月の蘇る
5
影は自ら真っ黒の仮面を外した。
朔夜は睨みつつ下馬して、手燭の火を影の手前の地面に投げる。
炎が枯葉を飲んで燃え上がった。
影の顔が光に照らされる。
「…なんだこいつ…」
波瑠沙が唸った。
顔の中心に走る傷痕。その中心で削がれた鼻。
全体は大きく歪み、目の部分だけが黒々と光る。
「俺がやった」
感情無く朔夜は教えた。
「お前が?」
問いに頷いて、影に言った。
「でもどうしてもその記憶だけが出てこない。やった感触はあるんだけどな」
「教えてやろうか」
歪んだ口を開いて影は言った。
「お前がその記憶に耐えられるのなら」
朔夜は鼻で笑った。
「心配するな。もうお前の知ってる餓鬼じゃねえよ」
傷の走る口が吊り上がり、更に歪む。
「兵達に連れて来られたお前はまさに虚無だった。自我も無ければ生き続ける意思も無かった」
母をこの手にかけた、あの後の事。
他の捕虜と同じく繍軍の陣に運ばれた。
それは荷物と同じ、人の形をした物だった。
自ら動く気配は無い。薄く開く目に光は無く、瞬きすらしない。
息をしているかどうかも怪しい口が微かに開いている。
生捕りの命令から殺される事は無かった。手足に縄が巻かれ、国に運ぶべく荷台に乗せられる。
他の捕虜――男達はその近くで片っ端から殺されていた。抵抗する女も同様に。
子供達の怯えた啜り泣き。声をあげれば自分も殺されると分かっていた。
そんな喧騒の横で、動かぬ身を囲んで繍兵達が話をする。
「これが例の銀髪の餓鬼か」
「嘘だろう?こんな餓鬼が苴兵を壊滅させるなんて」
「どうも神か悪魔かという力を使うらしい」
「それでこんな銀髪なのか。人間じゃないんだな」
「さっさと離れよう」
「早く女を物色しておかないと取られるぞ」
「そうだな、行こう」
その、先頭に立った男の首が。
いきなり、落ちた。
どさりと身が倒れて、周囲がようやく異変に気付く。
「なっ…!?」
足を止めて。
ただならぬ、後ろからの気配。
恐る恐る、振り向く。
振り向いたそばから、身から血が吹き出た。
「あ、あくま、悪魔だーっ!」
気付いて絶叫した声は、そのまま断末魔になった。
その場に居た繍兵がこぞって動く。
「捕らえろ!捕らえて連れ帰るんだ!」
縛っていた筈の縄は全て解けていた。
否、切られていたという方が正確だった。短く、粉々に。
悪魔は荷台から飛び降り、次々と兵を惨殺し始めた。誰の目にも止まらぬ速さで。
「た、たすけ…!」
武装した兵達が逃げ出す。
「止まれ!戦うんだ!桓梠様がここにおられるんだぞ!」
兵達を押し戻す声。
逃げようとした者は、そこに待ち伏せていた味方兵によって斬られた。
逃げ場の無くなった兵達の足が止まる。
その背後から、来る。
「あれが例の子供か、影」
桓梠がゆったりと口を開いた。
その横に控える男が頷く。先刻叫び兵を押し留めた若者だった。
「そのようです。ここは危険です、桓梠様」
「大丈夫だ。どのようなものか、よく見たい」
若者は眉間に皺を寄せて横の主(あるじ)を見る。
命の危険を分かっているのか。
兵達の中から上がる血飛沫は徐々に近付いてくる。
「桓梠様、お退がり下さい!」
主の目は脅威に釘付けになっている。
神なのか、悪魔なのか、人智を超えた、銀色の力に。
「素晴らしい…」
魅入られた声が、言葉を紡ぐ。
「あれを、我が物に…」
「桓梠様!」
目の前の兵が倒れた。
若者は刀を抜いた。
「お逃げ下さい!」
腕に覚えはあると言え、刀が何処まで役に立つのか。
相手の力は見えない。得体の知れぬ何かが身を裂き命を奪ってゆくのだ。
倒れた兵の向こうから、その姿をはっきりと見た。
長い銀髪が小さな体を包んで輝く。
その中の幼いながら端正な顔。
目は、藍と翡翠の混じり合う、宝玉のような。
神の子。
その単語が浮かび、慌てて打ち消した。
そうであってたまるか。人を幾人も惨殺した、その行為は正に悪魔。
無表情の中の赤い唇が、ふっと笑みを浮かべた。
刀を構える暇も無かった。
顔面に、熱い痛みが走った。
悲鳴すら上げられなかった。口まで裂かれていた。
殺される。
血に染まった目で相手を睨む。
こんな餓鬼に。
悪魔の手が挙がった。
死ぬ。
だが。
子供の体は倒れた。
自身が、血飛沫を出しながら。
「なんだ…!?」
桓梠の当惑した声。
その時、目に入った。
眩ゆい程の金髪が。
「その男は俺の顔に手を当てた。後は気を失ったが」
傷を治すと言うより、最低限塞いだという事か。
確かにあの男が治癒まで可能だとは聞いていない。可能ではあるが、そもそも完治の必要性を感じなかったのかも知れない。
そういう男だ。
「…分かった。俺は殺されたからその時の記憶が抜けてるんだ」
淡々と朔夜は言った。
溺れた時もそうだが、死の前後の記憶は消える。幼い頃のものは特に。精神が耐えられないせいだろう。
「お前達は皓照と組んでいたのか」
正面から朔夜は訊いた。
影は歪む顔を横に振った。
「その時初めて見た。桓梠様はお前の蘇生の方法とその力の使い方を聞いたが、その男自身の事は教えられなかったと仰っている」
「だろうな。もう一度皓照が俺を殺した時、お前達は震え上がっていた」
「震えていたのはお前だろう?月以上に使える駒があると知ってあの方は欲しておられたのだ」
「駒にすらならない野郎なのに。それどころか自分を殺す側の男なのにな。そんな事も分からない間抜けか、桓梠は」
嘲って、刀を抜いた。
「お前をそんなにした俺が憎いんだろ」
「無論。何度殺しても足りない程に」
「一度くらい殺してみたら?」
挑発し、相手を睨んだまま背後に言った。
「手は出すなよ、波瑠沙」
呆れて返す。
「差しが好きだよな、男って。見ててやるよ」
少し馬を返して場を広げる。
それを機に。
駆ける――否、跳んで足を付かぬまま二人の刃は交わった。
互いに跳ね返されて着地する。そこから体勢を直して再び飛び掛かるのは朔夜の方が早かった。
影は上に跳んだ。
月明かりの空の中に黒い人影が浮かぶ。
虚空を切った刃を翻して、朔夜は落下地点に足を向けた。
にやりと、歪んだ口が笑った。
それをはっきりと見ていたが為に、地面になど意識が向かなかった。
何かを踏んだ。その刹那。
衝撃。土埃が舞う。
体が意図しない方向に吹っ飛んだ。
「朔!」
波瑠沙の声が遠く聞こえる。耳鳴りが酷い。
地面に叩きつけられたが、その衝撃すら遠かった。自分がどういう向きに居るのかも分からない。
足の感覚が無い。折れているのか、それとも。
朦朧とした視界の中に黒い影が近寄った。
「貴様…!」
波瑠沙が走り寄る気配がしたが、影は冷静に言った。
「お前が死んだら誰がこいつを甦らせるんだ?やめておけ」
彼女は止まった。それで良いと朔夜は思った。
お前まで死なせられない。俺の血を飲んだからって、それが本当に不死の方法かどうかは定かではない。
「ああ、桓梠様はお前にも興味を持っておられる。華耶と共にあの方に侍るというのも悪くはなかろう?」
「何…!?」
影の言葉は酷い耳鳴りかと思った。
華耶と?
どういう事だ?
黒い影が赤々とした口を見せて笑った。
「生きているか、月。教えてやろう。お前が幼少の頃より頼みにしていたあの女」
己の途切れそうな呼吸音すら煩い。
華耶が、何故、今。
聞かせろ。どうして彼女の事が出てくる。
灌に居るのでは。
「今、自ら進んで桓梠様に身を捧げているぞ」
目を見開く。
嘘だ、と呟いて。
「出鱈目言うな」
波瑠沙の声が重なった。
「真実だ。その声を私はもう幾日も聞いている。快楽に溺れ切っているぞ、あの女」
昔、命令書に包まれた糧を投げるように。
手紙を倒れた身の上に投げ渡した。
「証拠だ」
腕はどうにか動いた。
体の上に乗った紙を広げる。
細かな字だった。霞む目でどうにか捉えて。
朔夜、と書かれていた。
灌との手紙のやり取りで見慣れた字だった。
『今、私はあの憎い男と共に居ます。耐えられません。一刻も早く、助けて』
華耶、と。
自身の名で結ばれた短い手紙。
頭が煙に霞んだ。
嘘か否かも分からない。ただ、焦げ付いてゆく頭の熱さを感じた。
「さて、一度くらい殺してみろと言ったな」
影の刃が頭上で翻り、月光を反射した。
それを見ている事しか出来ない。
だが、己の身は今や一つでは無かった。
「させるかよ!」
波瑠沙の大刀が凄まじい勢いで振られた。
再び上に跳んだ身から血が散った。
斬った、が、浅い。
彼女の舌打ち。落ちて来る筈の身が落ちて来ない。
「女、くれぐれもよく考えろ」
樹上に。
「どちらに身を捧げるのが賢いか。桓梠様は寛大だ。必ず受け入れて貰えるぞ」
「誰が…!」
笑い声の中。
無数の物音。
囲まれていた。
一斉に包囲網は狭まった。その、どの顔にも黒い面が付けられていた。
苦無が飛び交う。波瑠沙は朔夜の前に立ちはだかって刀で振り落とす。だが数が多い。
幾つか身に受け、その度に歯を食い縛って耐えた。
確かに致命傷にはならない。急所に当てない限りは。
だが痛みと出血が確実に身を蝕む。
飛び道具はもう良いとばかりに無数の影は刀を持って迫った。
最初の一人、二人は撃退出来た。が、同時に恐ろしい数で斬りかかって来る。
「朔…!」
続きは言葉にはならなかったが。
――済まん。ここで終わりだ。
斬りかかってきた影が、急にその場に落下した。
同時に、何人も。
「…え…」
覚悟を決めていた目を見開く。
残っていた者も、次々と血を吹いて倒れた。
静寂が訪れるのは早かった。
呆然としかけた頭を振り、背後に目をやる。
「お前!」
両足は殆ど千切れていた。
体中から血が流れ、月明かりに鈍く光る。
そういう状態で、顔は。
ふっと笑った。
そのまま瞼は閉じられた。
「朔!」
血溜まりの中に膝をつき、その顔に手を当てる。温かい。
まだ血は通っている。生きている。
夜空を睨んだ。
月。
「治るよな…?治せよ…!」
月に祈るのではない。これは命令だ。
聞かねば、許さない。
くらりと、視界が揺れた。
横に倒れる。
飛び道具による傷が痛み、血が出過ぎた。
意識が遠くなる。
まあ、私が死んでも、こいつが生きるなら。
それで良いよな、とぼんやり考えた。
柔らかな場所で目覚めた。
天幕ではない。ましてや地獄でもないだろう。
この場所。だけど見覚えは無い。
「総督!」
上官の目が開いている事に気付いて賛比が駆け寄った。
宗温は一度目を瞑り、いくらか慣れさせてもう一度目を開けた。
青年の顔がはっきりと映る。いくらか涙目の。
「ここは?」
「穣楊の砦です。総督、五日も寝てましたよ!」
苦笑いする。生きて戻っただけでも良しとせねばならない傷ではあったが。
「水と粥をお持ちしますね!待ってて下さいよ!」
張り切って賛比は走って行った。
息を吐く。溜息ではない。身体の中に滞った物を吐き出すように。
夢を見ていた。
小奈が、幼い前王と共に遊んでいた。
あどけない、無邪気な笑い声まで聞こえていた。
小奈、次は一緒にお勉強しよう。そう誘う声も。
一度、彼女が休暇で帰った際に、是非とも仕事中の様子を見てみたいと冗談に言った事がある。それを見ていた。
ただ、楽しいだけの、無垢な時間。
あの頃に戻れたら。
全てが始まる、その前に。
あなたはそれを、望みますか?
亡き主に問いかける。
だが運命は変わらないのだろう。何度繰り返しても。
それでも何かを戻さねばならなかった。そうでなければ。
「お待たせしました!」
そう待ったと思えぬが、賛比が器を二つ持って戻ってきた。
上体を起こす。体は動いた。
水を受け取り、口にする。
粥の椀も受け取り、匙で掬って。
「…これを口にする権利は私にはもう無い」
「はい?」
「民から糧を与えられる人間では、もう無いのだよ」
賛比は硬直していた。何処かで恐れていた言葉だった。
「今は有難く頂くが」
しずしずと平らげて。
「繍はどうなった?」
直立不動のまま賛比は答えた。
「俺も詳しい事は分かりません。ただ、あの金髪の男…あいつが苴共々指揮を握るとは聞きました」
「彼は皓照様という。名を覚えろ。元々は私もあの方に仕えて…いや、あの方の駒の一つだった」
「駒…!?」
「ただの人間は誰しもあの方の駒に過ぎぬよ。龍晶様とて例外では無かった」
賛比は目を見開いて首を横に振った。
「何を…仰っているのか…」
「この世から不要になれば消されるという事だ」
若者を見やって、悲しく笑う。
「私とてやっとそれが解った。龍晶様はその事をとっくに察して私に警告して下さっていたが。私の理解が遅過ぎた」
いつか俺の言葉を思い出して欲しい――彼はそう言った。
兵を挙げる時、それが誰の意思なのか疑って見てくれ、と。
その上で戦い方を考えてくれ。兵を、人を、ただの駒とさせない為に。
――遅過ぎた。
だが、気付いたとしても抗えなかった。
「龍晶様はたった一人で世界を操るその大きな力に抗っていたんだ。私が早くその事に気付いていれば…。少なくともあのような孤独を強いる事は無かった。私もまた彼の死を招いてしまった一人なのだろう」
賛比は愕然としながら、その一言一言を理解していく。
あまりに理解を超越した話ではあった。たった一人が世界の全てを握るなど。人を全て駒とするなど。
しかし、頷けてしまった。これまで目にした全てを考えていけば。
あの言葉を聞いていたから。
「俺はあの男が憎いです、総督。あなたがなんと言おうと陛下を殺したのはあの男だ。それに朔兄まで…。止める術は無いのですか…!?」
緩く、宗温は首を横に振った。
「駒は、その使い手に抗えぬよ」
賛比の唇が震え、頬に悔し涙が落ちた。
分かっている。燕雷にも言われた。どうにもならない実力差がそこには存在する。
「だが、それに抗えるとしたら」
仄かに笑みを浮かべた口で宗温は続けた。
「ただの人間ではない彼ならば、どうだろう?」
はっと顔を上げる。涙が降り落ちた。
「朔兄…!」
頷き、きっぱりと宗温は言った。
「私は職を辞す。お前は好きにすると良い」
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