聖王の御手のうち(本編+SS/完結) 1 後ろ手にドアを閉じて、背中をもたれさせる。 膝が力を失って、そのままずるずると床に腰を沈めた。 心臓がどくどくと早鐘を打つ。 呼吸が浅くて、速い。 どうしよう、落ちつかない。 (アオイ) ――坊ちゃん、お迎えに来たわよ? ――明石に会いたいでしょう? ――お父さまに言いつけたりしないわよね? 三森 葵。 ランドリー室で見た経済誌に載っていた写真の女性は、確かにあの頃、夜になると部屋まで迎えにきていた人だ。 すらりと伸びた綺麗な脚を、惜しげもなくさらして。 綺麗に塗った唇を光らせて笑みを浮かべながら、明石が集めた“みんな”がいる部屋まで、僕の手を引いて歩いた。 (三森葵は、あの夜の“アオイ”に違いない。だとしても、どうしてフォレスト代表なの!? いつから!?) 本宅を出ることになっても、置き場所に困るような持ち物はなかった。 父は入院していたし、一日だけ施設に身を寄せていた僕には、すぐに叔父が迎えに来たから。 死が近づいた父の話には、脈絡も筋もなかった。 僕がいないと思っている時は、呟くように母の名を呼ぶ。 その枕のそばで、死の国から母が父を迎えに来ないように、必死に彼女に祈りを捧げていた。 「おまえを……下賤などとは……思ってな……」 父と母の出逢いがどうであったか、当時の僕は知らなかったし、知りたいと思うこともなかった。 父の一方的な恋情によって、母は親族に迎えられることなく屋敷へ来たのだという話は、後に叔父から聞いた。 豪胆だった父のそばで、控えめだった母は、何を語ることもなかった。 今思えば、何も言えなかったのだろう。 真夜中の庭園でしか、彼女は言葉を紡ぐことができなかったのだ。 父は死の間際だけ、あまりにもはっきりと僕を見つめて言った。 「汐……! あいつに近づくな……森村の息子には絶対に心を許すな……!」 「お父さま……?」 森村の息子とは、明石のことだ。 父は、使用人であった明石の父親を嫌いぬいていた。 下賤の血だと、子供だった明石にまでくり返し酷い言葉を浴びせてきた。 しかしまた、父親を失った明石を養育し、仕事にまで明石を伴わせたのもまた父だ。 この最期の言葉は、何なのだろう? 「あいつが……あの下賤の血が、この私からすべてを奪ったのだ……!! 汐、忘れ形見のおまえだけは……」 下賤の血。 良家の血を粛々と受け継いできた父の、口癖ともいえる呪文は、子供のころから何年も繰り返された。 森村さんに、そして明石に。 そして…… 「汐!! 汐、しっかりしろ!!」 うっすらとまぶたを開くと、まつげの端が視界に入った。 [次へ#] [戻る] |