聖王の御手のうち(本編+SS/完結)
1
ダンボールが幾つか積み上げられた部屋の戸口に立って、「うそ……」と、声が呟くように突いて出た。
その声に気づいたのか、積んだ箱の向こうで、まだ口の閉じられていない箱に物を片づけていた天野司酒長が振り返ってくれた。
「汐くん。いつから立っていたんですか、そんな所に」
肩にかかりそうな長めの髪を襟元で一つにまとめ、ジャージ姿で作業する姿は、少しも暑そうには見えない。
開いた窓からは、まだまぶしい残暑の光が床へ差しこんでいるというのに。
「今、来たところです。天野司酒長が……コクマ寮に異動になったって、譲から聞いて……。
……嘘だ、って言って下さい……」
天野司酒長は、困ったように微笑した。
自分で、めちゃくちゃなことを言っているのはわかっている。
積まれたダンボールに、空っぽの部屋。
これこそが、天野さんが異動になったという明白な証拠じゃないか。
天野さんはダンボールの前にひざをついたまま、僕を見上げた。
「本当です。コクマの司酒長に任じられました。尚書も届いています」
熱がかーっと顔に上って、目元に集まってくるのがわかった。
泣いてしまう。
僕のせいだ。
僕が明石の言うとおりにしないから、天野さんは日常を崩されてしまったんだ。
「ごめ……なさい……僕が……」
「どうして、謝ったりするんです。『来るのが遅れたから』なんて言わないで下さいよ? 貴方が体調を崩しているのを知っていて、見送りに来てほしいというほど、わがままではないつもりですからね」
立ち上がって、僕の頭を軽く撫でる天野さんはいつも通り優しい。
薬を飲んだり飲まなかったりの僕は、ここのところ体がだるくて伏せっていた。
今朝になって目が覚めたら、譲が天野さんの異動のことを教えてくれて。
血の気が下がったみたいだった。
――汐。次は、天野司酒長かもしれないよ?
明石の囁き。
天野さんの異動が、明石の他意がなければ良いと、祈るような気持ちになった。
「ケセドからコクマへは昇格です。
聖王陛下は恐ろしいほど頭が切れる。コクマ運営ができると判断されたなら、それは喜ぶべきことです」
天野さんの手が、僕の髪から離れて。
優しい微笑は変わらない。
僕は天野さんが言ったセリフを、心の中で繰り返した。
明石は、頭がきれる……。
僕と同じ学校へ行くことは叶わなかった明石は、地元の学校へ通っていた。
学期末には成績表が配られるのは、明石の学校も同じで。
身よりのない明石は、保護者代わりである僕の父に成績表を見せるように言われているようだった。
その中身を、僕が見たことはなかったけど、良いのか悪いのかは父を見ていれば一目瞭然だ。
父は、花井の家に後足で砂を蹴ったような形で消息を絶った森村のおじさん――明石の父を毛嫌いしていた。
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