龍のシカバネ、それに月
7
自分でも、信じられないような大きな声だった。
どうして呼び止めたりしたのか、自分でもわからない。
用事なんて、あるわけないのに。
吃驚したような青鷹さんが、立ち止まって、振り返った。
僕が次に言う言葉を待っている。何も、言えることなんてないのに。
「あ、あの。気をつけて帰って下さいね」
そんなつきなみな言葉を続けるしかなくて。
青鷹さんは「ありがとう」とだけ返事をくれて、歩を進め、やがて雨の靄に消えて行った。
「…………」
見ているしかない。
去っていく時も、隣を歩いている時も、偶然すれ違う時も。
さっき、肩を引き寄せられた時に、しがみついても良かった?
すがりついても?
「東に帰りたい」と言っても?
「青鷹さんのそばに帰りたい」と言っても?
……言えるわけがない。
言ってはいけない。
いくら子供でも、それくらいの分別はあるつもりで。
なくてはいけなくて。
西龍の匣姫として。
唇をきゅっと引き結んで踵を返すと、マンションのエレベーターに乗った。
「おかえり。遅かったね。雨に降られなかったの?」
リビングのテーブルで書き物をしながら、灰爾さんが問う。
「大丈夫です」と答えると、リビングの窓を振り返ってから「ふうん」と言った。
外はまだ雨。
ガラスを叩いてくる雨音が聞こえる。
それでも何も追及してこないまま、灰爾さんは「お風呂できてるよ」と言った。
「お風呂? 早いですね」
「うん。優月ちゃんが雨の中、濡れずに帰って来ても、体は冷えちゃっただろうし? ゆっくり浸かっておいで。お腹は? 空いてない?」
お腹は空いてない。
朋哉さんがくれたお菓子でいっぱいだ。
首を小さく横に振ると、椅子から立ち上がった灰爾さんが手際よく僕の着替えを手渡してくれて。
耳元に小さく囁いた。
「朝の約束。夜にはちょっと早いけど、しよう。待ってるから」
ツキンと胸が痛んだ。
朝の、約束。
――そろそろ、してみませんか。夜。
「あ……」
何をどう返して良いのかわからなくて、うつむいてしまう。
その間に、灰爾さんはバスルームのドアを開けてくれた。
「どうぞ」という言葉の前に、僕は何も言うことができないまま、バスルームに入った。
パタンと、ドアが閉まる。
その向こう側で、灰爾さんが苦い独り言を言っているのは聞こえなかった。
「青鷹に送られて濡れずに済んだのを見ちゃうとね……。ごめんね。急ぎたくなっちゃうんだよね」
ガラス越しに帰ってきた二人の傘が見えた。
優月がエントランスに入った後、こっちを見上げてきた青鷹の顔も。
遠目で、目が合ったかどうかはわからない。
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