ノベコン
桜街空
花の香りに誘われるように顔をあげると、目の前に鮮明な空が浮かんでいた。
雲一つなく、貼り付いたようにただ青がある。そこにポツポツと鮮やかな桃が色づき、えもいえぬ香りを放っている。桜だ。
まだ三月も始まらないくらいなのに、梅よりも早く咲くなんて。
「暖かくて狂って咲いてしまったんですよ」
私の車椅子を押していた看護師が小脇を指さす。ボイラーが温風を吹き上げている。病院のものなのでとても大きい。
熱いくらいの風は、遙か上の空まで滑るように上昇し、桜の花びらを何枚か奪い去る。一週間もしないうちにきっと散ってしまう。仲間と共に咲くことなく、実を結ぶこともなく。
「早く咲くと駄目ね」
私の言葉に看護師は戸惑うように眉を下げる。そして何かを察っしたのか、一言呟いて車椅子を押し始めた。
「でも、綺麗です。きっと来年も咲きますよ」
艶やかな桃色は白い建物の横で誰に届けるでもなく花びらを散らし続ける。
私は空から私がいる大地へと視線を元に戻すと、再び手紙を読み始めた。もう古く、茶色に汚れた紙切れ。私が子役として活躍していた頃に貯めて、読むことなく大人になってしまったファンレター。
ふいに文面が滲む。白い紙の上に、健康に綺麗に輝いていた頃の私が見えた気がしたから。
桜はそれから、満開になった。そして私の予測より少し長く、咲いていた。
街の桜が咲いたのは、それから一ヶ月もたってからだった。
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