Honey Flower(本編+SS)
10
廊下を歩いていると、菫の言うとおり、クッキーの香ばしい匂いがしてきた。
雲英さんが怒るような消し炭は作らずに済んだのかな、と余計なことを考えてしまう。
「リンさん?」
廊下の途中で立ち止まっている彼を振り返る。
壁にかけてある絵画に、吸い込まれるようにして向かい合っていた。
「あ、ああ。すみません」
慌てたように絵から離れたリンさんに「見てもらってもかまいませんよ」と返す。
そうだった。
リンさんは、一緒に暮らしている人の描いた絵を売っているのだ。
日々、ふつうにありすぎて、僕には全然興味が湧かないけど、リンさんは気にかかっても普通だろう。
「いえ、もう見せていただきました。こちらのご主人は絵がお好きなんですか?」
都真が? ……どうだろう。
廊下にかけてある絵は、多分都真が飾っているんだろうけど。
それを入れ替えたり、新しい絵を物色してみたりしているところは見たことがない。
「わかりません。本人いるかもしれませんから、聞いてみます」
明るい光が差し込む温室にリンさんが目を細めた。
その視界に緑がかぶさり、間を縫うようにして蝶が行き来している。
リンさんは空いた手で目元に庇を作って「綺麗だ」と呟いた。
リンさんを連れて奥へ進むと、テーブルの席に都真(とま)が白衣姿のまま、新聞を読んでいるのが見えた。
「リンさん、主の都真です。都真、お客さま。リンさんだよ」
僕の声に、都真はゆっくり立ち上がって、リンさんと挨拶を交わした。
「雨の日に、ソウを助けてもらったみたいで」
「いえ、大したことは。一緒に雨宿りしただけです。ご招待ありがとうございます」
僕のすすめる椅子に遠慮がちにすわるリンさんに、とりあえず、とハーブティーを淹れた。
もう少ししたら、菫が焼き立てのクッキーを持って現れるにちがいない。
座りなおして、また新聞に視線を落としているマイペースな都真の隣に腰を下ろして、リンさんをちらちら見つめた。
(綺麗だなぁ、リンさん)
温室の花を背景にすわっていると、雑踏で見るよりずっと綺麗に見える。
絵のモデルを勤めるというだけあるなぁ、なんて。
そんなことを思っていると、リンさんが唐突に口を開いた。
「都真さん、あの……」
新聞を見ている姿勢のまま、顔だけ上げて、都真はリンさんを見返した。
「あの、不躾で申し訳ありません。絵を、見ていただけませんか……?」
「……。構わないが」
愛想のない都真の返事に、リンさんは緊張したような表情で、それでも手元は丁寧に、僕が勝手に運んできた荷物を引き寄せた。
ゆっくりと包みを外して、絵を都真に向ける。
僕には絵の上手下手はわからないけど、その人物画はまたリンさんがモデルで、十分綺麗に思えた。
都真はテーブルから動かないまま、ちらと一瞥すると「要らない」と短く言った。
「都真! そんな言い方……」
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