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月の蘇る
  7
 物の動く気配で目が覚めた。
 眠る前の記憶が全て掘り起こされる前に、切迫した危機感で半身を起こす。
 しかし、拍子抜けする程の静寂。
 昨夜知り合ったばかりの二人はまだ寝ている。その隣に、空の寝床。
 霧にけぶる木々の向こうに、虚ろな後姿が見えた。
 曾以は毛布を抜け出た。
 早朝の冷たい空気が体を包む。
 追う背中は、二度と見たくない場所に行き着いて。
 一つの屍の前に、膝を折った。
 何をするつもりなのか。窺いながら、刀の束に手を伸ばす。
 十分な距離を保ったまま、白刃を抜いて、息を殺してその一点を凝視する。
 こちらに気付いた素振りは無い。だが。
「…ここに穴掘って葬っても良いと思う?」
 誰に、何を問うているのか、理解しあぐねた。
 それがどうやら、他の誰でもない、自分に向けられた問いだと解って、曾以は詰めていた息を吐いた。
「何をするつもりだ?悪魔め」
「だからさ、このままにはしておけないから、ここに埋めて墓を作れないかなと思って。それともお兄さんがみんな苴に連れて帰るのか?」
「そのままで良いだろう。どうせ貴様の所業だからな」
「お兄さんにとってはほんの一時の仲間だからどうでも良いんだろうけど。でも千虎の部隊ならそんな事言わないだろ?」
 構える切先が、揺れた。
「…解っていたのか」
「うん。あれだけ一緒に居たらね」
 曾以が軍に居た時、所属していたのは、千虎の部隊だった。
 禾山にも共に行軍した。朔夜の顔も見ている。直接話した事は無かったが。
 それが、一人だけ生き残った。そして居たたまれなくて、軍を去った。
「俺を斬りたいのか?そんなの愚問か。斬りたいに決まってるよな。その為に追いかけてきたんだろう?」
 刀を握り直す。空気は冷たいのに、手の内は汗ばんでいた。
「解っているなら大人しく斬られろ。貴様のようなものがこの世にあってはならない」
「…うん。そうだね。俺もそう思う。でも待ってくれ。まだ俺、斬られる訳にはいかない」
「何を…勝手な事を」
「もう一度、どうしても会わなきゃいけない人が居るんだ」
 朝霧に差し込む陽光のように、言い切った。
「待っている。俺を。俺なんかを、唯一の希望にして」
「悪魔が希望とは…哀れだな」
「そうしなきゃならない程、繍って国は腐ってんだ」
 初めて朔夜は振り返って曾以を真っ直ぐに見上げた。
「それが果たせた後なら、この首は好きにしなよ。逃げようとは思ってない。寧ろそれで楽になるんだ。俺も、この世の大抵の人も」
 曾以は――溜息を吐いて、刀を降ろした。
「哀れなのはお前だ。どうしょうもない、救い難い愚か者だ」
 降ろされた切先を見詰めて、譫言のように朔夜は返した。
「そんな事…解ってる」
「いいや。解ってない」
 強く言って、曾以は空を見上げた。
 霧が徐々に晴れ、空の青が透けて見えた。
「俺がどうして生き延びたか知っているか?」
 首をひねり、横に振る。
 自分が手にかけていないから生き延びたのだが、あの時取り逃した兵は居なかった筈だ。千虎隊はこの手が滅ぼした。
「俺は将軍に手紙を託された。ご家族への手紙だ。家が近所だった誼で軍に取り立てて貰ったからな。手紙を持って行くのは俺が一番の適役だったんだ」
「だから…あの夜、あんたは禾山に居なかったのか。隊の皆が俺と戦った時も?」
「ああ。一連の出来事を、俺は将軍のご家族と共に聞いた。そして軍を去った。どんな手を使ってでも、皆の仇を討つ為に」
「そうか…。そりゃ憎いよな。当たり前だ。俺だって…」
 言葉が途切れた。澱み無く言える事ではなかった。
 大きく息を吸い直して、一気に言葉にして吐き出した。
「俺だって、千虎を殺した俺が憎くてならない。仇を取れるなら取りたい。…あんたが羨ましいよ。俺を斬れる、あんたが」
 曾以はじっと、その哀れな塊を見下ろしていた。
 人間ではない。生き物ですら無い。
 己の身を、人智の及ばぬ何者かに乗っ取られた、人の形をした塊だった。
「お前は、将軍を好いていたんだな」
「信じられないだろうけど」
 自嘲して、朔夜は言った。
「千虎ほど、俺なんかに親身になってくれた人は居なかった。大きすぎる恩を、俺は…仇で返す事しか出来なかった。自分が悪魔である事を呪うよ。あんたに殺されるのも当然だ」
 見詰めていた刀の切先が動き、斬られるのかと身を固くした。
 が、刃は真っ直ぐに鞘に入っていった。
 目を丸くして、曾以を見上げる。
「ずっと不可解だった…将軍の気が、やっと少し解った」
「斬らないのか」
 曾以は頷いた。
「冥土に居られる将軍を悲しませる事は出来ないからな」
「……」
 朔夜は言葉に詰まったまま、踵を返した曾以を見送った。
 何故許されたのか、解らなかった。
 ただ、千虎の声が甦り、その耳ではっきりと聞いた。
 「生きろ」と。

 やっとの思いで簡素な墓標を立てた時には、日は高く上がっていた。
 手頃な枝を伐って土饅頭に立てただけだが、そこに人が眠っていると知らしめるには効果があるだろう。
 しばし己の仕事を眺め、重い足を夜営地に向けた。
 共に旅をしてきた二人の顔を見れる自信は無い。
 しかしこのまま逃げる訳にはいかない。
 お陰でやたらと時間のかかる仕事を、こんな時間までしていた。そんな場合ではないのは判っているのだが。墓を作って現実から逃げていたのだ。
 燈陰そして燕雷は、それぞれ武器の手入れや馬の世話をしていた。
 遠巻きにしばしその様を眺め、覚悟を決めて足を踏み出す。
 燕雷が顔を上げた。
「よぉ。お帰り」
 手入れしていた刀を鞘に戻して、いつも通りににっと笑う。
 その笑顔を見て。
 息が詰まりそうになった。
「どうした。こっち来いよ」
 足が止まる。近付けない。
「朔」
 呼ばわる燕雷を差し置いて、燈陰が近寄ってきた。
「夜の記憶があるんだな?」
 訊かれて、否も応も言えぬ程に恐怖が襲ってきた。
 覚えている。何もかも、事細かに。
「来るな…!」
 咄嗟に、己の口から出た叫びだとは思わなかった。
 他の誰かが叫んでいるのだと思った。昨夜のように。
 しかしそれは紛れもなく己の喉から出た声で。
 だからこそ、怖くなった。
 自分じゃない自分が何をするか、もう判らない。
「朔…!」
 燈陰が足を踏み出すと同時に、朔夜は風のように走り去った。
「朔夜!燈陰、何故追わない!?」
 走る事など到底無理な燕雷が、その場に突っ立ったままの燈陰を責めた。
 彼は小さく肩を竦めて、燕雷の元に踵を返した。
「おい…燈陰!」
「何を心配している?奴は死にはしない。それより俺達が殺される可能性の方が遥かに高いんだ」
 絶句して燕雷はその男を見上げた。
 今まで考えてきたよりずっと、手前勝手な男に見えた。
「軽蔑するか?だがこれは事実だ。その身が思い知った事だろう」
 確かに重傷を負わされたのは燕雷自身だ。だが、あれは事故だ。
「そんなに…己が可愛いか?殺される事が怖いか?それとも朔夜が本当に憎いのか…!?」
 怒りに震える声を、燈陰は一蹴した。
「どれも違う」
 しかしふっと笑って、言い直した。
「いや、全く違いはしないか。俺は人間だからな、一度瀬戸際まで行った事があっても、死ぬのは怖い。殺されるのは御免だし、それが息子なら尚更だ。ましてや、あいつを全て許す事なんざ」
「出来ないって言うのか」
「…全ては無理だと言っているだけだ。追わない理由はそこじゃない」
 じゃあ何だと双眸を細める燕雷から逃げるように顔を背けて燈陰は言った。
「あいつが一番恐れている事を引き起こさない為だ。解るだろ」
 燕雷はしばし黙って燈陰を見上げていた。
 己の中で受け入れられない氷の様な事実が、じわじわと無理矢理溶かされてゆくようだった。
「あいつの傍には居られない。危険だ」
 燈陰はそれだけをもう一度言って、腰を下ろして口を引き結んだ。
 燕雷の中で凍てついていた事実が、はっきりと言葉となって姿を現した。
 朔夜は例えどんなに身近な人物であろうと、容赦など出来ない。
 信頼している自分であっても、唯一の母親であっても。
 あれは事故ではなかった。必然とも言える出来事だった。
 月の傍に居る限り。
「それでも…朔夜じゃないあいつがやった事だ。朔は悪くない」
 己に言い聞かせるように燕雷は言葉に出した。
 しかしそれすらも打ち砕くように、燈陰は言った。
「そんな事は何の慰みにもならない。現にあいつには記憶があるようだ」
「記憶が…?」
「お前を刺したのは、あいつの意識の中でやったという事だ」
 燕雷は、燈陰の言う事の意味が咀嚼できぬという顔で、彼を凝視した。
 解りたくないと思った。同時にそんな己に冷ややかな目を向けてもいた。
 自分の子供でもないのに、何故こうも彼の陰の部分を否定したがるのか。
 所詮自分の態度は、信じている振りでしかないのだ。
 朔夜の事など、まだ何も知らないに等しいのだから。
「意識はあるが、己の意思ではない。体が勝手に動いて、自分で歯止めをかけることが出来ないんだろう」
 燈陰が言った。
「ま…そんなものは希望的観測に過ぎないけどな。自分で憑かれてみなければ解るもんじゃない」
 燕雷はややほっとした面持ちで焚火の跡に視線を落とした。
「お前も信じているんだな。あいつを」
「それは朔には重荷だろうがな」
 訝しんで再び見上げる。
「何故だ?」
 表面上は事も無げに、燈陰は答えた。
「一人だけの世界の方が、あいつには気が楽だろうよ」
「…そうか…?」
「誰も殺さずに済むなら、あいつは孤独を選ぶ。だから一人で行った」
 燈陰は近くの木にくくりつけていた馬の手綱を取った。
「だが行く場所は知れている」
 燕雷ははっと顔を上げた。
「行くぞ。あいつより先に華耶を見つけ出さねばならん」
「それって…」
「朔から護ってやるんだ。あいつ自身が手をかけない様に」
 燕雷は立ち上がった。やっと燈陰という男が解ったからだ。
 なんだかんだ言って、彼は紛れもない、立派な父親なのだと。
 朔夜の為に距離を置き、朔夜の為に華耶を助けにゆくのなら、燕雷も否を唱える余地など無い。
「行こう」
 二人は馬に跨がった。


 どこをどう歩いたかも、もう何も分からない。
 走り疲れて重たい足を引きずる様に歩いている。
 逃げなければ。それだけを思った。
 何から逃げているのだろう。あの二人が恐ろしい訳ではない。
 殺そうとした事の報復を受けるなら、寧ろそれを望む。
 だが分かるのだ。彼らは自分を追ってはいない。恨む事すらしていない。
 それが彼らだ。言うなればその優しさが恐ろしい。
 優しい人間の側に居る事が、恐ろしい。
 彼らはその優しさ故に追ってはいない。直感でしかないが確信している。
 もう会う事は無いだろうし、会わない方が良い。
 心が千切れそうな程痛いが、これを永遠の別れにせねばならないのだ。
 そして痛みに増して心臓を震えさせる恐怖心。
 何から逃げているのか。本当は何が怖いのか。
 逃げても逃げても逃れられない、この恐怖。
 その対象は、この身の内にあるのだ。
 己の中に確実に巣食う悪魔が、彼らを殺そうとする。
 悪魔は身体だけではなく、精神すら乗っ取る気だ。
 それが昨夜の出来事だった。
 あれは俺の意思だった。
「っ――」
 足が縺れて草むらの中に倒れこむ。
 頭上の木々の、濃い緑が眼前にぐるぐると気味悪く回っている。
 ――あれは俺の意思だった。
 血の繋がった親と、恩人を、殺そうと思った。はっきりとそう思った。
 理由は分からない。否、分からないと誤魔化せるものではない。
 邪魔だと思ったからだ。
 それ以上も以下も無い。まさに悪魔の思考だ。
 正気ではなかった?否、全く正気だった。少なくともあの時は正気のつもりだった。
 余計な事は何も考えず、冴え冴えとした頭で、邪魔者を消そうとした。
 今、その事に己で恐れおののいて、目を回しているのだ。
 己がついに本物の悪魔になる事実に、なけなしに残った小心者の己がおののいているのだ。
 己は闇に蝕される細い月だった。
 闇に覆われてしまう事を恐れる僅かな光。
 どうして。俺が。俺だけが。
 何の為に。――
 朔夜はのそりと起き上がった。
 焦点の定まらなかった眼は、ただ前方を見据えていた。

 己が失う光を持っている人がいる。
 その周りに飛び交う煩い羽虫共を叩っ斬って。
 しかし己もまた、その羽虫の一疋には違いない。
 だから、陽が昇る前に、あえなく地獄に墜ちれば良い。
 そして明るくなった世界で、あの人が笑っていてくれれば良い。
 それを俺は闇の世界から祈っているよ。
 くだらない世界は月が引き連れて幕を下ろすんだ。






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