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症候群-追放王子ト亡国王女-
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ルネ王国―――

人間が地下の汚い牢屋に背をぶつけて口から血を吐き、悲痛な声を上げながら次々と倒れていく。その姿は何に例えれば良いのだろう。


ドスッ…!

「う"ぐぁ"…!」
返り血を腕で拭い、足元でまだ喘ぐ鎧を身に付けたルネの兵士に自慢の足技でとどめをさす。人間が死ぬ感覚なんて大嫌い。それでも殺すのは、最後は結局我が身大事だから。
此処は、ルネ城と軍本部から遠く離れた所にある牢屋。地下の膨大な敷地に建てられたいくつもの古びた牢屋。たった今殺した兵士から奪った拳銃を手に持ち、暗くて臭い清潔感の無い牢屋の中を駆けて行くのは、長いオレンジ色の髪を靡かせた少女ラヴェンナ。
マリソンとヴィルードンにルネへ連れてこられて以降この様だ。罪人が多過ぎて、彼女を裁く時機がまだやってこないのだ。
「俺も此処から出してくれぇ…!」
左右の牢屋の中から助けを求めてくるミイラのような人間達の声がする。でも振り向かない。哀れにくらいは思ったけれど。
この走る速度に任せて曲がり角を曲がろうとした時。兵士達の話し声が耳に入り、急ブレーキをかける。柱の陰に隠れると息を殺し、気配までも消す。
























「それで今日死刑執行をした人数は?」
「たったの6人だとよ」
2人分の足音と話し声が近付いて来るから、ラヴェンナからしたら彼らは殺して下さいと言っているも同然。口元が笑むラヴェンナは心の中でカウントダウンを始める。兵士2人の死へのカウントダウン。
――3、2、1…――


パァン!パァン!

「ぐああ!?」
「う"ぐああ!」
数発の銃声が鳴り響いた。目を瞑り、重たくて手が吹き飛んでしまいそうな拳銃。けれど、歯を食い縛って懸命に堪える。


ドサッ…、

撃たれた兵士2人が横たわり一切動けなくなると、彼らを跨いで出口を目指す。ずっと暗い地下に閉じ込められていたから久しぶりの明かりは目に痛い。勢い良く外へと飛び出した。
「はぁ、はぁっ!」
息を切らし、何処かに兵士が見張っていないか慎重に進んでいくが、牢屋にしか見張りを置いていないようだ。外には無防備な程誰も居なくて、烏が鳴く不気味な声と木々の揺れる音だけが聞こえる。
「国の利益になる事だけは気持ちの悪いくらいしっかりしていて、罪人の面倒などほったらかしか。利益重視な体制はいかにもルネらしいな」
とにかく走り続ける。真っ暗な中を。木々で擦れた足からは少量ではあるが血が流れ出すけれど気にせず、ただ走り続ける。






































ルネ市街地―――――

「今日も一杯飲みに行くぞ!」
「行こう行こう!」
ガヤガヤしているルネの夜の街に出た。都市部からは離れているから貴族は住んでいない。身分は中の下ではあるが、毎日をやりくりできる一般庶民の街。
ラヴェンナは王室関係者以外の人間には顔を知られていないから楽だ。長いオレンジ色の髪は薄汚れてきた。薄明るいネオンの下を駆ける際、時折耳に飛び込んでくる言葉には思わず顔がにやけた。
「国王様、課税に反乱してデモを起こした低賃金の人間達を軍隊まで出して殺したそうよ」
「デモを起こす方も起こす方だがな」
「それでも…。いくら国王様でもやってはいけない事があるのではないかしら。人として」
――そうだそうだ。気付き始めたルネの人間がこれ以上増えてくれれば、こんな腐った国はいつか…――



























「はぁ、はぁっ」
それから。走り疲れ、肩で息をするラヴェンナ。一軒のバーへ入る。


カラン、

こんな夜遅くだからこそ盛り上がっている人々。
顔も鼻も真っ赤にしての匂いをプンプンさせた中年男性達は、一際美しいラヴェンナの姿を見つけると頭の上でやんややんやと両手を叩き出す。踊れ踊れ、としつこく大声で言ってくる。
一応王女であった身であるラヴェンナは踊りも学ばされていたので、できない事はない。しかし、憎い敵国の人間を前に、タダで楽しませてやる程心は広く作られてはいない。女らしさを売る事なんて苦手だし大嫌いだし虫酸が走るラヴェンナだが、亡くなった母国の人間の為にも…と考えたら何でもできる気がした。


カタン、

「おおっ!」
1人の中年男性の隣に座り、精一杯の可愛い笑みを向けてやる。ぎこちなくて引きつっているのが丸分かりだけれど、相手は完璧泥酔状態だからそんな事には気付かず、隣に座ってくれただけで大満足の御様子。
「ご要望通り、私自慢の踊りをお見せ致しましょう。しかしこちらの要望も聞いてはくれますか?」
「良いぞ良いぞ!お姫様の頼みなら何でも聞いてやろう!」
肩に汗ばんだ手を回されて思わず足が出そうになったが、イラ立つ感情を何とか押し殺し、目元をピクピク痙攣させながら苦笑いを浮かべる。
「それでは、お広め下さい」
「何をかな?」
「これからお話する事を」
「どんなお話だい?」
「ルネ王室の悪政を。できるだけ遠くに、そしていつしか世界に…」


























今日も明日も、必ず何処かでは人間が人間を亡きものとする為に生きている。平和な国など在りはしない、そんな時代。
自分の身が危険な状態に立たされれば、愛していた者までも犠牲にしてしまう人間達。
"君を一生守る"
そうつい数分前まで言っていたって、自分が本当の危険な状態に立たされた時。守ると誓った愛する者を盾にしてまで自分だけでも逃れようとする。そんな行動を汚いと罵る人間の方が少ない、そんな時代だ。





























































日本――――

時は経ち、日本ならではのあの美しい紅葉も見られなくなった。木に集まり楽しそうに会話をして色付いた葉達も、今は地に落ちてしまった季節…冬。
滅多に雪が降らないこの都でもここ数日、辺り一面に銀世界が広がっているのだ。雪に慣れていないジャンヌは、自分の着物の他に咲唖の分の着物を上から着る。それでも寒さで歯はカチカチと音をたてて震えた。
























一方、長い間日本に滞在しているヴィクトリアンとマリーも、今月末には帰国をするよう国王直々の命令を受けた。せっかく畳にも箸にも習慣にも慣れたヴィクトリアンは残念そうに愚痴を洩らす日々だ。
隣に腰を掛けて口に手をあててクスクス笑うのはマリー。
「失礼します」


カタン、

可愛らしい声が聞こえて、音をたてて襖が開く。其処には厚着をした咲唖が黒いおぼんに湯気のたつ2人分のお茶を運んできた。
それを飲む前にヴィクトリアンとマリーは自国の宗教の影響か、祈りを捧げてからお茶を口にした。
「ふふ、ごゆっくりどうぞ」
いつもの癖で着物の袖で口を隠しながら優しく微笑んだ咲唖。そんな彼女に、ヴィクトリアンは頭の上で大きく手を振った。


カタン…、

障子戸の閉まる音の後、階段をゆっくり降りて行く足音が遠くなっていきやがて、消えた。




































戸を半分開けた外に広がる銀世界を眺めていた咲唖はそれに触れたいという思いが強まり、下駄を履いて外へ出てみた。
まだ朝早いせいか霧がかっていて城周辺は勿論、街の方からも一切声がしなくて本当静かだ。まるで誰も居ない真っ白な世界へ1人きりで訪れたよう。


サクッ、サクッ、

まだ誰も踏み入れていない雪の上に足を踏み入れたら、咲唖の子供の様に小さな足跡が二つついた。その上を走る度に四つ六つ…とだんだん増えていく足跡。
両手で少量の雪を掬うと、頬にそっ…と触れてみる。雪に触れた頬と手だけが赤く染まっていた。
「ふぅ」
白い息を吐き、雪を丸めていた時。


サクッ、サクッ、

背後から雪を踏む人間の足音がしてゆっくり振り返る。其処には、梅が立っていた。
梅は鼻を赤くして吐く息は真っ白だというのに、いつもと変わらぬ薄着でとても寒そうだ。
咲唖は自分が羽織っていた上着の右側を脱ぎ、彼女に貸してあげようとしたら手を横に振って"必要無い"と体で表現された。少し残念そうに眉毛を下げる咲唖は、脱ぎかけた上着を着直す。
隣に立った梅は咲唖の方は一切見ず、色がはっきりしない朝の空を眺めて口元を微笑ませる。
「咲唖さん。最近は御姿を御見せしないようなのですけれど、宮野純慶吾さんの事。貴女はどう思われておりますの?」
慶吾は咲唖が連れて来た怪しいスパイだと勝手に思い込んでいる梅は、ニヤニヤ意地の悪い笑みを浮かべるから小悪魔の様。
そんな彼女に怒りもせず、にっこり笑顔で見てくる咲唖。その偽り無い笑顔にはいつも腹が立つけれど、真っ直ぐで汚れが無いから羨ましいという思いもある。


























梅はすぐに咲唖から目を反らしてしまう。認めたくは無いのだけれど、これ以上咲唖の笑顔を見ていたら、何だか自分がとても惨めに思えてしまう気がしたから。
「慶吾さんは日本も日本の皆さんも、世界の皆さんも大好きなのだと思います」
「でも何故自分の素性を隠すのです?何処の人間なのです?もしかしたら刺客かもしれませんのよ!」
感情的になった梅は怒り口調で早口に機関銃の様に言うから、咲唖は目を丸くしている。
「はぁ…はぁ…」
言いたい事を言い終えると梅は少し呼吸を荒くさせ、言い切った感で満たされていて、いつもよりすっきりして見える。
そんな彼女の顔を覗き込み、優しく目を垂らして微笑み掛ける咲唖。
「梅ちゃんは慶吾さんの事、御嫌いですか?」
「え?き、嫌いに決まっていますでしょう!何処の馬の骨か分からないような男!…咲唖さんは好意を抱いていると言うのですか?あんな怪しい人間に」
赤い紅をさした梅の艶やかな唇が怪しく笑む。チラ…、と横目で咲唖を見る。姿が見えなくて消えてしまったかと思ったら、咲唖はいつの間にかその場に身を屈めて雪を丸めて雪だるまを作っていた。





















相変わらず行動が子供っぽくておっとりし過ぎな彼女の思考は全く読めなくて、思わず溜め息が洩れた。
「貴女という人は…はぁ…」
日本人女性らしい美しく長い黒髪を掻き上げた梅。遠くから朝陽が顔を見せて、薄い色しか出ていなかったパレットにも濃い色が仲間入りした。
「梅ちゃん」
「え?」
立ち上がった咲唖に呼ばれる。この呼ばれ方は気にくわないから眉間に皺を寄せ、渋々顔を向ける。目線を少し下へ落としてみたら、咲唖の小さな手の中には小さくて丸い雪玉が二つ重ねられていた。雪だるまのつもりなのだろう。
寒さで頬と鼻を赤くした咲唖は梅の手を優しくとると、彼女の手の平に、たった今できたばかりの雪だるまを乗せた。幼稚とも言える咲唖の行動が何が何だか分からなくて、
「はあ?」
と心の中で言いたくなる梅。手の平に乗せられた冷たくて手を赤くする雪だるまと、太陽の様な咲唖の笑顔を交互に見る。
























「…っ、冷たっ…?」
鼻の頭に冷たいモノを感じた2人が同時に空を見上げたら、音も無く真っ白い雪が降ってきた。
鼻や頬に触れてはすぐ消えてゆく雪に微笑み掛ける咲唖は空を見上げながら一回転してみせて、ふふ、と笑むと、梅に背を向ける。つられて咲唖の背を見る梅。
「雪のように姿を現すと多くの人から喜ばれ、消えてしまった時に悲しまれる。そんな人になりたいのです」
「咲唖さん?」
咲唖の寂しいその表情と言葉の意味が、思わず気になってしまった。
咲唖の事は、本妻の子供だからという理由であんなに嫌っていた梅だが、実際は誰にでも優しく穏やかな咲唖に対して嫉妬していたのかもしれない…と心の何処か片隅で認めはじめたら、恥ずかしさで体が熱くなる。
手の平に乗せた雪だるまが水へと姿を変えていく。こちらに顔だけを向けてきた咲唖はいつもの優しい笑顔を向けてきた。また、ふふ、と笑い声を洩らして。
「梅ちゃん、雪がやんでいる時に今度一緒にもっと大きな雪だるまを作りましょうね。だいぶ雪が降ってきましたから、早く中へ入りましょう。風邪をひいてしまいます」
腕を掴まれ引っ張られた梅は、咲唖に連れられるがままに城門を潜る。























本妻と妾の子供とで離宮が分かれている為、その調度間にある庭で2人は足を止めた。
雪に埋もれ真っ白くなった庭を前に、咲唖はそっ…と梅の腕を放す。笑顔で顔の脇で手を振る咲唖。一方、まだ素直になれなくてツン!としながらもぶっきらぼうに手を振る梅。


トン…、

離宮の玄関の隅に雪だるまを大切そうに置いた梅は、心からの笑顔を浮かべた。何年振りの偽り無い心からの笑顔だろう。
カラカラ音をたて玄関の引き戸を開けて、弟と妹の元へと駆けて行く梅だった。







































本妻方離宮――――

「慶司、朝ご飯ですよー」
一方。咲唖も玄関の引き戸を開けてすぐ、弟の名を呼ぶ。しかし返事は返ってこないし物音一つしない上、室内は真っ暗。
ジャンヌとアンネは先に城へ行って朝食会場へ向かった事は分かっているから、2人の事は心配しなくて良い。しかし、慶司は咲唖が外へ出る直前まで下の自室で大きな鼾をかき、大の字で眠っていた。こんな真冬だというのに派手に布団から脱ぎ出ていたから、起こさないよう毛布を掛けてあげてから外へ出た咲唖。
その上、現在の時刻は彼が普段起床する時刻より20分も早い。いつも寝坊をする彼だから、朝食の時間に遅れてしまう事を想定した咲唖は大抵起こしてあげている。それなのに今日は一体どうしたのだろうか。


























片目で覗ける程度彼の部屋の引き戸を開いて中を覗くけれど、布団は綺麗に片付けられていて、やはり彼の姿は無い。
「慶司、自分がお寝坊さんな事を気にしていたから早起きするようになったのかな」
ポツリ…と呟き、首を傾げる咲唖。
「…?」
戸を閉めようとした時。彼女の黄色く丸い瞳が捉えたものがあった。畳の端に深緑色の葉が一枚落ちている。
部屋の汚さに呆れながらも微笑みながら「お邪魔します」と小声で言ってから部屋へ入る。


キシ、キシ…

咲唖が慶司の自室を歩く度、畳の軋む音がする。
咲唖は身を屈め、落ちている1枚のその葉に手を伸ばした時。


ドクン…!

鼓動が大きく鳴った。
それからもずっと大きく速く不規則に鳴り続ける鼓動。この体勢を変えられぬままずっとその葉にだけ目を向けている咲唖は、声も出せなかった。






































都城内廊下―――――

「お姉ちゃん今日はご飯何かな。この前のお魚がもう一回食べたいな。でも我儘言っちゃ駄目だよね」
「アンネは偉いわね!私なんて咲唖に、この前の鮭が美味しかったからまた出してって言っちゃったわ」
「お姉ちゃん悪い子だ!」
ジャンヌとアンネの2人は手を繋いで楽しそうに談笑しながら、朝食会場の大広間へと向かう。


タタタタ…!

その時廊下を走る急ぐ足音がして、2人は同時に顔を上げた。
「あっ!」
正面衝突してしまいそうになった。曲がり角を駆けてきた足音の正体は、咲唖。2人の姿を見つけると一度目を大きく見開いて、自分に急ブレーキを駆けた。
誰かが居ると思わなかったから油断をしていてその時2人に見せてしまった…彼女の焦っていて顔色の悪い表情は、何か予期せぬ悪い事を連想させる。いつもにニコニコしている表情しか見た事がなかったから尚更だ。






















ニコッ。
しかし、咲唖はすぐに切り替えていつもの笑顔を向けてきた。冷や汗をかき、息を切らしているというのに。
ここまで彼女が隠そうとしている事は何なのだろうか。探るように眉間に皺を寄せて目を細め、彼女の事をジッ…、と見つめるジャンヌの、アンネの手を握っている手にも自然と力が入ってしまう。
「おはようございます。ジャンヌちゃん、アンネちゃん」
首を傾げて微笑みながら朝の挨拶を済ますと、また急いで2人の脇を通って行く咲唖。彼女の背が自分の瞳に映る前に、ジャンヌの手が彼女の腕を掴もうとした。


スルリ、

「!」
しかし、彼女はそれを予期していたかのようにジャンヌの手からスルリと避けてしまった。だから驚いた。
ジャンヌが咄嗟に首だけを後ろへ向けると、咲唖は足を止めず、肩越しにこちらを振り向いた。今日ばかりは何故だか作った笑顔ばかり見せる咲唖。
「あ、ジャンヌちゃん!今日の朝ご飯はこの前ジャンヌちゃんがリクエストをしてくれた北海道のお魚さんですよ!」
足音をたてて、彼女は走り去ってしまった。






















彼女のいつもと違うその雰囲気に、廃れた町で育ったせいで人間の気持ちの変動に敏感になっていたアンネだって、何か良くは無い事があるという事くらい気付いていた。
「咲唖お姉ちゃん…どうしたのかな」
「……」
「ジャンヌお姉ちゃん?」
反応の無いジャンヌの顔を見上げる。前髪で顔が隠れてしまっていて表情が伺えない。
「大丈夫よ。ご飯食べに行こう」
「…うん」
背を向けて走って行った彼女に背を向けて、2人は大広間へと向かった。
手を繋がれながらアンネは一度後ろを振り返る。其処にはもう咲唖の姿は無く、朝だというのに真っ暗な廊下が続いているだけだった。









































パタパタと走る1人分の足音がする都城内廊下。
「はぁ、はぁ、」
息を切らし辺りを見回しながら走る咲唖は、太い柱の角を曲がる。この先には厨房がある為、良い香りがする。
もう一つ角を曲がり、やっと厨房が見えた時。
「ほっ…」
湯気の切れ間から見えた1人の少年を見付けた瞬間、咲唖は安心して息を吐いた。慶司だ。
何故だかは分からないが、誰も居ない厨房のテーブルに並べられた朝食を前に、こちらには背を向けて立っている慶司。
「慶司、」
彼の名を呼んだ時、心臓が停止してしまうかと思った。
咲唖の存在に全く気付いていない慶司は挙動不審にキョロキョロして周りに誰も居ない事を確認してからすぐ懐から、和紙に包まれた白い粉を取り出した。焦っているのか、包まれたそれを開く手の動きが異常に早い。
粉が1人分の朝食の味噌汁の中に落ちてしまうその時。
「…ハッ!」
気配を感じたのか、慶司は粉を落とす手を止め、それを包み直すと、バッ!と咄嗟に後ろを振り向いた。彼は異常な程冷や汗をかいていて、今これから罪を犯そうとしている悪の顔付き。彼の黄色の瞳に映るのは、俯いた咲唖だけ。
「姉、」


パァン!

静かな朝に響いた頬を強く叩く音。咲唖の右手は彼女の脳が信号を出す前に、慶司の左頬を強く叩いていた。

























パラ…パラ…、

衝撃で、彼が手にしていた粉が音も無く2人の足元に散らばる。
叩かれた頬を押さえながらも慶司は、足元に散らばった粉を屈んで手で掻き集め出す。その必死過ぎる姿が見たくなくて目を瞑りたくて仕方ない。それでも咲唖は1人の人間としての感情を押し殺し、姉として此処に立った。掻き集める彼を見下ろし、口を開く。
「慶司、その粉は…強い毒を持った毒草の粉」
「!!」


ビクッ!

彼の体が一瞬だけだが大きく震えたのを見逃すはずが無い。
「慶司ごめんなさい。貴方が居ないから探して、心配で勝手に慶司の部屋へ入ってしまいました。その時…貴方の部屋でその毒草の葉を見付けてしまいました。慶司、貴方がこんな事をするなんて思ってもいな、」
「姉上は僕の気持ちを何一つ理解してはくれませんよね」
「え?」
掻き集め終わった彼はそれを包んでいた和紙にまた丁寧に戻すと、下を向いたまま静かに立ち上がる。声が低くて一種の恐ろしささえ感じた。彼の長い前髪が邪魔をするから、覗き込んでも顔が見えない。





















彼は黙って厨房のテーブルに体を向けると、粉を入れようとしていた1人分の食事を指差す。他の食事には鮭が入っているが、彼が指差している食事にだけは鮭が無い。代わりに、だし巻き玉子がある。
そこですぐにその食事が誰の分であるかに気付いた咲唖は目を大きく見開き、彼に顔を向ける。それでも彼はこちらを向いてはくれない。
「慶司、貴方…」
「梅姉様は魚が御嫌いです。お陰で姉様の分の料理を見つける手間が省けましたよ。だから、」


パァン!

また頬を叩く音がした。
今度は先程叩かれなかった方の頬が真っ赤に染まる。叩かれた頬にそっ…、と手を添える彼は相変わらず下を向いたまま。顔を上げられずにいるのは、自分が人間としてやってはいけない事をやろうとしていた事に気付いているから。合わせる顔が無いから。
それでも、咲唖は顔を上げてほしくてずっとずっと強い視線を送る。心の中では大きな声を上げて泣いている咲唖だが、絶対に人前では泣かない。
人前では泣いた事が無いのだ、どんなに顔を背けたい現実を前にしても。これからもずっとそんな自分でいたいから、心の中で泣く。ひっそりと。























テーブルに手を着き、彼の顔を覗き込む。
「慶司貴方は今、何をしようとしていたのですか?その毒草の粉を食事の中に入れたら、それを口にした人がどうなるか分かっているのですよね?」
「死んでほしかった。今でも死んでほしい人間です宮野純梅は」
「慶、」
「だってあいつは姉上を馬鹿にするから!!」
こちらに勢い良く顔を向けたてきた彼の黄色の瞳からは、涙がボロボロ零れていて頬まで伝っている。真っ赤に腫れた目はとても16歳とは思えない。咲唖はただ黙って、彼を見上げている。
「姉上だって気付いているのでしょう…。あいつは梅は、姉上は他国の王族と仲が良いからスパイだとか、だから慶吾を連れてきたのは姉上だとか…。ジャンヌさん達の事だって姉上のせいだと言って。気付いていますよね?そう言われている事に!」
「…ええ、知っていますよ」
「なら何故憎みもせず、笑顔でいられるのですか!姉上には怒りという感情が無いのですか!!」
「ありますよ。だからといって、私が梅ちゃんといつも怒鳴り合っていては慶司や周りの方達の気分が悪くなってしまうでしょう」
「僕は貴女の仰る言葉の意味が全く理解できません!!」


ダンッ!!

テーブルを強く叩いた。彼の泣き声は子供のように裏返っている。























「どうかなさいましたか?」
厨房に現われた家政婦達が不思議そうにこちらを見ては、首を傾げる。
「ぐすっ…、」
慶司は鼻を啜って涙を乱暴に拭うと、厨房の出口へと走って行く。それを目で追う咲唖。
出る直前彼は足をピタリと止め、もう一度涙を拭うとこちらを振り向いた。その涙で濡れた瞳は彼女の事だけを映していて、睨んでいる。
「姉上なんて大嫌いだ!」
もう誰の声なのか分からない程変わり果てた泣き声で周囲など一切気にせず叫ぶと、大きな足音をたてて走って行ってしまった。
「朝からお騒がせしてしまい申し訳ありません」
「あ…いえ…」
唖然として何も言えずにいる家政婦達に哀しい笑みを向けながら、手元では、彼が忘れていった和紙に包まれた毒草の粉を家政婦達に見つからぬよう手の中に隠す咲唖だった。






























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