RAPTORS 8 縷紅は囲いを出た所で緇宗を捕まえた。 「何のつもりですか」 後ろから問えば、足を止めはしたものの、振り向きはせず問い返された。 「不満か?」 「いえ…寧ろこちらに都合が良過ぎて気味が悪いくらいです」 緇宗は思わず吹き出して振り向いた。 「おいおい、俺が善行をしたら不気味がられるのか?勘弁しろよ」 「そういう訳では…」 「そう言ってるよお前は。それに、俺はお前をいつ向こう側にやった?俺とお前は同じ岸辺に居る。そうだろう?」 否定は出来ない。 今、茘枝にも言われた事だ。 見えずとも確かに存在する隔たり。 「…では捕虜に都合の良過ぎる約束をして…何が狙いですか」 言い直して再び問う。 彼らの敵側として言葉を選べば、あまりに率直な物言いになった。 緇宗は含み笑いを浮かべる。 「何か裏が無いとご満足頂けないようだな」 「貴方の事です。何も無いとは思えない」 「…そうだろうな」 含み笑いを浮かべたまま、緇宗は再び背を向けた。 「何も無いと言っても、お前ですら信じないだろう。俺を信じると言った、お前でも」 「そんな…まさか、本当に何も無いと…!?」 含み笑いが自嘲に変わる。 こんなものは、自業自得だ。 「俺は復讐がしたかっただけだよ、縷紅」 「復讐…!?」 「王権なんざ要らねぇ。世がどうなろうが興味は無ぇ。お前が政をやりたいなら、そっくり権力はやるよ。俺には必要無い物だ」 「そんな事を言って…」 縷紅は緇宗の前に回り込む。 自嘲は消えていた。ただ、気の抜けた様な無表情だけ。 「そんな事を言って、貴方は民の非難を一人で受け止め、表舞台から去るつもりでは…!?」 「そんな英雄じみた事しねぇよ。それこそ気味が悪いな」 縷紅の横をすり抜け、緇宗は行ってしまう。 「ただ楽に生きてぇだけだ。残りの余生くらいはな」 「……」 もう、疑うだけ自己嫌悪になるだけだろう。 信じると確かに己の口で言った、その人を。 裏は無い。 「…ありがとうございます…」 時に憧れ、敬い、恐れ、憎しみを込めて見てきた背中。 その背中に向けて今、深々と頭を下げていた。 頭を上げた時、篝火に照らされた横顔は、酷く厳しかった。 「どうかされましたか…?」 緇宗は何も答えず数歩歩む。 その先は崖となっており、昼間なら大地が一望できる場所だ。 今は闇に包まれている筈の光景。 だが、緇宗に並んで縷紅は信じられないものを見た。 「あの灯り…まさか、地が…!?」 この丘を取り囲む様に、松明の群れがゆらめき、迫っている。 耳をすませば行軍の音が聞こえそうだ。 「…応戦せねばなるまい」 緇宗が低く呟くのを聞いて、はっと体を向けた。 「待って下さい!!地は攻撃は仕掛けません!!あれは我々を攻める灯では…」 「後手に回ってからでは遅い。布陣する」 「ではこちらから手を出さぬと約束して下さい!」 追い縋る縷紅を手で制し、緇宗は後ろから走ってきた伝令に目をやる。 小者は跪き、一息に内容を伝えた。 「陛下、北方より根の軍が攻めて参りました!」 緇宗は頷き、伝令は去る。 唖然と立ち尽くす縷紅を一瞥して、彼は言った。 「裏切られたな」 違う、何かが――そう思いながらも、具体的な考えにはならない。 縷紅はもう一度あの灯を見た。 確実にこちらに近付いている。 「…二人を逃がしても良いでしょうか」 去ろうとしていた足を止め、緇宗は振り向いた。 「こんな時にか?」 「こんな時だからです。黒鷹の言う事なら彼らは耳を傾ける。戦闘を止める事が出来るのは、彼女だけです」 「……」 緇宗はしばし考え、言った。 「ここで捕虜を解放すれば、敵の要求に屈した事になる…。それで民は納得するか?一度放した鳥は、帰っては来んぞ」 縷紅は迷う事無く言った。 「鳥は自由に空を翔けるべきです。それで異論が起こるならば、責任は私が取ります」 「…鳥が飛ぶ事に異論なんざ起こす方が馬鹿げてるな」 「ええ。譲りませんよ、私は」 緇宗はふっと笑って背を向けた。 立ち去りながら、彼は言った。 「翼の有るお前達が羨ましいよ、全く」 縷紅は虚を突かれて、しばしその背を見詰め。 ああ、自分も鳥になれるのか、と。 見えぬ翼で羽ばたいてきた道を思い、これから行く道を進んだ。 その頃、董凱ら地の陣営は、異様な静寂に包まれていた。 静寂の中に微かに響く騒乱、これを聞く為の指示である。 ある筈の無い音。否、あってはならない音なのだ。 少しでも何が起こっているのか掴もうと、董凱達は必死に微かな音に集中していた。 考えられるとすれば二つ。 縷紅と緇宗が麓の敵軍を一掃する事に決めたか、光爛が先走って天を攻めたかのどちらかだ。 無論、董凱は出陣を要請していないし、するとも言っていない。 四方同時に攻めねば意味が無いのは光爛も重々解っている筈だ。いくら三方を預かっているとは言え、何の通告も無しに先走るとは考えにくい。 ならば、攻めたのは天か。 董凱自身がそう仕向けた様なものだ。茘枝から縷紅に、縷紅から緇宗に、自分達の存在を明かしたのだから。 ただ、縷紅ならば攻撃はしないと、緇宗を思い止まらせる事が出来ると思っていた。 それは過大評価だったか。 それとも縷紅自身がこの攻撃を決めたのか―― そうであってもおかしくはない。立場上、当然の決断だ。 「信じると決めたのだろう?」 静寂に溶け込む様な声。 朋輩に考えを見透かされて、董凱は集中を途切れさせた。 「信じてるさ。例えアイツ自身がこの攻撃を決めたのだとしてもな」 「そう思うか」 「ああ。妥当な判断だろ。文句言うつもりは無ぇ。俺でもそうする」 そうか、と低く朋蔓は言い、董凱の横に並んだ。 「諦めただけかも知れねぇな」 己に対して客観的になり、董凱は薄く自嘲した。 「現実に抗う事に疲れちまった。俺ももう歳だな」 「やめてくれ。お前がそうなら私もという事になってしまう」 一つ下の朋蔓の言葉に、董凱は軽く笑った。そしてしみじみと感じた。 「…この四十年、お前が居て良かったよ」 言われた朋蔓はじっと相手の顔を覗き込み、不意に逸らしてしれっと返した。 「私はまだ四十路に達してはいないがな」 「…!!一つしか違わねぇじゃねぇか!!なんだよその主張!?」 「静かにしろ。お前の命令で皆は声を潜めているんだ」 董凱は年甲斐も無く口をぱくぱくさせて怒っているが、朋蔓は無視して背後に目をやった。 引きずる足音がした為だ。 その主は、言わずもがな旦毘である。 「叔父さん!マズイぞ、背後を突かれた!!」 「何!?」 「もうすぐ奴らは攻めて来る…!師匠、何とかしないと!!」 「待て。奴らって誰なんだ!?」 「天の援軍か?」 旦毘は横に首を振る。 「判らない。だが、天から援軍が来るとは思えないだろ?」 天が援軍を呼ぶ要素は何一つ無いのだ。 戦はほぼ勝ったも同然。根と地がこの場に布陣したのも数時間前の話で、援軍を呼ぶ間すら無い。 「だが天ではないとすれば…」 旦毘は厳しい表情で二人を見る。 「…どうやら、お前の悪い予感が当たっちまった様だな」 彼の言わんとする事を察し、董凱が唸った。 「敵は…反体制勢力か…」 天の旧王政支持者と、根の反総帥派。 この二つが結び付いた勢力は、まだ生きている可能性があると旦毘は二人に注進していた。 既に亡き者となった筈の、ある男の幻影と共に。 「どうする?俺達は誰と戦えば良いんだ?」 前と後ろに別の敵。天と挟み撃ちにされるのは御免だ。 ややあって董凱は決めた。 「丘を登る。天の陣にお邪魔しよう」 「は…!?」 「根と合流するんだ。この少数で訳の分からねぇ敵と当たりたくはないからな。上手く行けば天とも協力出来るかも知れない」 「そんな…上手く行くか…?」 訝しい顔をする二人に、董凱はにっと笑った。 「縷紅を信じるんだろ?なら大丈夫だ」 二人は呆気に取られていたが、まず旦毘が笑い飛ばし、朋蔓も苦笑を浮かべた。 「一か八かって所だが…まぁ良いだろう。お前の賭け、乗ってやる」 不承不承とばかりに朋蔓は告げる。 その背を容赦無く叩く手。 「流石は俺の相棒だな!」 朋蔓はお返しとばかりに、自分の肩の高さにも至らない所にある頭を押さえつけた。 「今回だけだ。お前の無茶に乗ってやるのは」 「っと――!」 上から力を込められ董凱は前のめりによろける。 その前に旦毘が立ち塞がり、倒れかけた身体を肩を掴んで起こした。 「――だけど、俺は悪くないと思うぜ?」 「…お前ら」 ありがとな、は口の中にこもって伝わりはしなかった。 その時。 「敵襲!!敵襲!!西方からの敵軍が我が軍に攻撃を仕掛けました!!」 はっと三人は伝令に目をやる。 間髪入れず董凱は指示を出した。 「後退だ!!天の陣に突っ込むぞ!!」 天幕に入って、舞い上がっていた黒鷹の気分はすっと引いた。 寝台の横で手足を床について血を吐く隼。 じわじわと面積を広げる鮮血の海。 黒鷹は駆け寄った。 「隼!!…」 二の句が接げない。とにかく背中を摩る。 腕に力が入らなくなったらしく、身体が前のめりに倒れかけた。 咄嗟に支え、自分の方に引き寄せる。 仰向けにして見えた隻眼は、ひどく虚ろだった。 それでも荒い息で言葉を手繰る。 「…生きられ…るのか…?」 外での会話が聞こえていたのだろう。黒鷹は夢中で何度も頷いた。 「俺の…地の王位の代わりに、皆助かるんだ!みんな…俺も、お前も…!」 隼は、鮮血に染まった口元で、笑って見せた。 「良かった…な」 他人事の様な反応に黒鷹は首を振った。 「お前もだよ…!お前も生きるんだって…!!」 しかし隼は、腕の中で緩くかぶりを振った。 「隼…!!」 「俺はもう…無理だ」 はっきりと、言葉にして伝えられると。 胸が焦げ付くように痛くて。 涙が出た。 「馬っ鹿…!せっかく…せっかく生きていけるのに…そんな事言ってんじゃねぇよ…!!」 支えていた身体を引き寄せて。 抱き留める。薄れた体温を守るように。 限られた時を止められれば良い、と。 「鶫(つぐみ)」 耳元に落とされた意外な名前。 はっと目を見開く。 「…お前の…本当の名前…だろ」 「どうして…!?」 何故、今その名を呼ぶのか、と。 「もう、お前が…鷹である必要は…無い筈だ」 王位はもう手放すのだから。 「そうだけど…」 「お前は…お前の生きるべき道を、生きろ。国でも無く、民でも無い…お前自身の為に」 「…そんな事、出来るのかな…俺に…」 「出来るかじゃねぇ。やるんだよ。選び取るんだ」 返す言葉が浮かばず、代わりに腕に力を込める。 伝えるべき言葉なら溢れる程ある。だが、時間は無い。 それ以上に、言葉では無いものをその腕に込める。 「次に…こうして抱きしめる奴は…お前を幸せにする奴にしろよ…」 「何言って…」 「俺には出来なかった。落胆させる事しか」 「そんな事無い…そんな事無いよ!お前が居たから、俺はここまで来れた。お前が居たから楽しかった…本当に幸せだったんだ…」 「…なら、そのまま前だけを見て歩めるか?」 「……」 答え兼ねる黒鷹。 隼はふっと笑って、言った。 「振り向くな」 俺が居たのは所詮過去だ――お前は前だけを見て生きろ。 そんな隼の思いは、十分過ぎる程伝わった。 だから、受け入れ難かった。 ずっと二人で歩んでいたかった道だから。 「俺を主と思うなら…一回ぐらい命令を聞いてくれ…。隼、お前は俺の側に居ろ。先に死ぬなんて許さない。いつか根で約束しただろ、俺の死に目に居ろって…」 「…そうだったな」 耳元で聞こえる呼吸が乱れ、隼が笑っているのが分かった。 無性に悔しくなった。 「笑ってんじゃねぇよ馬鹿…」 返る言葉が無い。 今まで馬鹿と言えば馬鹿と返ってきたのに。 時はもう、そんな当たり前の日常まで過去にしてしまうのか。 全てを押し流す時の前に、何も変われずに居る自分が居る。 悔しいのは、誰に対してでもない。 他でも無く、成す術も無く現実に目を背けて子供の様にぐずる事しか出来ない自分が腹立たしいのだ。 前を見ろ――それが、出来ない。 「お前が死ぬ時は…迎えに来てやるから」 「あの世から?」 「ああ…有るんだろ?」 黒鷹は泣きながら笑う。 「有るけど…それで約束守る事にはならないからな」 「別に…見てえだけだ。その時お前や…この世界が…どうなってんのか…」 「世界は必ず良くなってるよ。…俺は…」 遠い未来。 その時、皆が笑っていられる世界を作りたくて。 引き換えに、失うものもある。 だが、いつかはそれでも良かったと思いたい。 そうでなければならないのだ。 「…俺は、ちゃんと生きてる」 「死に際なのに?」 「うん、ちゃんと生きてからお前に迎えに来て貰う」 「そうか…それで良い」 「…うん」 見出だした、前へ進む為の道。 まだ朧げだが、ここを行くしかないと。 解ってしまった。いつか道は別れるものだと。 「隼、俺はお前の見れない景色を見る。お前の代わりにしっかり見ておくから…後で、聞いてくれな。下手な説明でもちゃんと聞けよ?余計な事言ったりすんなよ?」 隼は頷く。頭の動きが肩から伝わる。 「分かんねぇよ馬鹿とか言ったらそれ以上教えてやんねぇからな…だから…」 涙が溢れてきて、自分でも情けない程の鼻声になった。 前を見る事は、こんなにも、苦しい。 だが、前を見てもう一度走りまた振り向けば、きっとここから見ていてくれると―― そう信じれば、この道を行けるだろうか。 「隼、俺、生きるよ。幸せになるかは分からないけど、出来るだけちゃんと生きるよ」 [*前へ][次へ#] [戻る] |