龍のシカバネ、それに月
6
ぬかるんだ泥土が、足にまとわりついてくる。
跳ね返った泥が、浴衣の胸元や顔に触れて、それが実体であることを教えてきた。
上がらなくなってしまった足を止めて、両膝に手を置いて荒い息を整えようと努める。
泥一面の視界が、風に水面を波立たせた。
屈めていた半身を上げると、幾つもの黒い影が、長く尾を引いて、猛スピードで飛んでいるのがわかった。
『ハコ……ハコの匂い……』
『……生き残り……』
『殲滅……』
足元の泥が、脚を伝って這い上がってくる。
ずるずると肌を這う感覚が気持ち悪くて、叫び出したいのに、固まってしまった喉からは声も出ない。
浴衣の中を蠢く泥からも、囁くような声が聞こえた。
『ハコ、の匂い……』
「う……うっ……あ…嫌……」
手で剥がそうと肌の泥を掴むと、糸を引いて伸びていくだけで剥がれない。
腿を伝う泥が腰を這い上がって、胸元を伝う。
脚の付け根に陣取る泥が、ざわざわと蠢いた。
「……や……中、嫌っ……、離れろっ……!」
体についた泥を掴むも、やっぱり完全に剥がれることはなくて。
バランスを崩して泥に腰を落としてしまった僕の周りに、黒い影が飛び回っている。
『ハコ……ハコだ……』
『ハコ、の生き残り……』
足だけじゃ動けなくて、手を泥の中について、四つん這いで進んだ。
それでもまとわりつく泥は僕の体から剥がれずに、すがりつくようにして地面に縫いとめてくる。
「んぅ……か、帰ら…なきゃ」
青鷹さんが、帰ってくるから。
力を削いだまま、帰ってくるから。
びしゃっ、と音をたてて崩れた半身が泥に浸かる。
口元まで浸かってしまった上半身を起こしていると、進行方向から僕の背後に向かって、突風が吹いた。
「うわっ……」
びょう、と鼓膜が震えて、目の前で稲妻が光ったような閃光があった。
眩しくて瞑った目を、恐る恐る開く。
(消えた……)
原色のマーブル模様も、黒い人魂も、僕を苦しめていた泥も。
雑木林は薙ぎ倒されて、光に照らされ、幽霊の手のような枝を揺らしている。
光の中心に、緑色の龍が浮かんでいた。
手で庇を作らなければその実体が見えないほど、眩しい。
背後に開けた藍色の空に浮かぶ月は、龍の光の強さに色を失っているようだ。
「青鷹さん……ですか?」
どうしてか、そんな気がした。
龍の実体を見るのは初めてなのに、怖いとは思わなかった。
光がだんだんと小さくなるにつれ、龍の姿も小さくなり、やがてそれは青鷹さんに“なった”。
「優月!! 大丈……」
大丈夫か、と聞きたかったはずの台詞が途中で切れた。
まだ地面に腰を落としたままだった僕の体のあちこちに触れて、下腹で止まった。
「熱っぽいな。中に入れられたか。ちょっと我慢しろよ……」
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