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月の蘇る
  10
 また、血の臭いがした。
 今度は街に近い道だというのに。
 波瑠沙が顔を顰める。朔夜の目は沈む。
 ここまでいくつ子供の変死体を見てきたか。
 その度に己を責める朔夜を励ましつつここまで来た。
 またか、と思いながら。
 道の端にそれはあった。
 岩陰に隠れるように。しかし、長い黒髪が隠れ切れなかった。
 その無念を、誰かに伝えるように。
「朔」
 馬を降りる朔夜を緩く止める。
 よせば良いのに、わざわざ見に行く。
 見た所で何が出来る訳でもないのに。埋葬している暇も無い。
 ただ、記憶に留めるより無いのに。
 しかし彼は見ずには居れないようで。
 岩陰に回って、足を止めた。
 その横顔から、血の気が引いた。
 波瑠沙も横に並び、それを見る。
 女だった。
 まだ大人になり切らぬ歳だろう。あどけない顔は可憐な面影を残したまま蒼白に染まって。
 矢張り、身は裂かれていた。
 裸に剥かれ、陵辱された上で。
「なんてことしやがる…」
 波瑠沙は呻いた。その横で。
 身が崩れた。地面に手をつき、吐き出せるものをその場に吐いて。
 しかし呼吸はままならない。過呼吸だと気付いて、波瑠沙はその身を抱き起こして目を背けさせ、口を手で塞いだ。
「落ち着け」
 低い声で言い聞かせる。
 見開いた目は別のものを見ている。過去の残像を。
「朔、あれはお前には関係無い。大丈夫だから。落ち着け」
 荒いが呼吸は戻ってきた。代わりに体が震えだす。
「華耶…」
 苦しい呼吸の中で呼ぶ。
 母親ではなく、華耶を重ねて見ていたのか。
 波瑠沙は少し意外に思いつつ、その両方かも知れないと思い直した。
 何にせよ目の毒だ。
「行こう、朔。ちょっと離れて休もう。立てるか?」
 支え起こそうと体勢を探っていると。
 朔夜ははっとした顔をした、かと思うと庇うように腕を広げた。
 その腕と、背中に、短い矢がそれぞれ突き立った。
「なに!?」
 すぐさまその体を支え直して岩陰に隠れる。屍と場所を分け合うように。
 改めてその矢を見る。吹き矢だ。
 戻った呼吸が再び浅くなる。手足が細かく痙攣していた。
「毒矢か…!?」
 思うようにならぬ動きで頷くと、ぐったりと身を預けてきた。
 ちらりと背後の気配を伺う。四の五の言っていられる事態ではない。敵が来たらその時だ。
 二本の矢を抜き、傷口に口を付ける。
 吸って、血ごと吐き出す。しかしもう遅い。これでは間に合わない。
 そうしている間に気配が近付く。
「ちょっと辛抱してろ」
 耳元に告げて、岩に背中を預けさせて。
 刀を抜き、飛び出した。
 手近に居た一人を斬り、飛んできた毒矢を避けながら次の一人を斬りに走る。
 斬り伏せた所で再び毒矢が飛んできたが、翻した衣に当たって落ちた。
 その出所に走る。慌てて立ち上がる影がある。
 一閃して斬り倒し、まだ息のある口に問うた。
「何の毒だ!?」
 相手はにやりと笑って、すぐ事切れた。
 背後に冷たい気配を感じて刀を振る。
 高い金属音。相手の刀は飛んでいた。が。
 敵の口は笑っている。
 その向こうから、己を狙う無数の矢尻が。
 舌打ちする。
 尚悪いのは、朔夜は敵の腕の中にあった。
 その力が無いのか、意識が無いのか、ぐったりとして抵抗する気配が無い。
「そいつをどうする気だ!?」
 噛み付かんばかりに叫んで問う。
「桓梠様への贄だ」
 その怖気の走るような答えはともかく。
「国軍か…?」
「否、あの方の私兵だよ」
 道理で手際が良い筈だと頭の片隅で褒めてやりながら。
 波瑠沙は動いた。同時に矢が飛び交った。
 女の身に無数に突き立つと思われた矢は、しかし空を虚しく飛んで行った。
 しかし一本だけ腕に突き立った――身を守る為にわざと腕で受けた矢を物ともせず、彼女は動きを止めなかった。その予期せぬ動きによって殆どの矢を躱したと言って良い。
 先刻刀を弾き飛ばした男の首を掴んでそれを盾に、敵の中へ突っ込む。
 その力量に敵全員、特に掴まれた本人が驚いた。驚いている間に弓兵の中に投げ込まれた。
 彼女は刀を振るいながら走る。朔夜を抱えて去ろうとしている男の元へ。
 再び弓弦が引かれる音。
 そんな事はもう構っていられなかった。もう少しで朔夜に手が届く。
 男達は察して進路を変えた。
 その瞬間、弓は引かれた。
「っ!」
 今度こそ万事休すと思われた。
 波瑠沙は身を反転させて矢に構えた。が、数が多過ぎる。
 急所だけは守ろうと刀を立てた。
 だが。
 矢は、急速に力を失ってそこに落ちた。
 見えない壁に阻まれたように。
 そして同時に、逃げていた一行の断末魔が響いた。
 事態を全て飲み込めぬままその方へ目をやる。
 男の首が高々と飛んだ。
「朔…朔夜!」
 一声高く呼んで、駆け付ける。
 首を失った男の腕から投げ出され、地面に叩き付けられたまま動かない。
 目は薄っすらと開いていた。が、相変わらず呼吸は苦しいまま。
 抱えようにも、腕に突き立った矢が邪魔をした。
 舌打ちして、まずは残った敵を睨む。
 その視線に敵は怯んだ。その前の一連の出来事に恐れをなしていたせいだろう。
 波瑠沙は立ち上がって片手で大刀を振って見せた。
「死ぬか?」
 及び腰の彼らは一歩後退り、我先にと逃げ出した。
 それを全て見送らず、溜息一つ溢して。
 一思いに矢を抜いた。
 血が噴き出る。こちらまで毒矢でないのは幸いだった。
 布を裂き、歯を使って止血して。
 再び朔夜に向き直る。
「大丈夫か?」
 普通は大丈夫と言える状況ではないが。
 恐らく致死性の毒ではないと思われる。殺す気なら向こうはとっくにそういう素振りを見せている筈だ。
 何か言おうとした口が、しかし言葉にならず諦めて閉じられた。
 唇も舌も痺れているのだろう。波瑠沙は今度こそその身を抱き上げた。
 布を巻いた腕からまた血が滲む。だが構わなかった。
「月が出るまでの辛抱だ。とりあえず水辺を探そう」
 毒を薄める為に大量の水を飲ませるのだ。出来る事と言えばそのくらい。
 片手に朔夜を、もう片手で二頭分の馬の綱を引きながら、山の中を歩く。
 せせらぎの音に足を止めた。辿って行くと、小さな滝と滝壺による池があった。
 水は澄んでいる。小魚が池の中で遊ぶ。
 竹筒に水を汲み、寝かせた体に飲ませる。
 先刻より少し容態は落ち着いてきたようだ。水を飲む事は出来た。
 まだ日は高いが、今日はこのまま野宿となるだろう。
「朔、大丈夫だから。寝とけ」
 頬を撫でながら言うと、瞼が閉じられた。
 ふうと息を吐く。波瑠沙としてもこれで人心地つく思いだ。
 思い立って、近くの細竹を小刀で切った。
 朔夜の長い髪の毛を数本拝借して先に結び付ける。抜く時痛かったのか、寝顔がちょっと顰められた。
 竹を削って針状にし、それに髪の毛の先端を括り付けて。
 泥の中を掘って蚯蚓を見つける。竹の針に刺して、完成。
 たぽんと池の中に針を落とした。
 時間はある。身動きは出来ないから、この食糧調達方法は持ってこいだろう。
 軍に居た頃、休日に釣りに連れて行って貰って覚えた。男達はこんな退屈な事をよく出来るなと思いながら見ていたが。
 何事も経験は役に立つものだ。程なく魚が食いついた。
 泥を掘って水を引き込み石を積んで、天然の生簀とした。
 釣果をそこに入れて行く。
 一人につき三尾も居れば足りるだろうか。後で串に刺して丸焼きにしてやろう。
 朔夜は目覚めて食べられるだろうか。これが口に出来るようになるまで、ここで休んでも良いのだが。


 自ら死ぬ事は諦めた。
 何度やっても結果は同じなのだと分かって、流石に馬鹿らしくなった。
 そうなると良心の呵責すらくだらないものになって、人を殺す事に何も思わなくなった。少なくとも、表面上は。
 今回は市街戦だった。
 苴国境の街を取り戻せと――しかし、その街が実際はどちらの領地なのかは知らない。山を超えた麓にあるのだから、普通に考えれば向こうの領地の筈なのだが。
 だがそんな事はどうでも良く、言われた事を熟すだけ。
 影にその場所に連れて行かれ、苦戦している味方が退いたその入れ替わりに、敵に襲い掛かる。
 呆気なかった。敵は全く油断していた。
 当然だ。既に繍軍を蹴散らしたと思っている所に現れたのは、一人の子供に過ぎないのだから。
 それが自分達に害をなすものだとは考えておらず。
 次々と刃の餌食になった。
 まるで梁巴だった。
 簡単に男達は死んでいく。愉しくなった。次々と命を奪って。
 はっと我に返る。
 また、屍が積み重なっている。
 それにもう何かを考えるのも怠かった。考えるだけ無駄だと、もう知っていた。
 重たい体を休める場所を探す。厩の戸口が開いていた。
 寝藁の中に身を埋める。
 華耶がひょっこり顔を出して、みーつけた、と。
 昔同じ事をしたような、かくれんぼの夢を見ながら。
 黎明と共に目が覚める。
 人の歩く気配がある。敵かと慌てて身を起こした。
 戸口からちらちらと見える鎧は繍軍のものだ。占領の為に調べているのだろう。安心して起き上がる。
 こんな所で油を売ってはいられない。起き上がると同時に身の上にあった物が藁の上に滑り落ちた。
 拾って、紙包みを広げる。
 最低限の食糧と、次の命令書。
 更に西に向かい、同じような市街戦を繰り広げている軍を援助せよ、と。
 何も思わず固い食糧を齧る。
 このくらい、日々の暮らしも自身の心も乾いてしまっていた。
 味気が無い。ただ生きる為のもの。
 梁巴か、と思い出す。
 どうせなら別れ際の地獄ではなく、楽しかった日々を追体験したかった。
 思わず母の手料理の味を思い出して、惨めな気分になって。
 忘れようと、思い直した。
 もう朔夜は居ないのだから。ここに居るのは、月。月夜の悪魔。
 徐々にその名は繍軍の中で浸透しつつある。実態は誰も知らぬまま、頼みにされる存在として。
 一方で、敵軍のごく少数が畏れをもって国に報告し、名を広めつつあった。だがまだ、遭遇した者以外には信じられていない。
 当の本人にはどちらもどうでも良く、出来ればもうちょっと美味いものが食いたいなと思うだけ。
 全て腹の中に納めて、寝藁から飛び降りた。
 昇った日の光の下を歩く。眩しい。頭がくらくらする。
 出来れば日が暮れてから歩きたかったが、街の中が煩くてこれ以上休む気になれない。
 静かな山の中で寝直してから西に向かう事にした。
 煩いのは繍軍の兵のせいだ。何がそんなに嬉しいのか知らないが、あちこちではしゃぎ回っている。
 朝から酒を食らっている者まで居る。やれやれと思いながら。
 女の悲鳴を聞いた。
 瞬時に身が凍りついた。
 思い出してはいけない何かが、頭の中で暴れている。
 悲鳴が、やがて、耳を塞ぎたくなる声となって。
 何か別の意識が――悪魔でもない、別の自分が体を動かした。
 許されない。こんな事。
 俺が壊す。壊してやる。
 こんな世界、全て。
 女を襲っていた男達を有無を言わさず斬った。
 恐怖に悲鳴を上げた裸の女を。
 醜いと、思った。
 こんなもの、見たくなかった。
 許さない。何もかも。
 みんな、殺す。

 過去と、過去が、混同した。
 混ざり合って、記憶は。
 俺が殺した。
 母さんを。その胸を裂いて。
 殺した。

 目覚めて、荒い息を吐いて。
 額から目にかけて、掌で押さえた。
 頭痛。でも息苦しさは治った。
「朔」
 波瑠沙の声で力が抜ける。
 ゆっくりと息を吐き、顔を起こした。
 焚き火の温もりと、食欲を誘う匂い。
「魚。美味いぞ」
 差し出された串を受け取って。
 笑う。弱々しくも、心から安堵した顔で。
「毒…消えたっぽい」
 慎重に言葉を吐き出す。そうせねばまだ、違和感が残った。
「嘘。まだ痺れてるだろ」
「ちょっとね」
 言って、少しだけ焼き魚の身に歯を立てる。
「お上品な食い方するなぁ。どこのお嬢様だよ」
 言いながら波瑠沙は豪快に食らいつく。
「だからまだ、痺れてんだってば」
「ほら見ろ」
 我が意を得たとばかりに笑って。
「ま、お嬢ちゃんは今更か」
「今更じゃねえよ」
「また化粧してやろうか?」
「やだー」
「満更でもねえ癖に」
 食い終えた串で指して笑う。
「美味いか?まだ食える?」
「うん」
 横取りされないうちに二本目にありつこうと、口から溢れるのも構わず食らいついた。
 あの頃これだけ美味いものを食っていたら、少しは人間らしく在れただろうなと思う。
 死ねないから生きていただけの日々。
 誰かの死の上に、どうしようもない生を長引かせながら。
 でも、今は。
 どうしようもなかったものが、意味のあるものに変わった。
 生きている意味。まだ分からないままだけど、感じる事は出来る。
 波瑠沙に顔いっぱいの笑みを向けて。
「すっげえ美味いよ。ありがとう」
 あの後、何度も同じ場面を目撃した。
 男は片っ端から斬った。女も巻き込む事が多々あったが、どうにか自分を止められる事もあった。
 その嫌悪感の正体が分からないまま。
 影に訊いた。何故あんな事を許すのかと。
 奴は当然のように答えた。
「欲しい物を奪うのは勝った者の権利だ。自分が奪われた物だというのにそれが分からないのか」
 奪われた物?
 言葉にして問い返したのか、顔に出ていたのか。それは忘れた。
 だが、それに対する答えだけは絶対に忘れられない。
「お前達は負け、我々が勝った。それゆえに、繍の物になった。お前は物だ。物がそのような偽善を口にする権利など無い」
 それで漸く知った。
 梁巴を奪ったのは、こいつらだと。
 繍も、桓梠も、憎むべき相手なのだと。
 だけどもう、遅かった。
 知らず奴隷になっていた自分は、主人に向ける牙を抜かれていた。
 ただ、生きる為に。
 虚しい日々を繰り返す己を、生かす為に。


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