RAPTORS 4 夜半。日付はとうに変わった頃。 縷紅と旦毘は高い垣根を背に潜んでいた。 茘枝は中の様子を探る為侵入している。 此処は緇宗の邸宅。 軍基地の塀の外だが、そう離れてはいない。 もう一段高い畝には、高級官吏の屋敷が並んでいるが、そこからも外れている。 あくまで軍人である自負から、軍の近くに邸宅を構えた――普通はそう見えるだろう。 だが、かつて右腕として緇宗の腹の内を見てきた縷紅には、そうは思えなかった。 下から、畝の上――官吏のその上、王宮を――狙っている。 陰から、虎視眈々と、獣の眼で。 そして己の下にある物、軍を密かに手中に収めながら。 ある日突然牙を剥くのだ。 「自然の要塞だな、天の王宮ってのは」 声を潜めて旦毘が言った。 縷紅は山の頂上にある城の篝火から漸く視線を下ろす。 「後ろと横は断崖絶壁、正面は軍本部…とてもではありませんが、手は出せませんね」 「それでも出すんだろ?お前も鶸も」 「ええ。勿論です」 真顔で言い切る。 言葉の矛盾に旦毘は軽く笑った。 「勝機有る…んだな?」 『有るのか?』と訊こうとしたが、縷紅の眼が余りに確信に満ちているので言い換えた。 しかし縷紅はゆるゆると首を振る。 「それを作るつもりです…今夜」 「成程な」 縷紅にとって、緇宗を乗り越える事が何よりもの勝機となるのだろう。 それはそうだ。天の軍事力の殆どを掌握する者が消えれば、どんな要塞であっても意味が無い。 しかし、裏を返せばこの要塞以上に敵は強固だと言う事だ。 簡単に事が為せるとは思えない。 「…旦毘、茘枝には言いましたが…」 「何だよ?いやに歯切れが悪いな」 微苦笑して頷く。反応が目に見えるだけに言い辛い。 だが言っておかなければならない。 「例えどんな状況になっても…貴方自身が生きて帰る事を優先して下さい」 「…それはつまり…緇宗に対峙するお前に構うなと?」 縷紅は頷く。 けっと旦毘は喉を鳴らした。 「そんなモン、俺の好きにする。それよりもお前、緑葉どうすんだよ?」 通じない事は想定内だったが、続く問いに縷紅は眉を寄せた。 「…どうする…とは?」 「隼に念押されちまっただろ?お前が決めろって。生かすか…殺すか」 「……」 本当に裏切ったのなら地の為、斬っても構わないと。 そうでなければ――否、どうであれ隼自身は絶対に緑葉を生かしたい筈だ。 信じている。仲間として。 「蓋開けりゃ緇宗にくっついて回っていやがる。どう――判断する?縷紅」 情報を流して重宝されている、そう見るのが妥当だろう。 縷紅は再び畝の上に目をやる。 見る立場で、全ては変わる。それは緇宗の思惑も、緑葉の意図も。 本当の所は本人しか知り得ない。 「ま、お前がどう考えるかは勝手だけどよ」 見れば、兄弟子も同じ様に山を眺めている。 否、遠くを――越えられない時間の向こう、過去を見ているのか。 「奴の姉貴の二の舞にする必要は無ぇよ。そう思う。…お前の為にも」 「姶良の…」 「本当は守りたい人を、自分に嘘ついてまで殺す必要は無ぇ」 あの日、あの時、刃を向けねば殺されていたのは自分だっただろう。 それでも、本音を刃に込める事が出来たなら。 これ程の後悔は、知らずに済んだ。 「見てるこっちも辛いしな」 「…大丈夫です、旦毘。あの時とは違う」 重なる視線は、力強い。 「少なくとも、緑葉より強い自負はあるんです。手加減も出来るし…説得も出来る。万一、私では無理でも隼なら…」 あの友情が演技だったとは、どうしても思えない。 「だから何としても…隼と緑葉は再会させたい」 「その為に生かすと?」 縷紅は頷く。 「…信じてみたくなったんです。仲間というものを」 また後悔するのも嫌ですしと付け足し、笑う。 口には出さないが、そう考えられる様になったのも、ここに旦毘が居てくれるからだろう。 信じられる人が居る。今、ここに。 「なら、何が何でも連れて帰るぜ?良いんだな?」 「はい」 旦毘は満足そうに笑った。 木立が微かな音を発てる。 見上げると同時に、茘枝が飛び降りてきた。 「寝室付近以外は人気が無いわ。ついでに門も開けてきた」 「オゥ、流石だな。準備が良いねぇ」 旦毘の誉め言葉ににこりと笑い、茘枝は二人を促した。 正面に回り、門を潜る。 見張りは居ない。堂々と侵入出来る。 縷紅がここに厄介になっていた頃から、見張りも使用人も緇宗は置かなかった。 無防備だが、それを楽しむのだ。緇宗という人は。 招かれざる客が来たら来たで、それを余興とする。 そんなだから、使用人を置く訳にはいかない。危険だ。 尤も、緇宗の家と書かなくとも知れている。そんな命知らずな侵入者など居なかった。 緇宗は軍の幹部で実戦に出る事は無い。それでも実力が知れ渡る程の、そういう腕の持ち主なのだ。 縷紅は一度も彼に勝った事が無い。 それこそ最後に手合わせしたのはすぐには思い出せぬ程昔の事だが。 敵わない、と感じた事だけはよく覚えている。 確実にあの頃よりは強くなった。それでも、敵うかと言えば―― 自信は無い。皆無に等しい。 だが、現実はそれを許さない。何としても勝たねばならない。 ざくざくと、枯れ葉が足の下で音を発てる。 使用人が居ないから、庭の掃除もしない。 「大丈夫?」 茘枝が横で囁いた。 心ここに有らずなのを見透かされての事だろう。 縷紅は安心させる様、笑んで頷く。 確かに此処では様々な事があった。それに緇宗と対峙するのも複雑な思いは有る。 だが今は、心配される様な感情は持っていない。 不謹慎だが、懐かしいと。 素直に縷紅は思う。 軍に入り緇宗の弟子になってから、出世して官位を得るまでの三年ほどを、この屋敷で過ごした。 この庭も掃除していた。命じられた訳ではなく、余りに酷いので見兼ねてやっていたのだが。 その辺りは鷹揚と言うか、悪人ではないのだ。基本的に、緇宗という師は。 だからこそ、董凱の元で育った縷紅も信頼出来た。董凱仕込みの善悪を見る眼は、緇宗については間違い無かったと思う。 それでも今は、敵なのだが。 善悪だけで敵味方は線引き出来ない。 それぞれの正義が敵を作るのだ。 だとしたら、敵無き世など不可能かも知れない。理念の違いで敵はいくらでも作れる。 だが今は、そういう話ではない。 国という正義の根拠を取り払えば、敵は無くなる。特に天などは有効だろう。 絶対権力者の国王が居なくなりさえすれば。 皆が戦から解放される。 天の王は戦を好んでいる。 自分の地位を誰かに脅かされるのを恐れ、同時に他国を貪る事を悦楽としている。 自然、自国内だろうが他国だろうが、軍の出動は多くなる。 そして軍が去った後は、必ず悔恨が残る。 敵――憎しみ合う者が、増える。 もう止めねばならない。こんな事は。 権力を握る一人の男の所為で、泣く者が、怒る者が、絶望する者が増える事など。 だが、それを一番感じていたのは。 王の命令をひたすら実行してきた、緇宗その人なのかも知れない。 [*前へ][次へ#] [戻る] |