RAPTORS 6 「逃げるのか」 侮蔑と怒りを滲ませた声に、隼と黒鷹は馬を引く手を止めて振り向いた。 声の主は旦毘。横に鶸も居る。 「人聞き悪い言い方するな。退却するんだ。この場所は捨てる、それだけだ」 隼が再び馬に視線を戻して応じる。 「それだけ?お前ら何の為にここに来たんだよ?」 隼は煩わしさを思い切り表情に出した。 口を開く気色を見せない彼に代わり、黒鷹が執り成す様に答える。 「皆のやる気を上げる為…でしょ?負けないように。でもさ、戦は何も今日ここでやらなくても良い訳だし…」 「解ってねぇな」 吐き捨てるように旦毘は言った。 「ここを敵に与えるって事は、天に地の領地を与えるって事だぞ?つまり今は、戦の拠点をみすみす与えるって事だ!!そうしたらどうなる?また…いや、前より酷い戦をしたいのか、お前達は」 黒鷹は言葉に詰まって、横目に隼を見た。 そもそも黒鷹も旦毘と同じ考えを少なからず持っているのだ。隼が撤退しろと言うから従っている様なもので。 その理由も十分解るから黙ってついて行くしかない。 隼は旦毘に背を向け、口を引き結んでじっと立っている。 「…臆病風に吹かれたか、隼」 肩越しに隼は旦毘を睨んだ。 「…何だと?」 「今更戦が怖くなったのか?自分の死が見えて初めて、大勢の人死にを出す戦ってものがどういうものか解って、怖くなったんじゃねぇのかよ?」 隼の激昂が容易に予測出来て、黒鷹は身を縮めた。 張り詰めた沈黙は長かった。 しかし、予測された爆発は、ついに無く。 「…そうだ。だから…負け戦は出来ない」 隼は、そう静かに言っただけだった。 「負けるかどうかやってみなきゃ判んねぇじゃん」 鶸の言葉に首を振る。 「状況見て物を言え。この霧だ。四方囲まれたら全滅しかない」 小高い丘となっているこの場所は、普段なら見通しが良く、戦いには有利な場所だ。 しかし今は霧深い夜。知らぬ間に丘を囲まれれば、逃げ場は無くなる。 「だがよ、ここを逃げるのも負けを認めるだけだろう?増してやこの先も勝てるかどうか。何せ絶好の拠点を相手に与えちまうんだからな」 隼は口を結んだまま乗馬した。 黒鷹が戸惑っていると、早く乗れと低い声で促された。 躊躇いながら乗る。 「俺には王を守る義務がある」 霧に溶ける闇を見据えて隼は言った。 「…隼…」 「ここで死なせる訳にはいかねぇんだ」 そうか、と旦毘は応えた。 「仕方ねぇな。自分の信念曲げらんねぇのはお互い様だ」 「ああ」 隼は黒鷹を守るという、旦毘は闘い抜くという、それぞれが固く抱き続ける、信念。 それがどれ程大事なのか解るから、旦毘はそれ以上突っ掛かるのを止めた。 「お前の臆病風が追い風になれば良いがな。まぁ明日は明日の風が吹くって言うし、その決断がどう転がるかなんて誰にも分からねぇ」 彼らしく、からっと笑って。 「逃げろ。俺が殿(しんがり)を務めてやる」 隼ははっと振り向いた。当然、黒鷹も。 「列になるには誰かが後ろにならねぇといけねぇだろ。自然の理だ」 「誰もアンタに頼んでない」 「たまには素直に人を頼れよ。お前は王様守るんだろ?他に居ねぇじゃねぇか」 隼は再び黙るが、今度は沈黙の末に、頼むと低く言った。 旦毘は快活に笑う。 「不景気な顔すんなよ。死んだら議論の続きも出来ねぇだろ?生き延びてやるさ」 黒鷹は頷く。そして鶸に言った。 「お前はさっさと馬連れて来い。置いて行くぞ」 それを聞いて鶸は例によって不満顔。 「置いて行けよ。俺は旦毘と行くもん」 周囲から苦笑混じりの溜息が洩れる。 「言うと思った」 「お約束だな、最早」 「あのなぁ、鶸」 代表して黒鷹が説得。 「いい加減自分の立場を理解しろ」 む、と鶸は反論の構え。 「立場って、俺もう王様じゃないもん」 「そうだけど?」 「王様じゃなかったら別にちょっとぐらい危ない事しても良いだろ?」 「良くねぇから言ってんだよ」 「何で」 「だってお前はポスト俺だもん」 ぽかんとした鶸の顔。 「…ぽすと?」 意味が解っていない。 「俺が居なくなったら、お前が王様ってコト」 ぽん、と鶸は手を叩いて。 「だから俺が大事にされる訳だ!」 ああ!と溜飲が下りた明るい声を、蹄の音が掻き消した。 「…あれ?」 「先行ってるから早く来いよ」 既に二人の背中は霧に消えつつある。 「ちょ、もう置いて行くのかよ!!」 鶸は厩へと走る。 やれやれと旦毘は笑って、鶸の背をのんびりと追った。 軍勢を引き連れて、馬を駆る。 黒鷹を挟んで、隼と鶸が居る。 前後に兵。前方には少数の地の兵。後方には根の兵が長い列を作っている。 その更に後ろには、元東軍の兵。 旦毘が率いる一団が、命懸けの殿を務める。 黒鷹は時々振り返り、人と馬の隊列を確認していた。 霧に呑まれて十人先が見えるかどうか。 「無駄な事は止めろよ」 隼に注意される。 「良いじゃん。減るもんでも無し」 「落馬するぞ」 「そんなに間抜けじゃないって!!」 反対側からきしし、と悪い笑い声が聞こえてきた。 「…お前に笑われる筋合いは無いぞ鶸」 「筋合いは無くても笑うもん」 「な…何だよその屁理屈!!」 「喧嘩はするな。今を何だと思ってんだ」 燻る内から鎮火。 「お前が言うから…」 語尾はぼやけて聞こえない。 今、何が起こっているか――それを考えれば確かにこんな言い合いをしている場合ではない。 黒鷹はやっぱり後ろを見そうになって、止めた。 「心配するな。大丈夫だろ、旦毘は」 「…うん」 「速度を上げよう」 「そうだな」 足で馬の腹を蹴る。 本当はいたたまれなかった。 誰かの命を危険に曝しておきながら、自分は逃げるなど。 だが隼に言われて解った。 かけがえの無い存在を守るという事、それは己の命を差し出す事も厭わない事も有る、と。 黒鷹自身そう考えてきた様に。 黒鷹は、隼に、鶸に、旦毘に――ひょっとしたらもっと多くの人から守られているのかも知れない。 そんな彼らに返すべきものがある。 だから、今は生きなければならない、と。 隣で馬を駆る隼の横顔を見る。 返す事の出来るその時まで。 生きていて欲しい。皆揃って。 「なぁ、隼」 「何だ」 振り向きもせず彼は応える。 構わず黒鷹は続けた。前を見据える横顔だけを見て。 「前にさ、俺はお前も含めて皆を守るって…言ったよな」 いつか、司祭の家で。 「それがどうした」 その時の事を覚えているのかどうか、殆ど聞き流す様な口調で隼は返した。 「別に。…覚えてて欲しかっただけ」 ちらりと翡翠の瞳が黒鷹を映し、またすぐに前を向いた。 「俺が戦をする理由があるとしたら、それだけなんだ」 見失いかけていた唯一の答え。 それ以外は無い。あってはならない。 「だから…だからさ、俺の知らないところで、勝手に死ぬなよ。お前だけは、絶対に」 隼はしばし無言で馬を駆った。 そして低く、応えた。 「ああ。解ってる」 解っていても、可能か否かは――別の話だ。 だから待っているという約束は、もう出来ない、と。 前方を睨む目をますます鋭くする。 睨んでいるのは、己の運命だ。 黒鷹はそんな翡翠の目をじっと見ていた。 彼の悔恨を全て理解していて、それでも。 信じている。未来を。 ――はっ、と。 隼の目が大きく見開いた。 何事かと黒鷹も息を呑む。その時。 無数の弓が空を裂いた。 最前の兵数人が落馬する。 隼の舌打ちが聞こえた。 「怯むな!!突っ込め!」 馬群は更に速度を上げる。 再び弓の雨が降る。 黒鷹は刀を抜き、弓を叩き落とした。 前方に無数の光。霧が光を拡散させ、赤いぼんやりとした光の塊となっている。 それがたくさんの松明だと判るまで、そう時間は要らなかった。 敵軍が待ち伏せていたのだ。 「隼っ…!!」 「戦うしかねぇ…!前方に敵、全軍突撃せよ!!」 隼が刀を前に振りかざす。 夜を揺るがす雄叫び。 それは近付き合い、程なく混じり合った。 黒鷹も馬上で敵と切り結ぶ。 悲鳴、怒号、鋼のぶつかり合う音、馬の嘶き。 凶刃、舞う鮮血、負傷した人々の苦悶の顔。 転がる屍。 消される、命。 ――違う。 「違う…こんなの違うよ!!間違ってる!!」 黒鷹は声に出して叫んだ。 「俺はこんな世界にしたいんじゃないっ…!!こんな事したくないのに…」 戦の騒乱に叫びは掻き消される。 誰もが、目の前の敵の命を奪う事に、己の命を守る事に、必死になっている。 黒鷹自身も例外ではない。 死ねない。だから、斬るしかない。 いくら嫌でも。間違いだと信じていても。 「クロ!!」 隼の声が、地獄の様な戦場から、黒鷹を掬い上げた。 「ここは危ない!!行くぞ!!」 「行くって…えぇっ!?」 隼は黒鷹の乗る馬に鞭を入れ、強制的に走り出させた。 「ついて来い!!鶸、お前もだ!!」 近くで刀を振るっていた鶸が馬の向きを変えて応える。 「隼…俺は逃げる気は…!」 黒鷹はとにかく隼について行きながら、気持ちは後方に引かれている。 だが、後ろ髪もぴしゃりと隼に断たれた。 「元々逃げてただろうがよ!!ここで死んだら元も子も無ぇ!!」 「う…」 黒鷹は返す言葉も無い。 「殿買って出た旦毘達の為にも…お前は一刻でも早く帰らなきゃならねぇ!!援軍出して皆を救うんだ!!」 今退却しているのは全軍のうち半分にも満たない。 陣で待機する残り半分の力を出せば、この難局も乗り越えられるかも知れない。 三人は元々街のあった、建物の入り組む小路に入った。 六年前の戦があるまでは、活気のある城下街だった場所だ。 戦に負け、地の民が戦死したり天に捕われてからは、ただの廃屋の街となった。 だが三人には記憶がある。かつて城を抜け出し、この街を遊び場にしていた頃の。 だからこそ、戦場から逃れ、陣に帰る為の近道が頭の中にきっちり残っている。 迷う事無く廃屋の街を駆ける。だが。 隼が眉間に皺を寄せて、後方を振り返った。 鶸も気付いた様だ。後ろを窺い、言った。 「誰か尾けてる」 「ああ…!」 隼は苛立だしげに応えた。 後ろから蹄の音がぴたりとついて来る。 複数ではない。単体だ。 「迎え撃ってやろうぜ隼!」 どことなく楽しげな鶸の言葉に、隼は二度目の舌打ちをした。 「阿呆か!!急いで帰らなきゃならねぇって言ってんだよ!!遊んでる間は無い!!」 「でもあちらさんは遊びと思ってないだろ?」 隼は大仰な溜息を落とす。 しかし、すぐに顔を起こした――緊張した面持ちで。 「…どうした?」 黒鷹が問う。 「聞こえねえか?囲まれてる」 押し殺した声で隼は答えた。 二人も耳を澄ます。 一騎しか聞こえなかった蹄の音が、左右からも聞こえてきた。 入り組んだ道を利用して、密かに近付いてきていた―― 「…相手は恐らく、相当な手練だ」 「どうする?」 「逃げても無駄…っつか、逃がしてくれそうにないぜ?」 鶸が口元を歪ませて言った。その時。 黒鷹の前を、短刀が走った。 「――!!」 馬の嘶き。 立ち上がった馬を御する事も、手綱を掴む事も出来なかった。 「クロ!!」 地面に叩き付けられ、意思に反して身は転がってゆく。 家の塀だろうか、何か硬い物に頭を打ち付け、黒鷹は気を失った。 「クロっ…!!」 隼と鶸が馬から飛び降り、黒鷹に駆け寄る。 だが。 「――っぶねぇ!!」 鶸の首筋を刃が掠る。 慌てて抜刀して構える。 隼も刀を抜きながら、黒鷹の元まで辿り着いた。 半身を起こし、意識が無い事を確認する。 「クロは無事か…?」 鶸が二人を庇う様に立ちはだかり、敵の出方を窺いながら問う。 「ああ。怪我は大した事無い。多分、脳震盪だろう」 「なら良いけどっ…!!」 言いながら、飛んできた短刀を叩き落とす。 「やっべえなこの状況」 「お前が言うとヤバさが感じられねぇ」 鶸の表情は確かにへらっとしている。 しかしこの場合、危機感故に口元が笑ってしまうのだ。 「隼はクロを頼む」 「解ってる。つか、お前に任せたかねえ」 「うわっ、こんな時にっ!!」 隼の悪態を笑いながら、また短刀を落とした。 「キリが無ぇから出て来いよ!!」 姿を見せぬ敵に叫ぶ。 二人は息を呑んで霧の向こうを窺う。 すると闇の中から、影が現れた。 漆黒の衣を身に纏う、三体の狂気。 「…やべえ」 鶸の口の端が吊り上がる。 「お前と対峙してもこんな緊張しないぜ?」 向き合っただけでひしひしと伝わる、殺意。 「だから買い被るなよ。それに緊張ぶっ壊すのがお前の役回りだろ」 隼は一先ず黒鷹を寝かせて立ち上がった。 ニ対三、相手は恐らく暗殺の場数を踏んで来ている手練。 分が悪いにも程がある。 「向こうが喋ってくれればボケようも有るけどさ」 「誰もボケろとは言ってねぇ。とにかく…」 相手が動く。 「やるっきゃねぇな!!」 「そーゆーこった!!」 二人も動く。刹那、刀のぶつかり合う高い音が霧中に響き渡る。 鶸は力任せに相手の剣撃を弾き返し、後ろに回った別の敵に斬り掛かる。 後ろを抜かれれば、気を失っている黒鷹に刃が届く。 「さっさと起きろぉぉ!!寝坊すけクローっ!!」 無駄に叫びたくなるのも当然だ。 一方、隼は攻撃を受け流し、反撃に移ろうとして。 胸に嫌な突っ掛かりを覚える。 刀を振るいながら咳を抑えられなくなった。 視界が霞む。その向こうで。 敵の口元が、にやりと笑った。 「――!!」 腹部に強い衝撃。 事態が飲み込めない。恐らく相手の得物で打たれのだろう。 呼吸もままならない程に咳込み、立つ事すら出来なかった。 口から血が大量に流れる。 「隼っ!!」 鶸が叫ぶ。が、駆け寄る事も出来ない。 「っ――」 三人の黒い死神を前に、鶸は息を呑んで刀を構え直した。 [*前へ][次へ#] [戻る] |