愛玩乙女
第6話 苺姫
「蜜」
クラシックな木製の扉を開き店内に入ると、僕の眼はすぐに彼女の姿を見付ける。
まるで、何かの引力に引かれたかの様な感覚に導かれ、蜜の元へ歩き出すと、
「……敬夜」
そう呟く蜜の躰を包むようにして抱き締めた。
温かな体温に触れて漸く、僕の心は安堵する事ができた。
だが、その後ろでは、
「綾香、何やってんだ。敬夜も俺も心配したんだぞ!?」
京也が綾香ちゃんを叱っていた。
「もう良いよ、京也。こうして無事だったし……」
そう蜜を抱き締めた腕をほどき、京也の肩に手を置くと、小声で言って止めさせる。
でないと、自分達の所為で、夫婦喧嘩に発展するのが心苦しかったから。
「…それに、早く帰らないと、唯斗が拗ねるしね?」
と、少しおどけて付け加えると『確かに』と言いながら苦笑し、頷いてくれたのだった。
「あの……、敬夜さん?」
二人分の会計を済まし、車に乗り込もうと身を屈めた所で、綾香ちゃんに呼び止められる。
僕は、一度は屈めた躰を伸ばして肩越しに振り返ると、
「本当、ごめんなさい。
私、後先考えずに行動してしまって」
躯をこれでもか、という位折り曲げ謝る綾香ちゃんに、思わず苦笑して、
「そんなに謝らなくても大丈夫だよ?」
『でも……』と、言いそうになる綾香ちゃんの言葉を手で制して止めた。
「さ、行こう」
そう薄く浮かべた笑顔を向けて切り出すが、綾香ちゃんは頷きかけた頭を、何かを思い出したのか僅かに上げて、
「あのですね、敬夜さん。
蜜ちゃん、苺が大好きみたいですよ?
さっきも、美味しそうに食べてたし」
そっと僕の傍に駆け寄り耳打ちをする。
「そう……なんだ。
教えてくれてありがとう、綾香ちゃん」
「いいえ、こんな事しか出来なくてすみませんっ」
彼女に微笑み、御礼の言葉を述べた途端、安心しきった笑顔で綾香ちゃんは、助手席へと移動した。
「…苺…」
新たに得た情報が余りに『蜜らしく』て、可笑しくなる。
たかだかそんな些細な物で、少しだけ気分が浮上した後、京也運転の元、スタジオへ舞い戻る事にした。
僕は自分の秘密が(とはいえ、自ら暴露してしまった感は否めないけど)京也にばれてしまった事もあり、こうなったら洗いざらい話して協力を仰ごうと、二人の住む家へとお邪魔した。
「「拾ったーーー!?」」
ハモりながら叫び、吃驚眼をした顔が二つ並ぶのを見た瞬間、吹き出しそうになって、咄嗟に口元を手で隠す。
事のいきさつを初めて知った京也は、唖然としたまま僕を見ていた。
無論、『あの事』は綾香ちゃんには話してない。
まあ、所謂『男と男の約束』を迎えに行く途中、取り交わしたからだ。
どちらかと言えば、京也の口は固いし、幾ら夫婦だからといって洗いざらい綾香ちゃんに喋る事もないだろう。
ある種の信頼を京也に託し、僕は綾香ちゃんが淹れてくれたコーヒーを口腔に含んだ。
それから現役女子高校生である綾香ちゃんに蜜の勉強を頼むが、暫く思案した後、快くとまでは言わないまでも、了承してくれた彼女に感謝を述べ、京也にからかわれる前に、早々に引き上げる事にした。
「あ、敬夜」
京也が玄関を出ようとする僕を呼び止め、そっ、と耳打ちしてくる。
「ちゃんと、避妊だけはしとけよ?」
囁く唐突な忠告に、僕は軽く苦笑を滲ませ『了解』と返した。
無言が続く中。
帰宅途中である店を見付けた僕は、急停車をして、
「暫く待ってて、直ぐ戻るから」
そう蜜に言葉を残し、駆け出した。
とある店で買い物を済ませると、急いで車に戻った僕の眼に映るのは、不安そうに眉を寄せる蜜の姿。
「お待たせ、帰ろうか?」
後部座席に置いた後、蜜の髪を撫でながらに微笑むと真っすぐ自宅に向かっては車を走らせたのだった。
帰ってきてから、リビングのソファに横になり、ぐったりしている蜜に、
「疲れた?」
と、尋ねるも、何も返さない彼女の前に、さっき買った紙袋を置く。
「?」
「開けてみて?」
僕がそう言うと、躰を起こした蜜は訝しげに紙袋に手を伸ばして中を覗き込む。
「あ」
途端に、蜜の顔は驚き、直ぐに輝く瞳で、隣に座った僕を見た。
中身は、真っ赤に色付く苺。
さっき綾香ちゃんから聞いた蜜が好きであろう苺を、昼間の謝罪の意味を込めて買ったのだが、過剰なまでに反応をする蜜に笑いが込み上げる。
「食べて良いよ?」
「ホント?」
「うん。どうぞ」
食べる事を奨められた蜜は嬉しそうに、袋から苺を取り出しキッチンへと向かう。
キッチンからは、水の流れる音やら皿が触れ合う硬質な音が暫く聞こえてきたが、不意にそれが止むと、蜜が両手に硝子製の皿を持ち、覚束ない脚取りで戻ってくる。
それをローテーブルに置いて、
「いただきます」
と小さな手を重ね合わた後せ、舒にフォークを握り、苺に怖ず怖ずと突き刺す。
まるで小動物みたいな行動をするのだと、蜜の後ろから、一人唇を歪ませ笑いながらも観察を続けた。
小さな唇が、一口では入りきれない苺にかじりつく。
途端に、満面に喜びを表す蜜。
そんな彼女を愛おしく見ていると、
「はい、敬夜も」
そう言って、フォークに刺した苺を僕の前に突き出す。
正直、果物は苦手な筈なのだけど、何故か普通に口に出来た事に驚いてしまった。
一口かじると、甘酸っぱい味が口の中に広がる。
「美味しい?」
と聞く蜜に、
「美味しいよ」
と返すと、また新しい苺を差し出してきた。
ふと悪戯を思いついた僕は、それを指で摘んでから口に銜え蜜に近づくと、彼女の小振りな口の中に押し込む。
繋がった二人の唇の間にある苺は、少しずつ潰れ、苺特有の甘酸っぱい果汁を共有する。
……こく……ん。
唇を離すと、潰れて形を無くした苺が、蜜の喉を上下に動かして通っていく。
それがまた僕の心を掻き乱し、不埒な衝動に駈られた。
……が、そんな欲望を振り払い、
「食べたら、寝ようか。凄く疲れたし」
蜜に素っ気なく声を落とすと、先に寝室へ向うのだった。
本当はもう少し楽しい時間を過ごしたかったけど、まさか自分がこんなにも理性がなかったのだと苦笑を滲ませる。
間接照明を着けるのも億劫で、真っ暗な部屋の中、広いベッドの上で疲れきった躰を横たわらせて暫く、軋む音をさせドアが開き、蜜が入ってくる気配を感じた。
薄く差し込んだ廊下からの明かりも、彼女がドアを閉めた為、再び暗闇となり、こちらに来る足音だけが耳に届く。
「…敬夜?寝た…の?」
息遣いが解る程、すぐ近くにある蜜に、
「…まだ、起きてるよ」
と、抑揚なく呟きながら返す。
暗闇だから解り得ないのに、でも、不安を纏っているであろう蜜を引き寄せ、抱き締める。
腕の中の小さな躰は、最初は驚きで身じろいだが、それも暫くすると力を抜き、僕に預けてきたのだった。
暗い部屋では、お互いの表情は読めず、でも安堵する感情は、重なる呼吸と気配で解った。
そんな中……。
「…あのね」
「ん?なに?」
「…苺…ありがとう」
「また、買ってきてあげる」
蜜の小さな躯が擦り寄り、呟く。
「…うん、ありがとう。敬夜…」
「おやすみ、蜜」
僕が髪を撫でながら囁くと、
「おやすみなさい」
蜜の腕は僕に温もりを与えるように抱き締めてきた。
無音の中、二人の心臓の音だけが重なり合いながら耳に届き、いつしか深い眠りに堕ちていくのだった。
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