月の蘇る
1
夢の中の喧噪を耳の奥で聞いた気がして、華耶は目覚めた。
白い寝台の上。見知らぬ場所だが、それはもう慣れた。
記憶の中の音。ひょっとして全てが夢だったのではないかと希望を抱き、右耳に触れる。
ちゃんと――身体に、付いている。
夢ではなかった。
あの光景も。
落胆と恐怖が同時に襲う。
「起きたか」
扉が開き、桓梠が入ってきた。
恐々、見上げる。
「昨晩の働きは期待通りだったぞ。褒めてやろう」
見上げる目に、強い光が宿る。
怒り。
「初めてだな。そんな目をするのは」
「朔夜は…!?」
桓梠は口に手を当て、思案する様子で、にやりと笑った。
「都に帰る前に一目会わせてやっても良いだろう。が、後悔するやも知れんぞ」
「悔いる事なんて無い。会わせて」
真っ直ぐな言葉。桓梠は益々笑みを深くする。
「ついて来い」
泊まっていたのは軍施設だった様で、外に出ていくらも歩かぬうちに目的の場所に着いた。
昨晩と同じ場所。
処刑場。
竹矢来が組まれ、その中に、悍ましい道具が並ぶ。
その中に。
「――朔夜!!」
両手首を鎖に繋がれ、宙吊りにされて。
ぐったりと頭を垂れている。その額から、血が落ちる。
身体中から流れる血で、彼の下に紅の水溜まりが出来ていた。
「酷い!!あんな状態で放っておくなんて!」
いくら叫んでも、ぴくりとも動かない。
急に華耶は寒気を覚えた。
「まさか……殺したの…?」
「いいや。まだ殺すには早い」
見開いた目で桓梠を振り向く。
「生きてる…!?」
「利用価値がまだ有るからな」
激情に任せて男の腕を掴み、華耶は叫んだ。
「これ以上彼に何をやらせようって言うの!?あんな姿にして、まだ!?」
「当然の事をやらせるだけだ。罪は罰を持って償わねばならんだろう?」
「罪…!?朔夜が何をしたって言うの!?」
「惚けるな、女。奴は大罪人だ。お前も知っているだろう」
「そんな筈…」
「教えてやろう。かつては梁巴に出撃していた兵百人を惨殺した。最近になって何を血迷ったか私を裏切り苴に付き、私の一部隊を丸々殺した。そして敦峰の非武装の民を殺しまくり、街一つ壊滅させた。最早狂気の沙汰だな」
「待って!!敦峰はあなたが…!」
「私が?何をしたと言うんだ?」
華耶は恐ろしい思惑に気付き、息を飲んだ。
桓梠は敦峰の一件を全て朔夜一人の仕業に仕立て上げるつもりなのだ。
民の怒りや不満をあの肩に全て背負わせて。
それ故に、あの姿を曝すのだ。
「あなたが…彼にあんな酷い事をさせた…。私は見た…」
「お前の証言など誰が聞く?いいか、奴は狂気に取り付かれ、最早見境無く人を殺す様になった害虫だ。駆除せねば民は安んじる事は出来ない。当然の始末だ」
華耶は悲愴な顔で桓梠を見、再び竹矢来に手をかけてその手を中に延ばした。
届かない。あまりに距離は遠い。
「心配せずとも夜になれば傷は塞がる」
笑いすら滲ませて桓梠が横から告げる。
「そして明日からは鞭打ちの刑が執行される。その様子を見て、民は安心するだろう。もう悪魔に自分達を脅かす力は無い、と」
「悪魔はあなたよ!!」
目に涙を溜めて反論する華耶の肩に、桓梠は優しく手を置いた。
「違うな。私は悪魔を超える、神だ」
「…狂ってる…!」
罵りを賛辞と受け取る様に桓梠は微笑み、朔夜に目を向けた。
「良い様だな、月。もう一度私を哄ってみないか?それともいつかの様に泣きながら許しを請うてみるか?まだ許してやらん事も無いぞ」
ぴくり、と。
力無く垂れ下がったままだった頭が、動いた。
血で固まった銀髪の奥に。
鋭く光る、瞳が。
「朔夜っ!!」
「ほう。まだ活きているな」
がくりと、再び頭は垂れ下がる。
代わりに、細い声がした。
「…華耶」
そよ風にさらわれて消えてしまいそうなくらいの声。
それでも、届けたい人にはしっかりと届いた。
「待っててくれ…。必ず…助けに行くから…」
「朔夜…!」
「信じてて…もう、少しだけ…」
流れる涙にも構わず、華耶は何度も頷いた。
「信じてる…!ずっと、信じてるから…!」
それを聞いて。
こちらまで聞こえてきていた、荒い息遣いが、すっと消えた。
再び気を失ったのだろう。
「気は済んだか?」
頭上から、桓梠の高圧的な声が降ってきた。
「次会う時は屍だ。よく見ておけ」
その言葉に逆い、華耶は地面に視線を落とした。
「…彼は、死なない」
呟く。何の確証も無いが、そう確信している。
信じている。必ず、朔夜は生きて、また会いに来てくれる。
「まあ、いい。さて、都に帰るぞ」
細い腕を掴まれ、その場から引き剥がされる。
離れながら、もう一度竹矢来の奥を見て。
心の中で、またね、を言った。
鞭打ちなんざ、これだけ叩かれたら慣れちまうな、と朔夜はぼんやり思う。
もう何日目だろう。三日は経っている。
最初の百回までは確かに痛みを覚えたが、あとは感覚が麻痺していくだけだ。
それより、ちょっと寝てやろうとしたら水をぶっかけられるのが頂けない。おちおち休めやしない。
鞭を振るう兵を、ちらりと目を開けて見る。
汗を吹き出させてひたすら鞭を振るっている。全く御苦労な事だと思う。
夜になれば折角付けた傷も元通りで、やり甲斐が無いんじゃないかと逆に心配してみたりする。
それでもだんだん傷が治らなくなってきた事は否めない。
体力が無くなれば当然治癒能力も使えなくなる。そうなったら――
ま、別にいいか、と呑気に考える。
恐らく命だけは長らえるだろう。このくらいの事ならば。
首でも斬られない限り、蘇り続けるのではないか――
多分桓梠は、もう少し虐ぶったら俺を殺すつもりなのだろう。問題は殺し方だが、高い確率で斬首だ。
その前に、何とかしなければ。
でも、と思う。
これではどうにもならない。華耶を裏切る様だが、もう半分は諦めている。
でも、ああ言っておけば、華耶は生きる筈だ。どんなに辛くても、自ら刃を向ける様な真似はしない。
信じていると言ってくれた。
彼女なら希望が潰えたとしても、愚直に待っていてくれる。
そして生きて、生きて。
いつか、俺の代わりに迎えに来てくれる誰かと幸せになれば良い。
必ず、夜はいつか明けるから。
彼女なら、暗闇に光を差す事ができるから。
俺はそれを信じている。
夕刻。
日が暮れる前に鎖が下ろされ、やっと地に足が付く。無論、立てる力は無いので地面に座ると言った方が正しい。
手鎖はされたままなので、宙吊りの柱に身体をもたせ掛ける形だ。
兵も見物人も居なくなり、やがて夜の帳が下りる。
口がどうにか届く範囲に、水と、腐った飯が、それぞれ椀に入れられて置かれている。
最初の一日、二日は貪る事も出来たが、今は水しか喉を通らない。
抗い難い眠気に誘われるがまま、暫し気絶した様に眠って。
少し回復した頃に、身体中の痛みが神経を叩き起こす。
空を仰げは、月が真上に浮かぶ。
まだ何時間も経っていない事を知り、少しばかり落胆する。
そして痛みと共に長い夜を過ごす。絶望の朝を待ちながら。
気の狂いそうな静寂。夜は悪魔を恐れて誰一人近付かない。
桓梠の言う通り、本当に狂ってしまえば良いだろうかと虚しく考える。
見境無く人を殺す狂気――否定は出来ない。確かにそうだ。
守りたい人すら殺してしまう。
もう嫌だと何度心で叫んだって、この力が有る限り繰り返す。
ならばこれは当然の罰だろう。
こうして自分自身ごとこの力に終止符を打つのなら、それが正解な気がする。
もう、終わりにして良いんだ。
もう、誰も――
「朔夜」
女の声。
華耶だろうかと一瞬期待して、そんな筈は無いとすぐに打ち消した。
また幻聴だろう。死に近い証だ。
「朔夜!」
もう一度呼ばれる。これは幻聴ではない。
誰の声だったかも思い出した。
だが、それも有り得ないのだが…
「於兎か…?」
視力を失った眼がぼんやりと捉える白い顔。
白粉の匂い。於兎のそれだ。
「朔夜、目が…?」
瞼を開けて、顔も間近にあるというのにはっきりと見えていない。於兎もそれに気付いたのだろう。
「ああ。もうあまり見えない。でももう必要無いから」
「そんな…!」
「それより、どうしてこんな所に?わざわざ月の夜に現れるなんざ、まさか霜旋にまで捨てられたんじゃないだろうな?」
「ちょっと、死にかけてる癖に馬鹿言わないで!引導代わりに私達の幸せっぷりを見せ付けてやりたいわ、もう!」
「…あんたの方が酷いぞ何気に」
互いに冗談がきつい。
「あのね、霜旋が桓梠直属の部隊に異動になったの。だから今都に帰る途中。ここには絶対に寄らなきゃと思って来てあげたのよ!夜中じゃないとあなたに近寄れないでしょ?」
「良いのか、霜旋を悲しませる事になっても」
「こんな身体で何が出来るって言うの?あなたに殺される程、私か弱くないわ」
「ああ、確かにお前は図太いもんな」
「な!それはそれで癪ね…!」
冗談はさておき、朔夜は考える。
霜旋が桓梠の直属になったというのも引っ掛かる所だ。だがここから出れない以上、もう関係無いだろう。
それよりも。
「国境沿いまで流されてるのか?悪魔が捕まったって情報は…」
「ええ。国中知らない人は居ないわ。酷い話よね、敦峰を壊滅させた大罪人なんて…やりたくてやった訳じゃないのに…」
敦峰での出来事も、国中の知る所となったのだろう。
これで桓梠の狙いは全て実現した。
国に刃向かえば惨殺される。ただし軍が公式に動いた訳ではないから、民の大半は国に不信を抱かない。
寧ろこうして罪人を処罰する事で、全体の士気と忠誠は高まる。
しかし桓梠は己の権力に溺れる余り、肝心な事を忘れている。
――俺が居なくて戦に勝てるか…こんな国…
そう思えば少しは胸がすくというものだ。
「朔夜、あの…敦峰での事、ありがとう」
「…え?」
詰られる覚えならあるが、感謝される謂れは無い。
「母さんから手紙があった。国はその事を隠蔽してるけど、女子供は皆逃がしてくれたって」
「それは…俺じゃない」
「でも、警告はしてくれたんでしょ?あのね、大怪我を負ってた筈のおじさんがひょっこり帰ってきて、銀髪の子供が助けてくれた、その子が言うには、悪魔が来るから女子供は今すぐ逃げろって言ってた、そう聞いたって書いてあった。あなたの仕業よね、どう考えても」
あの時。
一人だけ救えた、あの人。
久しぶりに、ふっと口元に笑みが灯る。
――全てが無駄じゃなかった。
「於兎…懐を探ってみてくれ」
「え?」
「俺は手が使えないから」
じゃらり、と鎖が頭の上で鳴る。
於兎はその事を思い出して息を呑み、戸惑いながらも血に汚れた薄衣を身から剥がし、懐に手を入れた。
嫌でも傷跡だらけの素肌に触れる。まざまざとその酷さを思い知らされる。
「あ、鞭打ちで壊れたらいけないから、帯の位置に挟んでる。分かるか?」
「ええ…?一体何の事…?」
言われた通り帯の巻かれている部位に指を入れて探ってみる。
「ちょ、擽ったいんですけど」
「あんたがやれって言ったんでしょ!!」
怒鳴り返していたら、何か硬質な物に指が触れた。
摘んで、出してみる。
「これは…?」
鼈甲の欠片。
かつては櫛の形をしていたもの。
「ああ…やっぱり壊れてたか…。悪い」
「何なの?」
「お前の親父さんが、今際の時、あんたにって」
「…え…!?」
「次会ったら渡すつもりだったんだって。“済まない”って言ってた」
二人分の血に汚れた、小さな欠片を握りしめる。
「…俺も、謝んなきゃ」
頭を垂れて。
「ごめん。何も出来なかった。それどころか…親父さんも皆…この手に掛けた。許されないとは分かってるけど…」
冷たい頬を、温かな両手が包む。
優しい力で、垂れた頭を起こされた。
「この国の全員があなたを責めても、私はあなたが悪いとは思わない」
「……」
「生きて。諦めないで。こんな理不尽な力に屈しちゃ駄目だよ。あの娘…華耶ちゃんの為にも…」
ぽとり、と。
涙が傷に沁みた。
折れてしまっていた心のどこかで、誰かが、
生きろと言ってくれる事を待っていた。
於兎も泣きながら、傷と血にまみれた身体を抱きしめた。
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