龍のシカバネ、それに月
8
「…………っ!」
そんなふうに、言われるなんて思ってなくて。
二の句が告げられなくて。
ごくんと生唾を飲み込んでしまった瞬間、ぱっと灰爾さんの手が離れた。
「しまった、思い出した。そうそう、優月ちゃんが嫌がることはしないんだった」
「灰爾さ……ん」
吃驚、した。
軽く笑い声を立てる灰爾さん。
この人は、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか。
僕からくるっと踵を返すと、リビングに続くドアのほうへ向いたのを、僕も続けて目で追った。
そこに、いつの間にか紅騎さんが立っていた。
立て続けに驚いて声も出ない。
いつからいたんだ、この人。
気配も何も感じなかった。
赤い光を帯びる目をじっと僕の顔に縫い付けて「『いつからいたのか?』って顔だね。君たちが入ってくる前からいたんだよ、匣姫サマ」と呆れた口ぶりで言いながら近づいてきた。
「いつ出て行って良いものか、迷った」
灰爾さんのすぐそばに来て、ほうと息を吐いて、ポケットから鍵を取り出した。
ちゃら、と金属音が鳴るそれは、銀色に光るキーホルダーが揺れている。
「これ。ここの鍵。優月が来るんだから返しといたほうが良いと思ったもんで」
「お気遣い、ありがたいね」
紅騎さんの手から鍵を受け取る灰爾さんは、いつもの笑顔で。
鍵を手放す紅騎さんは、無表情な顔に少し影を落として灰爾さんを見た。
「……本当に、これで良いと思ってんの?」
(何? どういう意味?)
その前に、どうして紅騎さんが灰爾さんの家の鍵を持ってたのかも、なんか気になる気がするんだけど。
『本当にこれで良いと思ってるのか』?
これでって?
灰爾さんは、ほんの一瞬だけ僕を見て、やっぱりいつもの笑みを浮かべて「良いんだよ」と答えた。
紅騎さんはそれに対して「そう」とだけ返して、僕の前を過ぎて玄関を出て行った。
鍵のかけられないドアは、ゆっくりと閉じる。
「今の……何ですか? あの、鍵、とか」
その後の『これで良いのか』とか。
玄関ドアに鍵をかけて、僕の前を通り過ぎながら「気になる?」などと聞いてくる。
まったくいつもと同じ態度だ。
「灰爾さん! 気になります! ちゃんとタダで教えて下さいっ!」
後を追いながら、「初めて先回りされちゃったなぁ」と灰爾さんの笑い声を聞く。
こんな日々なら、大丈夫だろうか。
こんなふうに笑っていれば。
そのうち……
母さんの優しい手のひらがくれる記憶操作がなくても、僕は忘れていけるんだろうか。
その夜だけ、という条件で、僕は自分の部屋で眠ることを許してもらった。
[*前へ][次へ#]
[戻る]
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!