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Honey Flower(本編+SS)
1
 温室に、蝶が舞っている。

 ひらひらと華を撒くその下で、ソウが水槽を覗いていた。
 一抱えもある大きさのそれは、研究室で使いあぐねた容器の一つで風情も何もないプラスチック製で、色は鮮やかすぎる黄色だ。
 その中に水を溜め、水草を浮かし、何かを飼っているようだった。

「何かいるのか?」

 頭上からかけた声は、ソウにとって突然だったらしい。
 びくっと肩を震わせ、おずおずと顔を上げてくる。
 薄い青色の目が、都真の心中をうかがうように動いた。

 その後ろで、小さな虫が水に浮かんでいるのが見える。
 都真は白衣のポケットに突っ込んだ右手で、ガラスの冷たさに指を這わせながら、口元を緩めた。

「なんだ。ヒメアメンボか。また珍しくもない種類を大事そうに。流行のゲームでも買ってやろうか?」

「こっ、これが良いんだよ! ね、可愛いと思わない?」

 頬を紅潮させて熱く言い切るソウの手元で、極一般的な池に生息するアメンボが、ついと水面を滑っていった。
 極普通のアメンボだ。
“可愛い”ソウの表情から視線を移動させて、わざわざ目に映すようなものでもないように思える。

(可愛いか? これが?)

 ソウは小動物が好きだ。
 アメンボを飼っているのは初めて見たが、梅雨時期に外へ出かけると高確率でカタツムリを連れて帰ってくる。

「不思議だよねぇ……どうして、水の上を滑れるんだろう」

 ほう、とため息をついて惚れ惚れしているソウ。
 都真にはアメンボよりも、ソウ自身のほうが不可思議に思えて。

 だからソレは、ほんのちょっとした悪戯心だったのだ。
 手洗い場の石鹸を、水槽に投げ込んでしまったのは──

「──っ……!?」

 ぽちゃん、と音を立てて水槽に沈んでいった石鹸は、見る見るうちに溶けてしまった。
 白い煙のように溶けた石鹸の水溶液は、だんだんと範囲を広げて、そして……

「小型のアメンボは六本の脚を使って歩いて移動する。ただし、界面活性剤が水に含まれて表面張力が弱まると浮けなくなって、溺れ死んでしまう」

「どうしてっ……」

 突然、がばっと立ち上がったソウの勢いに、不覚にも驚かされた。
さっきより真っ赤になって眉をつりあげるソウに、都真は若干後ずさるほどに。

「どうしてって、それが摂理……」

「どうして溺れるって知ってるのに、石鹸なんて入れたの!? 都真のバカ!」

 朱をはいた目元に涙を浮かべてわめくだけわめいて、ソウは走り去って行ってしまった。
 後に残ったのは、黄色の水槽と、その水でおぼれたアメンボが数匹。

 白衣のポケットの中で、つま先がこつんと音を立てた。

(溺れたのは俺か)

 自身に呆れ顔になる。
 ソウが興味を持っているものの薀蓄を、ちょっと言ってみたかっただけだった。
 つまらない、本当に小さな虚栄心のために、ソウを泣かせてしまった。
 ソウが小動物を好んでそばに置きたがるのを承知していたというのに。


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あきゅろす。
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