月の蘇る 9 北州に着いて三日。 休養は何よりもの薬で、寝込んでいた龍晶の具合も随分良くなった。 あの病からずっと青白かった顔色に血の気が戻ってきたのだが、その表情は冴えないままだ。 身体の回復を見計らって、朔夜は街に出る事を提案した。 龍晶は渋った。 「何の為に」 「単なる散歩だよ。何か理由が要るか?」 動くのが面倒なのだろう。机に頬杖を着いて気怠く窓に目を向ける。 雨雲はすっかり去り、青空が広がっている。 「せっかく来たんだ。母上の故郷をゆっくり見て回れば良いんじゃないか?行方について何か手がかりがあるかも知れないし」 「無いだろ」 根拠の無い断定は無視して続ける。 「それに、お前は街の人達の様子を見なきゃならないだろ。王族としてさ」 「見ても何もならない…」 言いながらも立ち上がる。 見ても無駄だとは判っているが、気になる所もあるのだろう。 「忍んで行くぞ。俺だと喧伝するな」 「了解」 にやりと笑って部屋を出る。 龍晶を一目見ようと邸の周りをうろうろする連中が後を絶たない。そのせいか、桧伊は二人を外に出す事はおろか、窓際の部屋に近付ける事も避けているようだった。 その叔父に見つからないように、こっそりと邸を抜け出す。 幸い、今は見物人も少なかった。三日も経てば珍しくもなくなるのだろう。 「お前の叔父さんはちょっと過保護だよ」 裏通りを歩きながら、朔夜は世話になっている主人にうんざりと言わんばかりに発言した。 「そりゃお前の立場が立場だけどさ、子供じゃないし俺まで巻き込んで閉じ込めるなんて。これじゃ軟禁だよ」 「災難だったな。俺と同道すればこうなる」 龍晶は何食わぬ顔だ。 「お前は平気なのか。流石王子様だよな」 「だから王子は止めろ。…叔父上の立場を考えれば、この処置も致し方ないと解っているだけだ」 「立場?また都に気を使ってるって話?」 頷いて龍晶は付け加えた。 「良くも悪くも、この街は俺に好意的だからな」 「それが王様には面白くないのか」 「まぁ、叔父上は俺に何かあってはならんと考えている程度だろう。さっさと無事通過して欲しいのさ」 「なら引き留める事も無いだろ」 「気を回し過ぎなんだよ」 肩を竦めて龍晶は鼻で笑った。 朔夜にはどうもよく判らない。何か他に理由がありそうな気がする。 「それで、どこへ行く?」 訊かれて、朔夜は眉間に皺を寄せた。 誘ったは良いが、そんな事まで考えてはいない。無論、土地勘は皆無なので考えようがない。 「お前は何処か行きたい所は無いのか?」 龍晶は「んー」と空を仰いで軽く考える。 「しいて言えば、祖父さんの墓参かな。一度も行った事の無い不孝な孫のままじゃならないだろうし」 「墓参りかよ。良いけど」 朔夜としては、もっと憂さを晴らせるような明るい場所を考えていたのだが。 だが龍晶にとっては母方の父祖の土地なのだから当然の思い付きだろう。 「そう遠くない筈だ。付き合え」 「場所は知ってるのか」 「うろ覚えだけどな。五つか六つの頃、母とその祖父に連れられて行ったきりだ」 「へ?じいさん自身の墓に?」 「馬鹿、先祖代々の墓所だよ。祖父は、あの一連の事件の責任を負う形で死んだ。一緒に墓参りに行ったあの日から、俺は一度も会う事は出来なかった」 遠い日。まだ無邪気な日。 再会を約束して都に帰った、それきりだった。 「…母と叔父達一族の助命を嘆願して、自分は真っ先に処刑台に立ったと聞いたよ」 「お前の事も助けたかったんだろうな」 龍晶は否も応も言わず、ふっと笑って遠くに目をやった。 「会ったのは数回きりだが…随分可愛がっては貰ったよ。良い人だった」 全てを過去形で語らねばならない寂しさが、眼に浮かんでいた。 「確かにそれは、墓参りくらい行かなきゃならないな」 「だろう?確かこっちだ」 道を曲がり、小高い丘に向かって歩く。 静かな昼下がりだった。 遠く、鉱山から鶴嘴を振るう音が響いてくる。 「母上はこの音を楽しそうに聴いていた」 音源の山々を目を細めて見やりながら龍晶は呟いた。 「金山はこの街の誇りだと言ってな。きつい労働でも皆歌いながら働いていたから楽しそうに見えた、と」 それを語る母の顔もさぞ楽しそうだったのだろう。 「今は国の奴隷の如く、昼夜問わず働かされるから誇りも何も無いだろうが」 美しい記憶は記憶でしかない。 朔夜は苦悶の色を浮かべて鶴嘴を振るう人々しか想像出来なかった。 それはまさに、繍で奴隷とされた同胞の顔だった。 「どうにかならないのか?」 思わず訊いた。 「…どうにかしたいとは思う。だが現実はお前も解るだろう」 全て諦めた顔で龍晶は言った。 ――力が有れば。 ここも貧民街と同じなのかと朔夜は思った。 都のために人々が不条理な犠牲を払っている。 「こんな事、許される筈が無いだろ」 朔夜は怒りを噛み締めて言った。 「都の人々の為なら他の人々はどうなっても良いのか?ほんの一握りの人々がのうのうと暮らす為に、多くの人々が命を削って生きなければならないなんて…」 「その一握りの人々は、その事実も知らないか…見て見ぬ振りだ。声を上げても踏みにじられる。理不尽だが…この国ではどうする事も出来ない」 冷めた口調の龍晶を睨む。 だが思い直した。その冷めた表情の裏に、彼自身が受けた多くの傷がある。 本当はこうも冷静では居られない筈なのだ。それを、己を抑え込んで。己の後ろに居る、大切な人達の為に。 「お前はさ」 言いかけて訊いて良いものか迷ったが、誤魔化す事も出来ず、結局訊いた。 「王が憎くはないのか」 龍晶は口を閉ざした。 そのまま黙々と、丘を登る。 簡単に答えられる問いではなかったよな、と朔夜は少し後悔した。 殴られ、居場所を奪われ、殺されかけ、守りたい人々の命を数多奪われ。 肉親を殺され、母親を奪われて。 それでも兄なのだ。 幼い頃、無邪気に手を延ばした、そのままの気持ちを何処かで残して兄を見上げているのだ。 そうでなければ、この問いに迷う筈が無い。 ここで憎いなんて言ったら立場が危ういとか、そんな保身からくる迷いではないと何故か確信した。 丘を登りきった。 白い石碑が聳える。それが墓標だとすぐに判った。 真っ直ぐそこに歩もうとした朔夜だが、龍晶は足を逸らした。 石碑から離れてゆく。 「どこ行ってる?これだろ?」 「先祖の墓はな。俺の目的はそれじゃない」 眉を顰めて龍晶を追う。 彼が足を止めたのは、何も刻まれていないただの丸石の前だった。 「これ?」 信じられないとばかりに問うと、横目に睨んで龍晶は返した。 「祖父は罪人として処刑された。父祖と共に葬れぬどころか、大っぴらに墓も作れなかったんだ」 流石に朔夜は返す言葉を失った。 何の罪もあろう筈も無い。なのに、死して永劫、罪人として扱われなければならないのか。 「…俺が兄を憎んで何が変わる」 足元の丸石にひたと視線を落として、龍晶は問いの答えを口にした。 「俺が何を考え、どんな感情を抱こうとも、あの人もこの国も変わらない。それなら、もうそんな無駄な事は考えたくない」 「許せるのかよ?今までの事を」 「許されないのは俺の方だろう」 解らない、と朔夜は眉を顰める。 「…憎まれてたのは俺の方だ」 龍晶は言って、目を閉じて亡き祖父へ祈りを捧げた。 その間、朔夜は考えていた。 罪とは一体何なのだろうと。 人は何に許されるべきなのか。断罪されるべき罪は何なのか。 ここでは、許される人と許されぬ罪が全てひっくり返っている気がする。 それとも、自身の感覚が狂っているのか。 この国の感覚と自分の感覚が相容れないだけなのか。 罪とは、そんなに微妙な感覚の上に成り立っていて良いのか。 「爺さんは何て言ってるんだよ?」 きっと、自ら命を差し出して一族を救わんとした彼は、許しを乞うてはいないと思うのだ。 万人に指差されようとも、己を罪人だとは考えていない、誇れる生き方をしたと胸を張って逝った。そんな気がする。 龍晶に、それが伝わるだろうか。 彼は、閉じていた目を開けて、先祖代々の墓標に目をやった。 「いつか向こうで眠りたい、と」 そうかも知れない。祖父や母親の罪とされる事が雪がれて欲しいと、彼自身が願う所だろう。 「そうしてあげろよ。いつかさ、お前の手で」 龍晶は顔を顰めて朔夜を見、丸石に目を落とした。 「…そのいつかが来るとは思えない」 「判らないだろ、何があるか。生きてみなきゃ」 びょうびょうと、丘に吹きすさぶ風の音。 その中に混じる、鶴嘴の甲高い悲鳴。 何かを変えねばならない。生きて。 「まずは…この戦だ」 生き延びる。 初めて龍晶はこの戦の向こうの道が見えた。 まだ、行かねばならぬ道がある。 丘を下り、そのまま何とは無しに街道を歩いた。 改めて、この街の姿を眼に焼き付けたくなった。 建物は悉く古び、往年の発展は過去のものだと語っている。 人通りは少ない。特に子供の姿を見ない。見るのは老人ばかり。労働者らしい男は疲れた顔をして歩いているか、酒の臭いを漂わせて道端に座り込んでいるか。 街全体が疲弊している。その空気がもう何十年と変わらないかのように。 「お前の叔父さんの悪口を言う訳じゃないけど、これは州長が何とかしなきゃならないだろ…」 朔夜が苦言を呈すと、龍晶はあっさりと頷いた。 「あの人には何も出来まいよ。だからこの有り様だ」 「前は良い街だったんだろうけどな…」 目抜通りには様々な店の看板が並ぶが、その殆どが錆びれ、閉鎖されている。 その中で一ヶ所だけ、活気を帯びた場所があった。 中から大勢の人の声がする。二人は何だろうと顔を見合わせた。 その建物の前へ差し掛かる。看板には道場と書いてあり、中から人の声に混じって竹刀を打ち合う音が聞こえてくる。 朔夜はにやりと笑って龍晶を見上げた。 「どうだ?」 「は?」 龍晶は意味が分からず眉間に皺を寄せる。 当然とばかりに朔夜は言った。 「お互いの実力を知っておいて、悪くはないだろ?」 あからさまに嫌な顔をする。 朔夜は可笑しくなった。 「人には見せられない腕前なのか?それなら遠慮してやるぞ?」 「違うっ!別にそういう訳じゃない!」 焦り方が図星を物語っているが朔夜は構わず入って行った。 「じゃあ良いな」 尤もこちらは憂さ晴らしに暴れたいだけである。 「頼もう、たのもーう!」 無謀な道場破りにも見えなくもない。龍晶はなるべく遠巻きに様子を見ている。出来れば他人の振りがしたい。 中から汗だくの目付きの悪い男が出てきた。朔夜をじろりと睨む。 「何だ?」 「ちと道場を貸して貰いたい。龍晶殿下たっての願いで」 「お前!」 あれほど釘を刺したのに、軽々と名前を出してしまう。龍晶の焦りと怒りを、朔夜はちらと舌を出して流した。 突然に雲上人が現れた方はたまったものではない。 「お、お待ちを!」 細い目を目一杯開かせて、中にすっ飛んで戻っていった。 「お前な…」 「良いだろ。名前はこういう時に使うんだよ」 悪びれる気も無い。 待たされる暇も無く、年嵩らしい男が出迎えた。 「お待たせ致しました。道場主の萬新(マンシン)と申します。殿下にお立ち寄り頂き恐悦至極に存じます。むさ苦しい所ではございますが、どうぞお使い下さいませ」 堅苦しい挨拶を聞いて、漸く中に入れた。 「うわぁ」 誘った朔夜は初めて見る道場という物に目を見張っている。自分の稽古は梁巴の家の庭先でしかやった事が無いから、集団での剣術の稽古は見た事が無い。 一方の龍晶は、軍の稽古を毎日のように眼にしているので、道場の汗臭さに顔を顰めるだけだ。 尤も、ここは軍隊のような規律のある場所ではないらしい。二人を珍しげに見て手を止める者や自分勝手に打ち続ける者、果ては酒を持ち込んで飲んだくれている者までいる。 そういう者達を道場主が何とか脇に追いやって、大騒ぎの中二人は場の中心に入った。 比較的真面目そうな者が二人に竹刀を渡しに来る。 「いや、俺は…」 龍晶は辞退しようとしたが、朔夜は竹刀を持って軽く振ると、大声で龍晶に呼び掛けた。 「軽過ぎて吹っ飛ばしそうですよね殿下!ここは木刀といきませんか?」 答えも聞かず、木刀ある?と周囲に訊いている。 龍晶、何も言えないまま木刀を握らされる。 苦虫を潰した顔とは対照的に、朔夜はこれまでに無い程生き生きとした表情で木刀を素振りして頷いている。 「よし。遠慮無しにどうぞ」 構えた朔夜から仕掛ける気は無いらしい。 龍晶はもう自棄っぱちで一歩踏み出した。 [*前へ][次へ#] [戻る] |