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RAPTORS
10


 黒鷹の背中が闇に消えるのを、じっと見送った。
 視界が霞んで殆ど物の見分けなど着かなかったが、小ぶりな背中だけは鮮明に目に映っていた。
 もっと小さいと思っていた。
 ずいぶんと背中など見る事が無かったから。
 いつも横でじゃれ合っていたか、前に居て守っていた。
 笑う横顔はすぐに思い出せるが、後ろ姿など見た覚えがあまり無い。
 だから。
 あんなに成長しているとは気付かなかった。
 それは、自分も一緒だろう。
 共に育ってきた。ほぼ同じ道を辿ってきた。
 今、あの背中を見て。
 はっきり分かった。ここから先は共に歩めぬと。
 実感。だが何よりも。
「…縷紅」
 己が身を支えている縷紅に言った。
 知らず、少し笑んで。
「アイツ、もう…大丈夫だな」
 歩む道が一人でも。
 きっと、今のように駆けて行ける。
 もう先導して守りながら前を歩んでいかなくとも、それが僭越な程に強くなっていると。
 自分は、消えた背中をただこの場所で記憶として封じ込めて。
 静かに、消えるべきなのだろう。彼女の記憶からも、いつの日か。
「大丈夫かも知れませんが…貴方の存在は不可欠ですよ?黒鷹も、他の皆も、私にとっても」
 縷紅に言われ、横目に彼を見た。
 口元の笑みに諦めを混じらせて。
「やめてくれ…ガラじゃねぇ」
――俺も、皆の存在の、その大きな価値が今頃やっと分かったんだ。
 もっと息が持つならそうも言えた。
 苦しい呼吸はそんな本音を胸に封じた。
 欠けるなと言われる程、死ぬなと言われる程、辛くもあった。
 皆と行きたい。生きて、この道の果てまで。
「縷紅…戦を、終わらせるぞ」
 だけど歩めぬと知っている。
 ならばせめて、行ける所まで。
「俺を、光爛の元へ…連れて行け」
 予想通り、見開いた目が返される。
 当然の反論をしようと口を開きかけた縷紅より先に、隼は言い切った。
「俺が根を止める。頼む」
 縷紅は口を閉ざした。
 何の為に黒鷹と別れ、ここに残ったのかと――そう問いたいのは山々だった。
 だが問うた所で、隼の口から生きる為などと出て来ないのは判りきった事だ。
 それに、彼は彼なりに根の民として責任を感じているのかも知れない。
 同族が、曳いては親が、これほど終わらせたいと願う戦を延ばそうとしているなら、気も休むに休めはしないだろう。
 多分このまま天幕に押し込めても、這ってでも出て行きそうな――隼はそういう人だし、今もそういう眼をしている。
「分かりました…行きましょう」
 縷紅は頷いた。
 悩んだ時間としてはそう長くは無かったが、互いに長く感じられた時間だった。
 賭けるものがあまりに大きい。それ故に考える事が多くて。
「お前なら…そう言ってくれると…信じてたよ」
 悪戯っ子のように笑む隼。
 生きて欲しいという正真正銘の本音も、それでも隼の意を汲んで結局はこう決断する事も、彼は見抜いていたのだと、縷紅は知った。
 馬を曳き、隼を押し上げて乗らせ、その後ろに騎乗する。
 今この瞬間を、いつか後悔するだろうかと思いながら。
 駆けながら、縷紅は言った。
「今私は、この戦を終わらせるという貴方と志を共にする者として、貴方をお連れしています…しかし」
 風を切る音に混じる、咳を聴いて。
「しかし、貴方を無二の友と思う私は、この行動に異を唱えているのですよ?貴方は私の葛藤を見越した上で笑うのでしょうが」
 縷紅の言葉通り、隼は鼻で笑った。
 笑ったが、そこに侮蔑の色は無かった。
 深く縷紅の懐に身を預け、呟く様に言った。
「友と…思うか」
「ええ。貴方には黒鷹が居て鶸が居て、私の事など目の端に入っているかどうかという所でしょうけど」
 隼は掠れた笑い声を、微かに口元で鳴らした。
「図星ですか」
「どうだかな。…だが」
 改めて友、と言われると。
 つくづく己に似合わないと思ってしまう。
 だがそれは、友を欲しても欲しても孤独だった幼少時代の所為で。
「…悪くない」
 今は、そう言ってくれる人達がいる。
 そう自分を変えてくれたのは、黒鷹しか居ない。
 何だか無性に会いたくなった。
 会って礼を言えるかと訊かれれば、きっと無理なのだが。
 尤も、また会えるとは思っていない。
 今、自ら望んで死地に向かっているのだから。
――クロ。
 心の中で呼び掛けた。
 その時。
「――あれは…!?」
 縷紅が思わず声をあげた。
 天地を裂く閃光。
 間髪入れず、轟音が響き渡った。
「…砲…!!」
 己の問いに己で答えを出す。
 知っている。この、絶望の音。
 以前、天から地に撃ち込まれた。
 はっと縷紅は胸元に視線を落とす。
 顔は見えない。ぐったりと寄り掛かる身体にはどこにも力が入っていない。
 最早咳込む体力も残っていないのだろう。それでも血の匂いがした。
「隼…これ以上は…」
 手綱を引こうとして。
 その腕を掴む手。
 尤も触った程度で、すぐに宙へ滑り落ちた。
 だが、意思は伝わった。
 意思だけは、強過ぎる程に強靭だ。
「ならば…砲弾に当たっても、文句は無しですよ」
 冗談なのか本気なのか、しかし縷紅の事だから本気で言っているのであろう言葉と共に、彼は馬を更に走らせた。
 途中、布陣を指揮する緇宗に出くわした。
 この時ばかりは縷紅も速度を緩める。
「緇宗、今から隼と共に根の撤退を懇願してきます。なので向こうが退いたら、こちらも追撃は無用です」
 少し離れていた為、口に手を添えて声を通らせた。
 緇宗に言葉は届いたらしい。
 一言言ってすぐに立ち去るつもりだったが、向こうが近付くので縷紅も手綱を彼の方に向けて近寄る事にした。
 互いの表情が判る程に近寄ると、緇宗はせせら笑いながら言った。
「お前達で根の総帥を説き伏せるつもりか?」
「ええ。御子息のたっての願いで」
「成程、身内の願いなら聞くという事か。総帥と言えど一人の女に過ぎんな。だが、それが使い物になるとは見えんが」
 顎で示された隼は、閉じそうな眼で緇宗を一瞥して、何事か呟いた。
 さすがに緇宗の元には聞こえなかったらしいが、縷紅の耳にはしっかり届いていた。
「余計な世話だクソジジイ…だそうですよ?」
 涼しい顔で隼の呟きを伝えた縷紅。
 そう、あくまで涼しい顔。いつもの微笑と丁重な言葉に似合う声音で。
 …違和感のある事この上無い。
「お前の口から、それも俺に対して、そんな美辞が聞けるとはな…。そのまま言うか?普通」
 緇宗も苦笑するしかない。
 縷紅は更ににっこり笑って言った。
「だって貴方にこんな事言える好機、そうそう無いじゃないですか」
 好機って…と緇宗が突っ込むより先に、縷紅は馬を駆けさせていた。
 それを呆然と見送りながら、それがお前の本音だったのかよと思わずには居られない緇宗が居た。勿論、縷紅はそう思われているとは毛頭考えていない。

 その先の光景は酸鼻極まるものだった。
 砲撃に吹き飛ばされた屍、もとい肉片があちこちに転がり、その上で人々はまだ狂気の殺し合いを続けている。
 だが砲撃で混乱した為か、そこには戦の規律は無い。
 ただ無作為に、目の前の人間を、獣が狩りをするが如く息の根を止めている。
 そこには確かに敵も味方も無かった。
 ただ首筋に突き付けられた死を恐れる余り、常軌を逸した獣となった人々が居た。
「すみませんね…迂回路が無いもので」
 砲撃のあった現場を通るのだ。隼の負担も尋常ではない。
 出来れば縷紅とて避けたかったが、事態は一刻を争う。大きな遠回りをするより突っ切ってしまうより無い。
 隼は喋る事はおろか、息をするのも苦労している様だが、眼はこの光景を確かに捉えていた。
 まともな神経の持ち主なら、目を背けて然るべき光景。
 それを睨む様に見詰めるのは、責任故だろうかと縷紅は思った。
「…貴方の所為ばかりではありませんよ」
 一応、縷紅はそう声を掛けた。
 これを、俺が戦を始めた所為でとか、俺達を助けようとした所為でこうなったと感じているのであれば、酷な程に重い。
 人員も減った戦場を抜けるのに、そう時間はかからなかった。
 今は砲撃も止んでいる。それは非常に幸運だった。
――しかし誰があんな兵器を…?
 根でないのは明白だ。走りながら、あちこちに隼と同じ病で戦闘から離脱し、ぐったりと臥している兵を何人も見た。
 それに砲は、最近漸く天が開発した兵器。他の国に有るとは考えにくい。
 ならば答えは天の何者か、という事になる。
「…まさか」
 我ながら嫌な事を考え、即座にそれを打ち消した。
 もう根の陣営は近い。
 縷紅は思考を切り替えた。
 隼は光爛を説き伏せるつもりらしいが、そもそも喋る事が出来るのだろうか。
 無理ならば、と言うかどう見ても無理なのだが、それならばその仕事は必然的に縷紅に回ってくる。
 さて何と言ったものかと上辺で考える。
 思考の中核は先程の黒い予感がとぐろを巻いて離れない。
 懸命に己の気を逸らしながら、根の陣営へと入った。
「あ…貴方は…」
 近くに居た兵が縷紅に気付いた様だ。
 元は根と地の両軍を動かしていたお陰で、兵に顔は知られている。
「光爛殿は?」
 縷紅は兵に訊いた。
 兵はぽかんとした顔付きで先の道を指差す。成程、その先に大将の居場所たる煙幕が見える。
 縷紅は礼を言い、馬から降りた。
 流石に敵となった今の身で騎乗したまま陣中を進むのは良くない。
 降りながら、先程の兵に声を掛けた。
「この方がどなたか知っていますね?」
 馬上の隼を二人で慎重に降ろす。
 兵は縷紅の問いに頷き、答えた。
「総帥の御子息ですね?」
「ええ。しかしこの状態です。軍医が居れば呼んで頂いて、看病をお願いしたい」
「馬鹿、やめろ…!」
 今にも走ろうとした兵を、隼の掠れた声が止めた。
 咳をして、息を何度か吸い、それでも整わぬ呼吸でやっと喋る。
「陣中は今…怪我人で溢れているだろう…!?俺なんかに手間を…かけさせるな…」
 隼の立場上、軍医は重傷人を差し置いて診なければならなくなる。
 それで助かる命が助からないなどという事は、あってはならない。
「縷紅、俺は大丈夫だ…。だが少し…ここで休ませて欲しい」
 隼は出来る限り気丈に言ったが、言葉の後にはその場に倒れるように座り込んでしまった。
 こうなっては仕方ない。縷紅は隼の事を兵に頼み、単身で光爛を呼びに行く事にした。
 説き伏せるよりは易しいが、何せ今は裏切者の身である。
 人を制し、人の上に立つ光爛が、裏切りをそう簡単に許すとは思えない。
 加えてこちらは丸腰も同然だ。敵と見做され襲い掛かられてはたまらない。
 縷紅は恐る恐る煙幕を覗いた。
「何者!!」
 流石に即効で気付かれた。
 それも陣中の状況が状況だ。彼女が神経を尖らせているのは容易に見て取れる。
「私です、光爛」
 縷紅は様子見を諦めて我が身を曝した。
 光爛の双眸がますます鋭くなる。
「ほぉ…よくぞのこのこと私の前に出て来られたものだな」
 予想以上に憎まれている。
 裏切りの言い訳ならばいくらでも出来るが、そんな醜い言は通じないだろう。
 縷紅は黙して光爛の言葉を待った。
「どうやら手負いのようだな。調度良い。あの子の仇討ちとして我が刃の錆としよう」
 この急展開には流石の縷紅も慌てた。
「ちょ、ちょっと待って下さい!!あの子とはもしや隼の事…」
「気安くその名を呼ぶでない裏切者めが!!」
 急に切り掛かられたが、幸いにも刃を避ける身のこなしは鈍っていなかった。
 光爛の凶刃をひらりひらりと避けながら、縷紅は必死に叫んだ。
「仇討ちとは…何やら誤解が有るようですが、隼は生きています!!今、この陣中に…!!」
「騙されんぞ!!私の元に書状が来たのだ!!遺髪と共にな!!おのれ天の悪鬼共、許さんぞ!」
「まさか、そんな筈はありません!!とにかく隼に会って下さい!!私を斬るのはその後でも良いでしょう!?」
 途端に光爛は殺意に満ちた動きを止めた。
「会う…あの子にか?」
「ええ。この陣中まで来ています。病を押して、貴方に会いに」
 光爛はしばし考慮し、脇に控える護衛兵を呼んだ。
 そして縷紅を睨み、
「お前の言っている事が事実ならば、無駄な抵抗は止せ」
 釘を刺すと、二人の兵に命じた。
「この者の首をいつでも撥ねられるようにして先導させよ」
 縷紅は後ろ、つまり今から進む方に向かされ、その後ろの兵達の槍が首の後ろで交差している状態で、隼の元まで戻る事となった。
 槍の刃は調度肩の上。つまり兵達がその気になれば、鋏状の槍はいつでも首を落とせる。
 己にやましい事は無い。縷紅は大人しくなされるがままにし、光爛の先導を始めた。
 恐らく煙幕の向こうや林の影に兵を伏せてあると考えているのだろう。光爛は常に警戒しながら歩んでいたが、何事も起こる筈が無い。
 呆気なく隼の元に着いた。
 足音に気付いた隼が視線をくれる。
「…笑えるザマだな」
 実際、半笑いで言われる縷紅は苦笑いしか出来ない。
「崔爛…!生きていたか…!」
 光爛が駆け寄ってきて抱きしめた。
 いつもなら抵抗する所だが、仕方ないから懐に収まってやる。
「心配したぞ…!!お前の遺髪とやらが届けられて、私はもう生きる望みも失っていたが…」
「それでこのザマか」
 感極まる光爛に、息子は非情なまでに冷めている。
 隼の視線の先に気付いて、光爛は縷紅に突き付けられている槍を下げさせた。
 しかし隼の言う“このザマ”はそれだけではない。
「私情で…それも偽の情報に躍らされて、どれだけ民を死なせれば気が済む…!?」
 切れる息も押さえ込んで、十分過ぎる程の怒りを込めて、隼は言った。
 光爛は驚いた目で我が子を見つめる。
「俺の為に…いや、俺の所為にして、民を犠牲にするな…」
「隼」
 縷紅に止められて、隼はそれ以上の言葉を呑んだ。
 光爛は何も言い返す訳でもなく、隼から離れた。
「隼、貴方は髪を切られたなんて事はありませんよね?」
 縷紅が問う。
「ああ」
 意識を失っている時ならともかく、そんな覚えは無い。
「ならばその遺髪は別人のものとなります」
「なんだ、私の間抜けぶりを責め立てるつもりか」
 卑屈に光爛は自嘲する。
 縷紅は真顔で首を振った。
「違います。考えてもみて下さい、簡単に根の民の毛髪が手に入るという事は、敵は根の種族も混じっている。尚且つ、あの砲は天にしか存在しない。ならば、真の敵は根と天の混成軍…そうなると、考えられる勢力は…」
「反総帥派と天の旧王の支持者が結び付いていた…と?」
 光爛の推測に縷紅は頷く。
「そうとしか考えられません。敵は我らを互いに討ち滅ぼさせる腹積もりなのでしょう。総帥殿、そんな面白くない手に乗りたくはないでしょう?」
「…確かに…な」
 縷紅は不敵に笑って言った。
「敵の思惑の逆を突いてやりましょう」




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