楽園の蕾
第10話 I wish
池下の駅前で綾香は手を振りながら、走り去る京也の車を見送ると、小さな溜息をする。

「さ、行こ」

何かを吹っ切る様に緩く頭を振り、そう言って改札口へと歩き出した。



今日は12月25日。
世間ではクリスマス。

電車の中は、親子連れ、カップルが一杯で、座る場所もない為、電車の隅に立っていると

「あれ?綾香ちゃんだ」

満面の笑顔をこちらに向けながらやって来たのは、京也のバンドのボーカル唯斗だった。

「唯斗君?確か家って、全然違う方だよね?」

「うん。うちは小牧。それより、何で綾香ちゃん京也と一緒に来なかったの?」

そう唯斗に問われた瞬間、綾香の表情が曇る。

「…ちょっと、ね。忘れ物したから…」

「そっかぁ。じゃあ、一緒に行こ?」

「…うん」

クリスマスの華やかさとは程遠い、綾香の翳りに気付く事なく、唯斗は楽しげに話していた様だが、綾香は曖昧な返事を返すだけで殆ど聞いていなかった。



ライヴハウスに綾香と唯斗が到着すると、丁度京也が荷物を降ろしている最中で、それを見付けた唯斗は、綾香に悪戯な眼を見せながら人差し指を口に当て「しー、だよっ」とジェスチャーをすると、いきなり走り出し、京也の背後からタックルをする。

「…ぅおッ!!」

「おはよ〜ッ。京也!」

「唯斗!?危ないだろうが!!」

恫喝する京也を無視する様に、唯斗は耳打ちをする。

「京也。俺、綾香ちゃんと一緒に来ちゃったっ」

そんな事を囁かれて、京也は唯斗が走って来た方を見ると、そこには技巧ちない笑みを浮かべた綾香が立ち尽くす。

「お、おはようございます」

動きまで技巧ちなくなった綾香は、身体を折り曲げ、挨拶をしてくるのを見て、

「おはよう」

他人行儀の様に挨拶を返した。

―この、馬鹿唯斗!だから対バンなんて嫌だったんだ!!

心の中で愚痴る京也の後ろを、綾香は、顔を合わせる事なく通り過ぎて行く。
声を掛けようと口を開くが、客が寄って来た為に叶わず、気付いた時には、綾香の姿は消えていた。

―ちっ。あんだけ『哀しませない』って、約束したのに…。何やってんだよ俺!?



「おはようございます」

綾香が楽屋のドアを開くと、そこには蓮一人しかおらず、少し拍子抜けしてしまう。

「あれ?蓮先輩、一人ですか?」

「うん。まだ誰も来てないよ?それより、何かあった?」

「え?どうしてですか?」

「顔、固いよ?」

そう言われて、鏡に映る自分の姿に気付く。
今にも泣きだしそうで、それでも必死で堪えるその表情を。

本当は他人行儀な態度を取られた事が原因じゃない。
すぐ近くに居るのに、話せない事が理由じゃない。
一緒に『演る』と言う意味を、私自身が知らなかっただけ…。

「…綾香」

蓮の大きな手が、綾香の頬に触れる。

「今からでも、キャンセルしてもいいけど?」

「……無理に決まってるじゃないですか」

声が震えないように努めてみたが、どうしても揺れる言葉を、気付かれたくなかった。

「大丈夫です!お客さんも沢山来てるみたいだし、頑張りましょ?蓮先輩!」

作り物の笑顔を、蓮に向けながら

「足りない物があったので、コンビニに行ってきます。蓮先輩、何か要りますか?」

「じゃ、ミネラルウォーターを買って来てくれるかな」

「はい、行ってきます!」

逃げ出す様に飛び出して行った。

―京也の…奴…。

蓮は心の中で憎々しげに呟くと、勢いよく楽屋から出て、京也を見付けた途端、有無を言わさず引っ張り、壁に叩き付けた。

「お前!何やってんだ!!」

何時もは温和な蓮が、京也に向かって怒鳴りつけている為、その場に居た全員は、蓮と京也に視線を注ぐ。

「『泣かさない』って、僕に約束したよな!?」

「……」

「何か、言ったらどうなんだ!」

「……悪い」

うなだれて京也が答えると、気が削がれたのか、掴んでいた手を離して

「綾香は今、近くのコンビニに行ったから迎えに行って来い!」

そう言うと、京也は何も言わず、そこから飛び出す様に走ってしまった。



「あれ?蓮先輩からだ」

メールの着信音がし、携帯を開く。
そこには

『今、京也がそっちに行ったから。
時間ぎりぎりまでゆっくりしておいで。by蓮』

と表記されているのを見て、ぼかん、となる。

「…綾香…っ」

名前を呼ばれ携帯から顔を上げると、そこには冬だというのに、汗だくになった京也が、浅い呼吸をしてそこに居た。

来ないで…。

こちらに無言で歩む京也に、緩く頭を振り、言葉にならない声を出す。
それでも、依然こちらに向かってくる京也から逃げ出したくなり、綾香は踵を返し、走り出そうとする。
だが、それよりも早く、京也の手は綾香の細い手首を掴み、離さなかった。

「何で逃げんだよ!?」

「…だって、誰が見てるか解らないから…」

「見せれば良いだろうが!」

「ダメ!皆に迷惑掛けたくない」

京也は何も言わず、再び綾香の手を掴むと、ライヴハウスとは反対の方角へと歩き出す。

「…とぉいちゃん!」

「良いから付いて来い!」

怒りを含んだ怒鳴り声に、綾香の身体は固まってしまっていた。



着いた場所は、開店前で真っ暗なバーだった。

「そこで、ちょっと待ってな」

京也はそれだけを言うと、奥へ行ってしまう。

暫くすると中の照明が点き、店内の様子を知る事が出来る。
モダンな雰囲気で纏められたインテリア、鮮やかなグリーンが引き立って、とても落ち着けそうだな、と綾香が思っていると

「此処は初めてだよな?」

奥に行った筈の京也が、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを両手に持ち、戻って来ると、その一つを綾香に渡す。

「…此処は…?」

「俺のバイト先」

それだけを返すと、椅子の一つに座り、走って喉が渇いたのか、美味しそうにミネラルウォーターを喉に流し込んでいた。

綾香は呆気に取られて周りを見渡していると、

「ゴメンな?嫌な気分にさせて」

気落ちした声が、綾香の耳に入る。

「ううん。私こそごめんなさい。とぉいちゃんに迷惑掛けちゃったから」

「…どうして、綾香が謝るんだよ!?」

苛立つ声で、身体を竦ませる綾香。

「お前は悪くないだろ?」

「……」

「悪いのは、全部俺だよ。『泣かせない』『悲しませない』って、約束したのに、破ってしまったんだからな」

綾香はゆるゆると首を振り「違う」と呟く。

「誰も悪くないの…。私が弱いから…」

「…綾香…」

「『強く』ならなきゃって何時も思うのに、私の身体はいうことを聞いてくれない…」

「……」

「…見て…」

綾香はそう言って、着ていたコートを脱ぎ、ブラウスの釦を一つずつ外す。

「…おい…」

京也は驚き立ち上がるが、何時もと違う空気が綾香の身を包み、それ以上動く事は叶わなかった。

プツ…ン。

最後の釦を外し終えると

「これが、とぉいちゃんが知りたかった真実…」

そう言い、大きな瞳からはとめどなく涙が零れていた。

綾香の左鎖骨下辺りから、右の腰骨辺りまで、線を結ぶように白く浮かぶ傷痕。

「これの所為で、とぉいちゃんを今まで受け入れる事が出来なかったの…」

「もういい!!…もう…いいから…」

京也は腕を伸ばし、涙する綾香を強く抱き締めた。

「…もう…いいんだ…」

「…っ、ごめんね…ごめ…っく」

腕の中で震え泣く綾香を包み抱く京也は、

「ずっと待つから…無理すんな…」

そっと囁き、更に強く抱いた。

暖かい…。ずっと、こんな温もりに包まれてたんだね。
ありがとう…とぉいちゃん。

漸く落ち着き、顔を上げると、京也の唇が、綾香の額に落とされる。

「綾香、眼がウサギみたいだぞ?」

苦笑いし、京也が言うのを、綾香は、手で顔を覆い隠し、

「恥ずかしいから見ないで」

と講義した。
京也は、綾香の髪を撫でながら、耳元で囁く。

「可愛いから、キスしても良い…か?」

その一言に、動揺を隠せず顔を上げて、彼を見る。
京也は安心させるような優しい微笑で、綾香を見詰めていた。

「…ダメか?」

「ううん」

ゆるゆると首を横に振ると、顎を持ち上げ、そっと瞼を落とす。
ゆっくりと躊躇いがちに近付く気配がする。
吐息が触れる程の距離。
それから、温かで柔らかな唇の感触。
少し震えてるのが解る。

緊張…してるの?

唇が離れると、綾香に抱き着き、脱力感に見舞われた京也が

「はぁ〜〜緊張したぁ〜〜」

と言ったのが聞こえ、思わず吹き出してしまう。

「何だよ、綾香は緊張しなかったのかよ?」

拗ねた様に唇を尖らせて話すのを、クスクスと笑いながら

「すっごく緊張した!」

京也の胸に飛び込み、抱き返した。

「どんな事があっても護るから」

「うん」

「絶対離さないからな?」

「うん」

「約束」

「うん、約束ね?」

小指を絡ませ、笑い合う。

それは、クリスマスの奇跡…かも、知れない。


続く




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あきゅろす。
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