Honey Flower(本編+SS)
4
◆リン1
「ただいま帰りました」
古い洋館。
昔は貴族の持ち物だったとか、その愛人が暮らしていたとか。
まことしやかな噂話は聞こえたものの、私が知るかぎり、初めからこの家の主は皓(こう)だった。
煤けた柱。
色褪せた絨毯。
端の欠けた石畳。
それらを抜けて、暖色の照明の下、広いリビングに出る。
軋み音を立てながら歩いていると、「リン」と皓が呼びかけてきた。
「帰りました」
再び同じ挨拶を口にして、派手な色ガラスが嵌め込まれた衝立を過ぎると、主のない椅子の前に、絵筆を置かれたキャンバスが立っている。
本来なら、キャンバスの前にいるはずの主人の姿を探して、視線をさ迷わせた。
キャンバスから離れた床の上、皓が何処かから拾い入れた長椅子。
元々、合成皮革が貼り込まれていた長椅子に、皓が深い緑をむら染めにした麻を、自己流で貼りつけた。
以来、長椅子は皓の休憩場所になっている。
もっとも、最近の皓は、キャンバスの前よりも、お気に入りの長椅子に身を沈めていることが多い。
皓は長椅子に身を横たえ、腹にケットをかけ、目元を赤く染めて、緩く瞬いた。
眠っていたわけではないのだろう。
綺麗な曲線を描く、長椅子の足元に、皓が好きで常備している酒の空き瓶が転がっている。
私が画廊に行っている間、皓は飲んでいたのだ。
「皓。昼間から飲んではいけないと、いつも言っているじゃありませんか。体に障りますよ」
ぼんやりした目元を急に歪ませて、皓はぷいと視線を外した。
「リンに関係ないだろ。飲んだらインスピレーション湧くときだって、あんだよ」
そんなことより、金。
ざっくり言いはなって、絵具に染まった手を差し出しながら、半身を起こした。
促されて、カバンから封筒を取りだし、皓の手に渡した。
血走った目で私を一瞥してから、乱暴な手つきで破り切る。
中身を手に出すと、皓は狂気じみた大声で笑いだした。
「皓……」
「これっぽっち!! 俺の才を、神経を削り取ってできた絵が、これっきりか!!
おまえもおまえだ。これが妥当な額だって、納得して受け取ってきたのかよ? ふざけんな」
「皓、それは……」
説得されて、納得した。
金を受け取った。
それは事実だ。
黙りこんでしまった私は、更に皓を苛立たせてしまったようだった。
皓は今までの緩慢な動きが嘘だったかのように、素早く足元の空瓶を拾い上げると、私に向かって投げつけた。
幾度となくその手に遭っている私には軌跡を予測できる。
角度を変えてかわすと、空を切った空き瓶は壁にぶつかって大きな破片となって飛び、床にこぼれ落ちた。
長椅子からゆらりと立ち上がった皓は、まるで墓場から蘇った死者のような足取りで、ゆらゆらと影を揺らしながら私に近づき、袖にすがりつく。
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