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ノベコン
さくらとそら
僕は受け取った小さな瓶を見つめた。中に入った透明の液体が日光を受けて琥珀色に煌く。
「遠野!」
ふいに背後から呼び止められた。振り返った所にいたのは片割れの芳野だった。僕はため息をつく。
「駄目だろ外に出ちゃ」
芳野は不安そうな顔をしていた。
「遅いから心配で。医師さま何か仰った?」
僕は笑顔を作り嘘を告げる。
「芳野少しずつだけどよくなってるって」
「本当?」
芳野が顔を輝かせた。僕の胸の奥に鈍い痛みがはしる。
「本当だよ。でも薬が必要だって言われた」
芳野の表情が梅雨の空の様に曇る。
「芳野は心配しなくていい。早く家に帰ろう」
僕は家へと歩を進める。

「薬ってまた金がいるの」
「仕事を一つ増やせば大丈夫だよ」
「どこが大丈夫なの、遠野ぼろぼろじゃない」
芳野が痛いところをついてきた。僕は黙って唇をかみしめる。
「最近ろくに寝てないし食べてないのに朝から晩まで重労働。この調子じゃ倒れちゃうよ」
芳野の言う通りだった。生活費だけならまだしも芳野の治療費が高い。
無茶な生活のせいで自分の体が限界に近いのは僕自身にだって判ってる。
「でもじゃあどうすればいいんだよ」
僕は言った。そして気付く。
どうすればいいのかだけでなくどうするのかまで決めたはずだ。
僕は懐にしまった瓶を取り出した。
「ーー」
瞬き程の間だった。僕へと芳野が手を伸ばしたかと思うと瓶は奪い取られてしまった。
「返せよ」
僕は取り返そうと必死で手を伸ばす。芳野はそれを軽くかわした。
春風に芳野の長い黒髪が舞う。墨を流した様に艶やかな髪は普段よりも軽やかだった。
「返してほしいなら私を見つけて」
「は?」
悪戯っ子の様に幼く笑う芳野を前に僕はただ困惑する。軽やかに踵を返すと芳野は土がむき出しの道を走り出した。
「待てよ、いきなり何だよ」
僕も後を追って走り出す。重病を持つ芳野にとって激しい運動は発作を招く自殺行為だ。
芳野が着物の裾を舞わせて振り返った。そして穏やかな空気を切り裂いて叫ぶ。
「きゃー、物盗りよ! 誰か捕まえてぇ」
僕の目は点になった。混乱から立ち直った時にはもう土手から駆け上った子供達に組みつかれていた。
「けしからん奴め、成敗!」
「とやーっ」
竹刀の一閃を、頭を庇った腕で受け止める。
「何だよ芳野!」
芳野は十数尺先で輝く様な笑顔を浮かべていた。僕が子供達数十人に組み倒されてもがくのを楽しそうに見つめる。
「誤解だ、あいつは俺の片割れ! 何も盗んでないっ」
ようやく子供達から解放された時、芳野はそこにいなかった。僕は痛む体で家へと帰る。
芳野は家にもいなかった。
今の芳野は大きな爆弾を抱えているのと同じだ。発作が起きれば命が危ない。
外を出歩く事すら医師から禁じられていた。不安がこみあげてくる。
曇りないはずの春の街が急に陰って見えた。
ふと脳裏に懐かしい光景が蘇る。
僕は全力で走り出した。温かい空気に包まれた街を駆け抜ける。肩で息をしながら河原を見下ろした。
澄んだ水面は硝子の様に煌いている。
穏やかな川を見下ろすのは道に沿って佇む樹々だ。舞い落ちる花弁が砂利の河原を桜色に染めている。
芳野は一本の桜の傍に立っていた。僕は胸をなでおろす。近づいて芳野の細った手首を掴んだ。
「芳野!」
芳野は驚いて僕の手を反射的に振り払った。
突然のことに体勢を崩してよろめいた芳野は、桜の絨毯へと倒れこむ。
大丈夫かという僕の問いに芳野は大丈夫だと微笑んだ。そして楽しそうに言う。
「かくれんぼ、私の負けだね」
僕は芳野の隣に腰をおろした。上半身を倒して寝転ぶ。雲一欠片の陰りもない透き通った青が視界一杯に広がった。
「私ね、知ってたよ」
芳野が小瓶を空に翳した。僕は息をのみ次の言葉を待つ。
「これ毒薬なんでしょ? 医師さまから聞いた」
「……」
「もう治らないんでしょ。何で遠野は嘘ついて笑顔作るの。遠野が辛いと私も辛いよ」
芳野の口調は静かだった。だからこそ一言一言が心に迫る。
「私の為ってのは判るけど遠野一人で抱えこんでないで相談して」
「……ごめん」
それ位しか言うべき言葉がみつからない。
「でもここが判ったってことはあの約束覚えてるんだよね」
両親が死んだ後ここに二人で来た。同じ様に空を見ながら約束したのだ。
ーー一緒に頑張って生きようって。
空へと枝を伸ばした桜の樹があの日と変わらずに粉雪の様な花弁を舞わせている。
「芳野、いつ死ぬか判らないのって辛くないか」
真直ぐな僕の問いに芳野はきっぱり言った。
「辛いけど私はそれでも生きたいよ」
その返答を聞いて僕は立ち上がる。芳野はくすりと笑って付け加えた。
「それにいつ死ぬか判らないのは遠野だって同じだよ?」
僕は芳野の手にある小瓶をそっと取り上げる。
怪訝そうな顔をして芳野が身を起こした。僕は大きく腕を振りかぶって瓶を河原へと放り投げた。
瓶は琥珀色の軌跡を描いてーーそして見えなくなった。

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あきゅろす。
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