楽園の蕾
第5話 孤独な雨
「これで、大丈夫だと思います。
何度もお手数を取らせてすみませんでしたね」
「いえ…」
結局、用事である、書類の訂正をし終えると長居する事なく、橘さんは帰ってしまった。
「綾香、御飯にしよう」
「…うん…」
後ろ髪引かれる様に、送り出した玄関を見詰めた後、とぉいちゃんの居るダイニングへと向かう。
昨日、彼がリクエスト通り、カレーライスと、サラダをテーブルに置き、食べ始める。
一応、大豆と鶏肉のカレーにしてみたのだが、嫌がる様子もなく、黙々と食べ続けるとぉいちゃんに尋ねる為、口を開いた。
「とぉいちゃん、どうして橘さんと一緒だったの?」
問い掛けた途端、喉を詰まらせ、慌てて水で流し込んだ彼は、涙目で、釈明してくる。
「た、たまたま。
偶然、名古屋駅で橘さんと会ってさぁ」
「ふぅん」
曖昧模糊な返事を返してみたが、すぐに嘘だって判ってしまった。
だってとぉいちゃん、嘘をつく時って、絶対に右眉をひそめるの。
本人は、気付いてないみたいだけど。
ね、橘さんと、何を話したの?
結構不安になったりするんだよ?
「綾香、どうかしたのか?」
テーブルの向こうから身体を乗り出し、私の顔を覗き込むように見る。
考えに集中していた私は、こんな傍にまで、とぉいちゃんが近付いた事さえ、気付かずにいた。
「っっ、ううんっ」
私は大袈裟に首を振り否定を行動で表す。
彼は一瞬、怪訝そうな表情で眉を潜めたけで、直ぐさま『そうか』と言って、再びカレーライスを口に運ぶのだった。
翌日。
「じゃ、行ってくる」
「はぁい。今日何時からだっけ?」
「あ〜、確か、7時30分?いや、8時30分?あれ?」
「も、いいよ。スタートから行くから。
とぉいちゃん、もう少し時間気にした方が良いと思うよ?」
「悪ぃ。来る前に、携帯に電話しろな?」
「うん。いってらっしゃい」
「行ってきます」
ライブがあるとぉいちゃんを、玄関でいつもと同じような会話で送り出すと、私の口からは小さな息が零れる。
理由をはっきりさせるなら置き去りにされたような『孤独感』。
私は、急に静かになった部屋の中、簡単に家の事を終わらせて、早めに家から出ようと決め、踵を返したのだった。
「あ、雨」
洗濯籠を抱え、ベランダに出ると、冷たく細い雨が、音もなく降っていた。
こんな日は、乾燥機に頼りたくもなるが、一緒に生活していた橘が、そういった物を嫌っていた事もあり、綾香も気付けばそれに倣うようになっていたのだ。
だから、雨が降ろうと、雪になろうと、外で干す。
こうなると、刷り込みの何者でもない。
全ての家事を終えると、程よくお腹が、空腹を告げる。
時計を見ると、丁度正午を少し越した辺り。
私は、昨日残ったカレーをアレンジして、ドリアを作って食べ事にした。
広いダイニングテーブルに置かれた一人分の食事を、黙々と口に運んではみるものの、
「味気ない…」
そんな事を独りごちるが、静寂な部屋の空気に溶けるようにして、消えた言葉は、それだけで、私の孤独を増長させるには充分であった。
やっぱり早目に家を出よう。
一人でいる家は、孤独感を増長させるには充分で、雨はそんな寂しい気持ちを、更に認識させる。
手短に、黒のAラインのワンピースの上から、ショート丈のボレロを羽織るという支度を終わらせ、私は駅へと向かう為、雨の中、傘をさして歩く。
まだ、10月だというのに、雨は痛くなる程に冷たくて、凍えそうに成る程寒くて、こんな天気の日は、気分が憂鬱になってしまった。
「…ふぅ…」
憂鬱に溜息が零れ落ちてしまった。
灰色の空から涙の様に降る雨は、早く愛おしい人に逢いたいと、気持ちを逸らせる。
脚は自然と速足で前へと出て、バス停へと急いでたのだった。
バスが駅に到着し、名古屋駅方面の地下鉄に乗ると、天候の為か、日曜日の昼間にしては乗車数が思ったより少なくて、私は座ろうと思い周りを見渡す。
すると、視線の先には、甘く淡い色のロリータ服を着た、私と同じ年齢位の少女が3人、何やらはしゃぐ声が聞こえ、聞こえない様に彼女達から離れた場所に腰を下ろしたが、賑やか過ぎる彼女達の会話は、いやがおうでも耳に入ってしまった。
「…そういえば、『カタルシス クライ』って、今日何番目なんだろうね?」
「え?トリでしょ?あそこ客入れてるし」
「ね、メンバーの誰が好き?」
「あたしは、唯斗かなぁ」
「私は、敬夜」
「私は京也さんかな」
彼女が発した『京也』という名前に意味なく動揺し、読みだそうとしたハードカバーの本を落としてしまった。
意外に音は響き、注目の的となる。
勿論、彼女達の視線も私に向けられてしまった。
でも、私を一瞥すると、彼女達は再び、自分達の好きなメンバー論議に花を咲かせていたのだった。
伏見駅。
静かに地下鉄が駅に滑り込むとドアが開き、吐き出されながら人々が降りていく中、流されように私も降りる。
買い物客に混じり、ロリータ服や、ゴスロリ系の服を着た少女達が多く降りるのを見送ると、私は携帯電話で、とぉいちゃんにに連絡する事にした。
数回のコール音の後。
『はい』
「とぉいちゃん、私」
『お、どうした』
「うん、今、伏見に着いたんだけど、楽屋に行っても大丈夫かな?」
『偉い早く来たな?あ、ちょっと待って。
…敬夜、綾香来るけど良い?…ああ、分かった』
『カタルシス クライ』リーダー敬夜さんと話してるらしい、とぉいちゃんの声がくぐもって聞こえたけど、すぐに、
『今から飯食いに行くから『早くおいで』だってさ』
と、快い返事が帰ってきた。
「…うん、すぐに行くね」
私は答えを短く返し、改札を出ると、また雨の中、とぉいちゃんの居るライヴハウスへと、傘を差し、再び歩き出したのだった。
続く。
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