月の蘇る 6 それから二日、三日と何事も無く時は過ぎた。 何事も無い、というのは、何事も起こさず、と言っても良い。 朔夜は任務の事など無かった事の様に、千虎と共に苴軍の中で生活していた。 まさか彼が千虎暗殺の為にやって来たとは誰も考えもしない程、その姿は自然なものとなっていった。 ――本当の親子のようだ。 兵達は口々にそう囁き、彼らの姿に心和んだ。 一方、朔夜自身は。 任務の事を忘れた訳ではない。ないが、何となく考える事をやめていた。殆ど拒んでいたと言っても良い。 得物は無いのだからその術は無い、と自分に言い訳して。 ただ、時の過ぎるままに。 この陣に来て五日目の夜が訪れた。 笛の音で兵士達を楽しませた朔夜は、床に着くべく城に向かった。 今宵は愉快な曲ばかり吹いたから、兵士達も浮き浮きと踊ったり歌ったりで、その気分を引きずりながら解散した。 だから目の前に於兎が怖い顔で立っていても、何かの冗談にしか見えなかった。 「ちょっと」 咎める声音で引き止められたが、半笑いで横を素通りしながら朔夜は彼女を振り返った。 「何だよ?」 「こっち来て」 於兎は辺りを伺い人目の少なからざる事を確認すると、朔夜の袖を掴んでぐいぐいと引っ張る。 少し驚きながらも引かれるままについて行く。逃げたいのは山々だが。 この数日、於兎の目が無言の内に朔夜を責めている。自分達がここに来た本当の目的は、一体どうなったのかと。 全く事を進展させようとしない朔夜に苛立っているのは明らかだった。 その事実を突き付けられるから、朔夜は朔夜で於兎に近寄らなくなった。少しでも任務のこと、繍のことは忘れていたい。 だがこうして捕まった以上はおおっぴらに逃げ出す訳にも行かず、二人は兵の居ない陣の外へ出た。 「あんたね、やる気あるの?いつまでこうしてるつもり!?」 朔夜は子供っぽく口を尖らせて、視線は於兎を避けて上に向いたり横に向いたり。 「そのうち決着つけるよ」 「そのうちっていつ!?」 「さぁ。そのうちはそのうち」 「あんたね」 苛立だしい事この上ない口調で最初と同じ台詞を繰り返す。 「遊びに来たんじゃないでしょ?どの口よ、暗殺くらいお手の物だって言ってたのは」 「だって本当だもん」 「だもん、じゃない!このお子様がっ!!」 飛びかけた挙骨を後退りでかわしながら、朔夜は両手の平を突き出して、宥める格好。 「なんであんたがそんなに焦るんだよ!?なんか困る事でもあるのか!?」 「ある!大いにあるのよ!」 「な…なに?」 まさかこんな答えが返るとは思ってなかった。たじろぎながら問い返す。 「あの人に…桓梠(カンリョ)様に早く会いたいのよ!」 急に朔夜は真顔になって於兎をまじまじと見詰めだした。 逆に彼女の方が意外な反応に居心地悪くなる。 「何よ…?何がおかしいの!?」 「いや…おかしいって言うか…」 於兎を捉えて離さぬ眼の光に、剣呑さが混じっている。 「あんた、奴の女なのか?」 「奴!?そんな呼び方無いでしょ!?」 「そんな事どうでも良い!!…それより何であんな奴の事好いてんだよ!?人を人とも思わない最低な男だ。あんたもどうせ捨てられたんだ、さっさと見切り付けろよな」 於兎の顔色がさっと変わった。自身、思い当たる節がある。 しかし、第三者からのそんな言葉を素直に受け入れられる筈が無い。 「あんたみたいなガキが何言ってんの…!?」 浮いた手が、朔夜の喉元を掴んだ。 「あの人が私を捨てる訳が無い…!そんな事…!!」 叫ばれながら、高い耳鳴りが脳内に響きだした。 ふぅっと、意識が遠退く。 ――殺シテシマエ。 頭の中で誰かが命じる。 於兎の叫びを遮って、恐ろしい声が。 ――ミンナ奴ラガ奪ッタ。 奪イ返セ。 殺シテシマエ。 何モカモ、破壊セヨ。 今や首元を掴んでいる於兎よりも青い顔をして、朔夜は彼女に揺すられるがままになっている。 目の前の、敵を、如何にして排除すべきか計算しながら。 ふっと、彼女の声が耳に入った。 「早くあの将軍殺してよ!!帰って全部確かめるから!!あんたが間違ってるって言わせてやるから!!」 ――俺、誰を憎んでたんだっけ…? この人、殺して良かった…? ――違う!!駄目だ!! 次の瞬間、朔夜は於兎を突き飛ばし、木立の中へ走り出した。 後ろから泣き声が聞こえる。それが夜の微かな物音となるまで走って。 ぐらりと、脳が揺さ振られるような眩暈。がさっと落ち葉に全身を受け止められる。 目前に生えていた、青々とした草花が、見る間に枯れる。 少年の周囲の生命という生命が全て、その力を失ってゆく。於兎の代わりに。 朔夜は荒い息をつきながら、その様を見ていた。 これが、自身の力なのだ。 その意思とは関わらず、周囲の命を奪う。或は、救う。 枯れた草花、木々は、また徐々に緑を取り戻してゆく。元より枯れていた草も、また命を吹き込まれる。 ゆるゆると、仰向けに寝返る。 梢の間に、半月が覗いていた。 「…桓梠…」 いつか。 いつか、この手で、必ず。 『お前か、破壊の悪魔とやらは――』 格子の向こうで、こつり、こつりと靴の音を響かせて、男が歩く。 『我々の代わりに敵軍を殲滅してくれたそうじゃないか。尤も、私の兵にも容赦無かったようだが』 漸く互いの顔が見える位置で、耳障りな音は止まった。 自分は冷たい石の床から男を見上げる。目が霞み、殆ど顔など見えないが。 身体は動かない。力を使い果たした為だ。 地下牢の床に棄てる様に転がされている。目覚めたらこうなっていた。 『全く…あの姿を知らなければ、ただの可愛い子供だな。神も罪な事をなさる』 眠る前の事、あの光景は、あの感触は――思い出したくない。記憶の中でさえ、直視は出来ない。 思い出したら、罪に心が潰される。 『だが私はお前を許そう。その代わり、お前は罪を償わねばならん。今日からその力、私のものだ。私の為に働け』 俄かに男の言っている事は理解出来なかった。 ただ、この苦しさから救われるのなら何でもいいと、その一心で頷いていた。 男は満足げに笑った。 『いい子だ。私の名は桓梠。今日これより、お前の主だ――』 どさっ、と重たい音がした。 上から何かが降ってきて、目の前に落ちた。そこまでは音の感覚で判った。 では何が落ちてきたのか? 一番肝心な事を確かめるには、この重たい瞼を押し上げねばならない。 しばらく倦怠感と戦って、漸く開いた目に飛び込んできたもの。 「――うっわ!!」 流石の朔夜も慄いた。 そこにあったのは、人間の頭部。 切断された首からは、まだ血が流れ出し、落ち葉の下の土へ吸い込まれていく。 眼は開いたまま、憎しみに満ちて虚空を睨んでいた。 朔夜は咄嗟に激しい動きは出来ず、ただ出来る限り身体をそれから遠ざけて、しかし目を逸らす事は出来なかった。 数日前、彼はこの若者の顔を見ている。 将軍の命を受けて陣を去った、和睦の使者だ。 「調子は良さそうだな、月よ」 皮肉たっぷりの声が降ってくる。が、その姿は無い。 そんな事は判りきっている朔夜は、視線を首から全く動かさず、呟く様に応えた。 「ああ。いつも通りさ」 「何よりだ。だがその力、あの男に使うべきだったな。さもなくば、お前自身がそうなるぞ」 やっと朔夜は若者の憎しみに満ちた表情から目を離した。 仰向けに寝返って、空から夜の帳が逃げゆく様を確認する。 月はもう地平線に沈んだだろう。 「…やりたければ、殺れば?」 投げ槍に姿の見えない相手に言い放つ。 今なら簡単に、ここに首を二つ並べる事が出来る。 抵抗する気は無い。したくとも、今は出来ない。 鉛の様な身体は、己の命を守る為ですら動きはしない。 「そうしたいのは山々だが、怠った仕事を先に片付けて貰わねばな」 少年は親に手伝いを言い付けられた子供の様に、言葉にならぬ怠い呻き声を発した。 「どうした?奴らはお前の仇だろう?故郷を滅ぼされた恨み、よもや忘れたのではあるまいな?」 「まさか」 即座に否定した。否定しながら、心中で問う。 俺が怨んでいるのは、苴だけだとでも思ってるのか? だとしたら甘い事だ。 そうやって今は驕っているが良い。いつか、己の罪を嫌と言う程、自覚させてやる。かつての俺達の様に、泥の中に跪ずいて泣き叫びながら懺悔するまで。 「何を考えている」 沈黙を不自然に思ったのだろう。鋭く訊かれたが、朔夜は片頬を吊り上げて「別に」と応えた。 「言っておくが、さっさと標的を始末せねば、我が方にも無用の犠牲を払う事になるのだからな」 「…分かってるよ」 この首を千虎が目にすれば、戦は免れない。 その前に彼を亡き者にすれば、確かに犠牲は少なく済むだろう。 戦で散る多くの命が、一つで済まされるのなら。 「くれぐれも、あの男の口車には乗るな。あんなものは幻想だ。子供騙しに過ぎぬ美辞麗句だ」 「それも…分かってる」 殆ど囁く様に朔夜は応えた。目は虚ろで、言葉とは裏腹な本心が透けて見えた。 確かに、ただの美談だ。でも嘘じゃない。千虎は損得抜きで、俺を苴に連れ帰ってくれる。 そう、どこかで信じている。 「…まぁ、良いだろう」 声はどこか嘲笑を含んで言った。 「その時は、あの男の首をそうするだけだ。お前に行く場所など無い。身を置く場所など、我々の元以外には」 ――分かってる… それも、十分過ぎるほど。 言葉にはならなかった。 喉元に突き付けられ続ける、事実だ。 「ゆめゆめ、忘れるな。お前はあの男を殺しに来た刺客だ――」 声は遠ざかり、消えた。 日が昇りきった空。梢の間から少年の上にも光を落とす。 明るみに出すべきではない、本心も。 「殺したくない…そう言ったら、どうする…?」 誰にも届かない声。 「俺があいつを守る…。そうすれば、お前らに手出しは出来ないだろ…」 それはとんでもない茨の道。 繍は、何がなんでも、千虎もろとも自分を始末しに来るだろう。 だが所詮、人間相手だ。人間ならば何人でも退けられる自信がある。 それよりも、問題は―― 「……罪人に、居場所は無いよな…」 重い重い腕を上げ、青空に向けて手を掲げる。 この手が、壊す。 分かっている。分かっているのだ。 全ては苴でも繍でもない、この手が犯した罪。 また、自ら未来を壊すくらいなら。 それでも。 降り注ぐ光は、柔らかに罪深い身を包む。 ぱたりと下ろされた腕。もう抗う力も無い。 希望など、見てはいけなかった。 粉々に砕けた心。泣く事も出来なくて。 叫んだ。声が潰れるまで。 素知らぬ顔の青い空に、全てが吸い込まれてしまえば良い、と。 [*前へ][次へ#] [戻る] |