楽園の蕾
第17話 天使の梯子
それは、6月のある日の事。
当時中学1年生だった私は、真新しい制服に身を包み、毎日が新鮮で楽しかった。
「じゃあ、行ってきます、橘さん!」
「あ、待って下さい、綾香さん」
登校する為、玄関に向かう私を、後見人の橘さんが呼び止める。
「最近、この辺りで若い女性の方を狙った暴行事件があったそうなので、なるべく早目に帰って来て下さいね?」
心配顔で私に言う橘さんは、まるでお母さんみたいだな、と思う。
「解りました。気に留めておきますね?」
私が楽観的に言っているのが解ったのだろう。
再度「気をつけて下さいね」と念を押し、見送ってくれた。
外に出ると、曇天の空から滴り落ちる雨。
私は一つ息を零し傘を広げる。
お気に入りの真っ赤な傘。
それを頭上に翳すと、駅に向かい歩き出した。
授業が終わり、帰り支度をしている時、友人の一人が声を掛けて来る。
「緋鷺さん、今日暇?帰りに皆で買い物しようか、って話になったんだけど、一緒にどうかな?」
「買い物…、うん、いいよ」
二つ返事で快諾する。
その時、ふと思い出したのは、『父の日』の事。
橘さんに何かプレゼントしようと思ったのが、私をあの事件に巻き込まれる要因となったのだけれど、その事は橘さんには、未だに話していない。
自分の所為で、私が『あんな事』になったなんて知られたくなかったし、それで橘さんが苦しむ姿なんて見たくなかったから。
橘さんのプレゼントを買って、意気揚々な気持ちで友人達と別れ、駅へと歩く。
空は墨を流した様に暗く、雨足は朝よりも強かったけど、そんな事はお構いなしに気分は軽く、だから、気付けなかった。
怪しい人物が私を付けていた事に。
「結構遅くなっちゃった、橘さん怒ってないかな?」
赤い傘をクルクルと回しながら心配を口にすると、普段は滅多に使わない細い路地が目に入る。
「う〜ん、どうしよう。此処を突っ切った方が、駅まで早いのよね…」
暫く路地の入口に立ち悩む。
「まぁ、仕方ないよね?早く帰らないと…」
誰も聞いてないのに、言い訳めいた事を呟いて、私は細い路地に脚を踏み入れた。
それが、深い森の中に迷い込むなんて知らずに――――。
「ちょっと早計だったかな…」
路地を進むと、街灯も少なく暗かった。
少しだけ不安になっていると、自分の足音の他に、別の足音が耳に届く。
―後ろの人も近道しているのかな?
本当に楽観的だった12歳の私。
一人じゃない安心感で、私は歩いていると、鬱蒼とした林が目に入る。
此処を通り抜けると、駅まであと少しだった。
何も考えずに、林の中に進み中程まで来ると、後ろに居るらしき人が駆け出すのに気付き、振り返ろうとしたその時、黒い大きな影が私に襲い掛かった。
悲鳴を上げようとしたが、口は大きな掌で塞がれ、背後に立った男性らしき人は、もう片方の腕で、がっちりと私の身体を拘束してきた。
一瞬、驚いたけど、すぐに暴れて抵抗する。
傘は投げ出されていたから、雨に濡れ、じたばたと動かした脚が、泥を跳ね上げさせ汚していっても、それでも構わず暴れてみせた。
私は、塞いでいた手に思い切り歯をたて噛み付く。
それに怯んだ男性が手を離すと、私は成り振り構わず走り出した。
そんなに広くない林の中を逃げ回る。
でも、そんな子供の私の脚を、剥き出しになった木の根が捕らえて転ばせた。
この時、どうして逃げてる間に悲鳴を上げなかったのか、周りには民家があったのに、逃げるだけで精一杯だった私は追い掛けられる恐怖と、転んだ驚きで声を出す事すら忘れていた。
倒れた私に、男性が覆い被さる。
再び口は手で塞がれ、制服は見るも無惨に引き裂かれて、泥水色に染まる。
私は我に返り抵抗してみせると、男性は何かを上から下へ振りかざしてみせた。
胸からお腹にかけて痛くて熱い。
視線をそこに向けると、肌が、真っ赤な血の色に染まって赫い肉を覗かせていた。
「……ぅ…ん゙ぅぅ…ッッ」
―痛い!怖い!誰か、助けて……!!
塞いでいる手とは反対の手が、私の濡れた大腿を撫で廻し這い上がってくる。
気持ち悪くて、吐きそうだった。
だが、そんな時、
「おい!なにやっているんだ!!」
たまたま、私と同じ理由で路地に入り込んだカップルが、私に襲い掛かる男性を見て、大声を出して駆け寄って来る。
男性は、その事に吃驚して、私を解放すると、逃げ出してしまった。
カップルの女性は、私の背中を摩り「大丈夫?」と何度も言ってくれたが、余りの怖さと痛さに何も返せずに、ただ、カタカタと震えていた。
すぐに警察が来てくれ、連絡を受けた橘さんも駆け付けてくれたが、その時の私の記憶は、はっきり言ってないの。
全身を冥い恐怖が私を蝕み、覆い尽くしてしまったから。
暫く入院していた事、それからずっと外が怖くて出れなかった事、何とか学校に行ける様になっても、人が怖くて、気付けば『人間嫌いな緋鷺さん』と呼ばれる様になっていた事。
人という人が全て、犯人に見えた。
だから、拒絶していたんだと思う。
もう二度と、人を愛せない。
誰かと結婚して倖せになる権利は、私にはない。
そんな資格なんて……ない。
私の未来は全て閉ざされた。
「でも、そんな頑なな私のドアを開けてくれたのが、蓮先輩だった」
「………」
「そして、こんな私を愛してくれたのが、とぉいちゃんなの」
「………」
ずっと、無言で綾香の話を聞いていた京也の頬に、一筋の涙が伝う。
「…とぉいちゃ…
「ゴメンな。辛い事を思い出させて、話させて……」
綾香の言葉を塞ぎ、謝る京也の頬を伝う涙を拭いながら、
「ううん。とぉいちゃんに聞いて貰いたかったから」
綾香は、うっすらと微笑む。
その微笑みは、何かを覚悟している様で、京也の心は更に哀しくなる。
多分、自分が彼女から離れて行くのを覚悟しているのだろう。
どうすれば、彼女は自分の言葉を真っ直ぐに受け取ってくれるのか、どうすれば、彼女の闇を払う事が出来るのか、迷いに迷って、京也は口を開いた。
「綾香、愛してる」
「とぉいちゃん?」
いきなりな愛の言葉に、きょとんとしている綾香を強く抱き締め、
「綾香の過去を全て受け入れても愛してる。こんな事で俺が、お前から離れると思ったら大間違いだぞ!?」
彼女の全てを受け入れる覚悟を言葉にした。
「………」
急に黙り込んでしまった綾香の顔を押し付けた肩の部分が、濡れている事に気付く。
静かに泣いている綾香の髪を撫で、
「辛いなら、声を出して泣きな?」
そっと囁く。
次の瞬間、静寂を綾香の泣き声が破った。
京也の背中に回した細い指はきつく彼のシャツを掴み、握り絞めて泣き続ける彼女を、京也は、涙と共に辛い事も流れ消えてしまえばいいのに、と願いながら、飽く事なく綾香の頭を撫で続けた。
外が白みかけた頃、ゆっくりと綾香は塞いでいた顔を上げると、そこには柔らかに微笑む京也の姿が目に入る。
「眼が兎みたいだな?」
「とぉいちゃんも…だよ?」
綾香も微笑み返すと、京也は「そうか?」と照れているのを、頭を掻いてごまかそうとしていた。
「でも、今日からお休みで良かったよね?」
「………だな」
額と額を合わせ笑い合う。
「……とぉいちゃん」
「何だ?」
不意に名前を呼ばれ、合わせた額を離すと、綾香の柔らかい唇が京也の唇を塞いだ。
触れているだけなのに、彼女からしてくる初めてのキスは、甘くて、それだけで溺れてしまいそうだった。
唇が離れる。
「とぉいちゃん、大好き」
そう言って京也を抱き締めてくる。
京也も、華奢な綾香の身体を抱き返し、
「何度も言ってるだろ?『愛してる』がいいって」
耳元を擽る様に囁く。
そんな京也の要求に、一瞬躊躇したものの、意を決したのか、歌う様な囁く声で、
「…愛してる…」
と言葉にしたのだった。
二人の愛の言葉は、曇天の雲間から差し込む『天使の梯子』の様に、暗闇に閉ざされた過去に一筋の光明を射して、天に昇って行くようであった。
続く。
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