いたって中が変わらないと意味がないしね?」
マコには少し難しかったのか、首を傾げた。
「まぁ身を守る程度なら教えるけど」
そう言うと、しかめた面が一転して明るくなった。
「ありがと」
「ふふ、どういたしまして」
「にゃ!? 耳は嫌だって」
一撫でされて驚く。
「もう大丈夫じゃないの?」
「そんなすぐに慣れないよ」
マコは真剣なのに、クスクス笑う。
「じゃあ耳も慣れるまで特訓しよう?」
「特訓……してくれるの? ホントに?」
「その前に中に入ろう」
外にいるには少し肌寒い季節だ。
家の中はいたってシンプルで、机に食料倉庫、麻袋に寝床など、本当に必要最低限のものしかなかった。
中に入ったは良いが、具体的にどうすれば良いのか分からず、戸惑う。
すると、ミナトがマコの体を引き寄せ、耳を掴み少し強く引っ張った。
「にゃ……!!」
「ごめんね、我慢だよ」
また引っ張る。その度に、マコの肩に力が入るのが分かった。
「んっ」
「マコの耳って柔らかい………ね」
ポツリと何かを呟く。
「に? ……にゃあっ」
撫でながら片方を甘噛みをすると、びくついたのでマコには悪いが面白がって続けると、次第にマコの様子がおかしくなるのがわかった。
「ん……に」
「ここまでにしようかな」
「にゃ〜怖かったぁ」
そう言って何度も自分の耳を撫でた。
「……嫌いになった?」
首を横に振る。
「良かった」
「ありがと、早く克服出来るようになると良いな」
「俺としては、早くなくても良いけど」
聞き取れないくらいの声で言ったので、マコは首を傾げてミナトを見た。
「今日からよろしくね、マコ」
2010.06.06 完成
2010.10.23 加筆