楽園の蕾
第1話 綾香とHyne


「…っ、はぁっ…はぁ…」



駅の雑踏の中、駆け足で走る少女。


特徴はというと、母親譲りの腰まである長い髪を、風に靡(ナビ)かせ、父親譲りの整えられた美貌、細身の身体は、ガーゼ素材の裁ち切りのハイウエストのワンピースに包まれ、霹(ハタメ)かせたワンピースの裾から覗くバランスの取れた脚には、厚底のストラップシューズ。


そんな彼女は、会社帰りのサラリーマンや、OLや、学校帰りの学生に混じり、唯一人だけ、時計の針を早くしたように、人ゴミの中を駆け抜けていた。



漸く、そんな喧騒から抜け出したが、依然走り続ける彼女。



名前を、

緋鷺 綾香(ヒサギ リョウコ)

という。


年齢は、17歳。

今年の春に高校2年生に上がったばかりの彼女は、現在、名古屋市内のとあるマンションに暮らし生活している。

以前は、彼女の後見人である、橘 秀人と共に生活をしていたのだが、綾香が高校に入った頃、身体を壊して東京に戻って以来、悠々自適(?)な一人暮らしをしている。

ただ、去年の年末辺りから、綾香の身の回りに少しだけ変化らしき事象が起ったが…。


まあ、その件については後ほどにして、彼女の動向を見てみる事にする。

何かを急いでいるらしい綾香は地団駄を踏み締め、途中の信号にすら、恨めがましく見つめる。

だが、赤から青に変わった瞬間に、その脚は勢いよく駆け出すのだった。


細く暗い路地を、少しだけ傾斜のある坂を、中学校の壁に沿うようにしながら下り、十字路を左に曲がると、漸く彼女の目的地に到着する。

だが、綾香はその場所の入口には向かわずに、黒く重い、防音扉を開け、落ちたら一たまりもない階段を、バタバタと駆け上がると、アルミ製のドアを、思い切り開け放つ。


「…っ、ゴメンなさい!!」

「遅い!早く支度しないと周りが迷惑する。
 あと一時間で始まるからね」


ヘアスプレーと、ドライヤーを駆使しなから、綾香を窘めた青年、飴屋 蓮(アメヤ レン)は、少しだけ、ため息をつくと、ドライヤーのスイッチを切り、座っていた椅子から腰を浮かせて、綾香の傍まで歩き、華奢な身体には不似合いな大きな掌で、彼女の頭を軽く叩く。


「衣装は、僕が預かっておいたから。
 早く準備したら?」

「うん。ありがと、蓮先輩」

「いつになったら”先輩”呼びを止めてくれるかな?
 もう2年も同じバンドやってるのに…」

「……すみません……」


元来、整った顔に、濃い化粧を施した所為で、更に妖しさ倍増の蓮は、歪んだ笑みを浮かべて、注意を促す。

綾香は、そんな蓮を上目で見て、はあい と答え、今出番の男の子達が戻って来る前に、着替えだけを済ませようと、ワンピースのファスナーに手をかけた所で、ふと、気付き振り返った。


「蓮先輩?
 私、今から着替えるんですけど……」

「は?」


再び椅子に座り、先程の続きをしようとした蓮は、何を今更と言わないばかりに、呆れた顔で振り返ると、綾香を見つめた。

綾香は、そんな飄々とした蓮に、文句の一つでも言おうかと口を開きかけた所で、突然、背後のアルミのドアが、軽い音を立てながら開かれたのだった。


「おはよ〜っす。
 あれ?綾香、まだ支度終わってないのか?
 今やってる奴ら、もうじき終わるぞ?」


そう言いながら、フローリングというには、おこがましい板張りの床を軋ませながら、一人の青年が足を踏み入れて来る。


「とぉいちゃん」

「よっ」


とぉいちゃんコト、藤井 京也(フジイ キョウヤ)は、綾香の傍まで来ると、身を屈め、そっと耳打ちしてきた。


「今日の晩御飯は、カレーがいいな?」

「…うん。解った。
 でも、打ち上げは出ないの?」

「あ、そっかぁ。
 じゃあ、カレーは明日にして、一次会だけ顔出そうかな?」

「うん、それなら、明日ね?」

「りょ〜かい」


こそこそと会話する二人を、蓮は一瞥したが、全く気付く気配はないようだ。

そんな秘密な会話を済ませると、綾香は、蓮が預かっていた衣装を抱え、


「トイレで着替えてくるね?」


そう言い残し、部屋から出て行った。





傍に設置してある半畳程の個室トイレに入り、身につけているワンピースのファスナーを下ろし、白く細い肢体に着けた下着姿になる。

ふと、見下ろすと、左胸から覗く古く肉が浮かび上がる傷が目に入り、綾香は、逸らすようにして、用意された衣装を身につけた。

服の中に入り込んだ髪を、両手でかき上げ出すと、微かに息を零す。


私は、Hyne。弱く脆い綾香じゃない。


まるで呪(マジナ)いのように呟くと、トイレのドアを開け、先程の場所に戻る。

すると、蓮は既に準備を終えたらしく、京也と雑談をしているのを認めた。


そんな様子を綾香もとい、Hyneは軽く認めると、壁一面鏡張りの前に座り、蓮が持って来てくれてた化粧鞄の中の物を用いて手早く準備をすると、そこにはもう、先程の彼女の様子とは違い、妖艶な姿の女性が、鏡の中で微笑んでいたのであった。


――ギシ…ギッ…。


傾斜のきつい階段を昇る足音が聞こえたかと思うと、おもむろにドアが開き、ライヴハウスのスタッフが現れ、


「Alsay+Death(アルセイデス)さん、次出番ですので、よろしくお願いします」


その一言だけを告げ、再びドアを閉じて、階段を降りていってしまった。

一瞬だけ流れた沈黙の後、


「…じゃあ、いきますか?hyne姫」


蓮は鏡の前から立ち上がると、綾香の頭に手を置き、柔和な笑みを見せて、最後の魔法をかける。

綾香も、いつもとは違う微笑みを浮かべ、


「はい」


と、彼が差し出した手を取るのだった。



続く。




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あきゅろす。
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