Honey Flower(本編+SS)
3
話は一週間前に戻る。
雲英の職場は製薬会社の研究室だ。
学生時代から薬学専攻で進めてきた末の、相手側から求められての就職だ。
なかなか職の決まらない学生たちの中でも、順風だった。
ようやく追い風がきたのだと思った。
それから数年が経過した。
今、職場に不満がないわけではない。
せめて一日一食はまともに食べたいとか、三日に一度は帰宅したいとか。
上げ連ねると際限がないが、転職を考えるほどつらいわけでもない。
毎日帰って顔を合わせなければならない家族もいなければ、猫もいない。
帰る理由がないのだから、別に帰れなくたって良いじゃないか。
世の中、完璧に満足だという人生は送っている者なんて、いない。
だとすれば、自分の現状は妥当だ。
すべてにおいて、妥当なのだ。
「雲英さん。ロビーにお客様がいらしているそうです」
「えっ……、客? 俺に?」
女性事務員の声に、シャーレを覗き込んでいた顔を上げた。
研究室の全員が雲英を振り返った。
(客? 研究室にか?)
社内ですらも陸の孤島のような研究室に、監禁されて研究を強いられているかのように日々を送る研究室へなど、普段誰も足を運ばない。
全員が「客?」と訝しむ中、雲英は近くの同僚にシャーレを手渡し、たった一つだけの無機質なドアを開いた。
かつかつと靴音の響く廊下は薄暗く、誰もいない。
昼間だというのに窓のない廊下は暗く、そしてひんやりと肌寒い。
皆、それぞれ割り当てられた研究に没頭しているはずで出てくる者は稀だ。
たまに外へ出ている者もいるが、空腹に気付いた幸運な奴に違いない。
滅多に客が来ないロビーも、シンプル極まりない。
何の飾りもない、花器ですら置かない事務的なロビーにひとつだけあるビニールの長椅子に、そいつは腰を下ろしていた。
正確にはそいつ『等』と言うべきか。
靴音に振り返ったそいつは、のそりと椅子から立ち上がって振り返った。
「よう、雲英。何年ぶりかな。久しぶり」
「都真」
雲英は自分の眉間にしわができるのを感じた。
都真の風貌は、サラリーマンである雲英からはほど遠い。
肩ほどまでのびた黒髪を、後頭部でぞんざいに括りつけた頭で、同じように漆黒の目にメガネをかけている。
服装にしても、仕事中急に抜けて訪ねてきたというふうではない。
そもそも仕事をしているのかすら怪しい、自由な姿だ。
(こいつのこういうところが嫌いなんだよな、俺は)
学生時代の同級だった都真とは、数年同じ学び舎にいた。
何かにつけて要領の良い都真と、融通の利かない雲英には少しずつ差ができていく。
目の前で一足飛びに進んでいく都真を見るのが嫌で、さりげなく距離を取っていると、この無神経な馬鹿男は自分からずいずいと近づいてくるのだ。
卒業してそれぞれの道に就職して──いや、都真が進路をどうとったのか、雲英は知らなかったし、知りたいとも思わなかったが──別の人生をそれぞれ歩いていくのだ、とほっと胸をなでおろしていた。
もう二度と会うことはない。
自分の人生で、都真という人間の登場はもうないのだと。
それが、だ。
目の前に立っている過去の亡霊を前に、雲英は思わず震える指で指していた。
「なんでっ、ここにいるっ!? 今すぐ帰れ! 即帰れ!」
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