月の蘇る 8 皓照の言う『錠のついた巣箱』で、昼日中からごろごろと過ごしている。 別に日中の出入りは問題無いし、日没までは錠もかかっていないのだが、出歩く用事が無いので自然とこうなる。 最初の一日二日は城内を歩いてみたりもしたが、三日四日となると無意味に歩くのも飽きた。 飯時以外は誰も近寄らない。それはそうだろう、ここは座敷牢の並ぶ一角なのだ。 元々は窓くらいあったのだろうが、朔夜の為に板が打ち付けられ、陰気な事この上無い。 そこで日がな一日蝋燭の火を頼りに過ごす訳だが、それがだんだん苦にならなくなってきた。 寝て起きて、刀の素振りをし、また寝る。そのくらいの生活を数日過ごしている。 何も考えなくて良い。それは至極楽だった。 今までどれだけの事を頭に巡らせてきたか。 あの地下牢で一人、全てを奪った国への憎しみと、己への疑念と、人の命を奪う恐怖と。 言い尽くせない負の感情が、いつも頭の中にあって。 そこから抜け出す事すら怖かった。楽をしてはいけない、これは罪に対する罰なのだと。 しかし、罰は終わったのだろうか? 終わるものとは思えなかった。生きている限り背負わなければならないものがある。 だから、今も牢の中。 「不健康極まりないな」 柵の向こうの襖が開いて、意外な声が朔夜を起こした。 「王子様が来る所じゃないだろ」 「だから、違うっての」 龍晶は言いながら、錠の外れている扉を開ける。 「一日中こんな黴の生えそうな所で寝こけてるくらいなら働け。お前にうってつけの仕事がある」 「仕事?戦か?」 朔夜にとっては自然な問いだったが、途端に哀れみの眼で見られた。 「…何だよ?変な事言ったか?」 「やっぱりお前、戦の道具でしかないんだな」 「え?」 顰めた顔に冷めた視線を受けて、やっと自分の言った事が分かった。 理解して尚更、ぐうの音も出ない。 自嘲しながらでもどこかで拒んできたものが、己に当たり前になってしまっている。 『人間』を棄てたくはないのに。 「その方が連中も扱いやすいし、お前も生きやすいんだろ」 「いや、俺は…」 決め付けに反論したかったのに、何も言わせては貰えなかった。 「いいから出てこい。行き先は戦場じゃないけどな」 何も言えないままに言葉に従う。 言える事など無かった。事実だから。 「お前の言う連中ってさ…」 歩きながら問いかけようとすると、上の空。 耳に入っていない。やたらと周囲を気にしている。 「そんなに牢が珍しいのか?」 確かに普通、入る用事は無いだろうとは思うが。 朔夜の入る牢を出ると、同じような座敷牢がいくつか並んでいる。 多くは空で、扉は開け放され、窓も鉄格子が嵌められているだけで日の光が入る。 ただ、一番奥の牢だけが、ぴったりと閉じられていた。鉄格子の向こうの襖も閉められ、中の様子も窺えない。 見る度に同じなので、朔夜は特に気にした事は無かったが、龍晶はじっとそこに視線を注いでいた。 「誰か入ってるのかな」 訊く間でもない事だが、今まで考えてみた事も無かったので、何の気無しに朔夜は口にした。 そんな声などまるで耳に入っていなかいかの様に、龍晶はその牢へ吸い込まれてゆく。 鉄格子に手をかけ、その中を凝視して。 只ならぬ様子に朔夜も息を飲んで見守った。 襖戸に隙間は無い。中の様子は見えない。 「殿下、なりませぬ」 朔夜の後ろから、牢屋番らしき男が慌てた風に出てきた。 「ただ見ていただけだ。何が悪い」 細い、あるか無いかの隙間から眼を離し、男を睨んで龍晶は問う。 「凶悪な罪人を覗き見されるなど、ご趣味が悪過ぎますぞ」 「その凶悪な罪とは何だ?ここには何者が囚われている」 「それはお答致し兼ねます」 薄ら笑いを浮かべる男を睨んだまま、龍晶は鉄格子から離れた。 朔夜の横まで来ると、漸く視線を逸らし、行こう、と低く告げた。 暗い階段を降りると、開けた庭に反射する眩しい光が二人を迎える。 朔夜は眼に慣れぬ光に手を翳しながら、頭一つ分は背の高い龍晶を見上げた。 「あの牢に何かあるのか?」 訊かずには居られなかった。 「いや…気にするな」 「は?無茶言うな。滅茶苦茶気になるんですけど」 龍晶は一つ溜息を吐いて。 「座敷牢って、高貴な人間が入れられるだろ?普通の牢に入れられないような」 「ああ。それが?」 「…身内が居るんじゃないかと思っただけ」 さっさと会話を終わらせようと早口に言う言葉に、朔夜は十分引っ掛かった。 「だけって何だよ?家族が入れられてるかも知れないんだろ?」 「そうかもな」 感情を圧し殺し、淡々と相槌を打って、足早に進む。 「良いのかよ!?このままで!」 「お前には関係無い」 追いかけて並ぼうとする朔夜を煩わしそうに横目に見て、龍晶は言った。 「化物がしゃしゃり出るな。お前なんかに触れさせる問題じゃないんだ」 朔夜は唇を尖らせて黙った。 確かに関係無い。他人が口を出す間でもなく、龍晶自信が一番もどかしく感じているだろう。 それでも、何か自分に助けになれる事があるのではないかと――それは、思い上がりだろうか? 宮殿から、広大な庭に出た。 その間、朔夜にとっては気まずい、龍晶には苛立ちを沈める沈黙と共に歩いていた。 辿り着いたのは、敷地の端にある、厩の並ぶ一角。 馬の嘶く声を聞いて、朔夜はすぐに思い当たった。 「お前の家か?」 「煩い」 それが肯定の返答代わりだという事は既に慣れた。 「お前、人でなくても治せるだろ?」 「え?」 全く想定してなかった質問に素頓狂な声が出る。 構わず龍晶は厩の一棟に入っていった。 馬房にはそれぞれ見上げるような屈強な馬が入っている。 軍用馬なのだろうと朔夜は思った。 「あまり近付くなよ。蹴られるぞ」 「あ、うん」 知らず知らず見入っていた。梁巴でも厩はあったが、小柄な農耕馬と温厚な乗馬しか居なかった。種類が違うのだろう。 「この馬だ」 龍晶が一つの馬房の前で立ち止まった。 中を覗くと、黒鹿毛の乗馬だろう、細くしなやかな足は三本しか地に着いておらず、右前足は見るからに腫れて、痛そうに宙に浮かせている。 「恐らく骨が折れている…治せないか?」 問われても、すぐに応とは言えない。 「動物相手なんてやった事が無い」 「やってみれば良いだろ」 有無を言わさぬ勢いだ。 やった事が無いならやってみれば良い、尤もではあるのでそれ以上の抵抗は諦めた。 でも。 龍晶には絶対に理解されない所で、心が疼く。 華耶の母親には出来なかったのに。 治したかった。今まで向き合ってきた誰よりも。 それを、人間として生きて欲しいと断られて。 その願いを、こんな形で裏切るのかと思うと、気乗りはしない。 「早くしろよ。怖いのか?」 言われて、曖昧に返事をすると、怒られた。 「こいつは今、三本足で必死に踏ん張って立ってるんだ。お前を蹴りたくてもそんな力は無いんだよ!このままだと衰弱して死ぬんだ。お前はたかが馬だと見殺しにするんだろうがな」 非難しながら、馬の首筋を労るように撫でる。 「…お前の馬なのか?」 問うと、龍晶は頷いた。 馬を見上げる目は、今まで見た事が無い、家族に対するそれのような。 また、馬も彼の事を信頼しているのだろう。鼻先を擦り寄せて撫でられている。 朔夜は馬房に掛けられている柵を潜った。 「いきなり強く掴むなよ。暴れるから」 忠告に頷いて、腫れている箇所を優しく両手で包む。 やってみれば、人間と何ら変わらなかった。 ただ、時間はかかる様だ。治る感覚がなかなか伝わって来ない。 手元に集中しながら、頭上で龍晶がどんな顔をして見つめているのだろうと思った。 初めてこの人の、心から心配する顔を見た気がする。 家族を失った彼が、この馬に、ただ乗る為のもの以上の情を抱いている――それはよく解った。 馬の荒かった息が穏やかになり、浮いていた足を自ら地に着けたのを見て、朔夜は治癒の成功を知った。 手を離す。どのくらい時間がたっていたのだろう。ただ只管に疲労し、眠かった。 「…治ったのか?」 龍晶の問いに頷くのがやっと。 そんな朔夜の様子など目に入らぬようで、龍晶はこれまで見た事の無い笑顔で愛馬の鼻面を撫でた。 「良かったな玄龍(ゲンリュウ)!痛くないか?大丈夫そうだな!」 こいつでもこんな顔をするんだな、と意識の片隅で思ったところで、眠気に負けた。 目覚めると、いつもの座敷牢ではない別の場所に居る、という事だけは分かったが、それが何処なのか分からず暫しぼんやりとした。 明かりは無いが、壁の板の隙間から薄紫の光が射し込んでいる。明け方だろう。 壁越しに、馬の鳴き声を聞いて、やっと頭が目覚めた。 そう言えば寝ているのは藁の上だ。案外心地好くて何とも思わなかった。 起き上がり、辺りを見回す。と言っても一人寝転ぶのが精一杯の狭い空間だ。恐らく寝藁を収納しておく小部屋なのだろう。 その隅に、竹皮に包まれた握り飯が置いてあった。 確かに治癒に体力を使ったせいか空腹だった。龍晶には考えられない心遣いだ。だがひょっとしたら、本当は優しい奴なのかも知れない。 寝藁の上を這って、その包みを取る。竹皮を剥ぐと、白米の握り飯が二つ現れた。 頬張りながら、考えずとも良い事を考える。 あいつは寂しい奴なんだろう、と。 まともに向き合って貰える人間が居ないから、馬を家族同然に想ったり、こんな化物に付き合ったり。 そう言えば、牢の中に居るのは誰なのだろう。 まさか一族が皆、獄に繋がれているのではあるまい。 一族――否、そもそも事の発端となった母親はどうなったのだろう。 朱花と皓照は名を呼んでいたが。だが、どうして皓照がそれを知っているのだろう。面識も無い筈の女性の、それもまだ産まれて間もない子供を次期国王に推すなど、不自然極まりない。 ――何かあるのか。 あの男の腹の中に、この国に関する、何かが。 そこに放り投げられた自分も、その見えない計画の駒なのか。 これから何が起きると言うのだろう。 「…いや、考え過ぎだな」 独り言を呟いて思考を止めた。 とにかく目的は、繍を滅ぼす事。それ以上は無い。 外から鎖の擦れる音がして、朔夜は扉を見た。 恐らくこの扉を開けないように鎖を付けていたのだろう。程なくして扉が開き、龍晶が顔を覗かせた。 「起きたか。食ってるな」 朔夜は米を飲み込みながら頷き、握り飯を少し持ち上げて謝意を表した。 「お前にこんな気遣いを受けるとは思わなかったよ」 だが龍晶は素っ気なく言った。 「俺じゃない。弟がどうしてもと言うから、仕方なく差し入れてやった」 「弟?」 龍晶は後ろを振り向き、誰かを招く仕草をした。 彼の後ろから、気恥ずかしそうに、線の細い少年が顔を出す。 確かに自分達より少し年は下に見えた。が、弟と言うにはあまり似ていない。 「祥朗(ショウロウ)だ。こいつのお陰でお前は今、飯が食えるんだぞ」 押し付け感が凄まじいが、当人に罪は無いので、朔夜は素直に礼を言った。 「ありがとう」 祥朗はにこりと笑うと、馬房のある方を指差して腕をさすり、頭を下げた。 朔夜がぽかんとしていると、龍晶が言った。 「玄龍…昨日の馬を治した礼を言っている。こいつにとっても大事な馬だから」 「あ、…ああ。どういたしまして」 それでも怪訝な顔をしていると、呆れたように龍晶がまた言った。 「こいつは言葉が喋れない。戦のせいで声が出なくなった」 そのくらい察しろと言わんばかりの説明の仕方だ。 朔夜には返す言葉が無い。 「馬達の世話をしていてくれ」 龍晶が弟に言うと、彼は頷いて走り去っていった。 「…血は繋がってない。母が拾い育てた、孤児だ」 聞かれるであろう事を、先に言葉少なに説明した。 「そうなのか…」 彼らの母親である朱花という人がどんな人だったのか、朔夜にも分かるような気がした。 そして、兄弟が味わってきた、これまでの苦労も。 「ぼさっとしてないでお前も働け。握り飯の礼にあいつを手伝うくらいは当然するよな?」 「へ?あ、…するけど…」 お前に言われたくない。 「早く行け。あいつは仕事が早いから間に合わなくなるぞ」 「そういうお前はどうなんだよ!?」 「他にやる事がある」 はぁ!?と本心からの声を上げるが、さらっと無視された。 龍晶は立ち去ろうと踵を返して、ふと立ち止まる。 「…玄龍を生かしてくれた事には礼を言う」 振り向きもせず言って。 意外な謝辞に驚いていると、今度は顔を向けて言い放った。 「まだお前の仕事は残っている。俺が戻るまで待っておけ」 朔夜の声にならぬ声など気にも留めず、龍晶は足早に厩を出て行った。 [*前へ][次へ#] [戻る] |