月の蘇る
7
再び、この国に立つ。
運命を狂わせた国。恨みと憎しみを抱き、復讐を誓った国。
幾つのもの無念な魂がそうせよと己を導いて、約束のまま、ここに。
「大丈夫か」
波瑠沙が心配して問う。
頷いて、止めていた馬を再び進めた。
「なんか、澱んでるよな。ここの空気」
彼女の言う事は尤もで、街の中に全く生気が感じられない。
人の気配が無い。家の中には潜んでいるのだろうが、それでも息を殺している。
「戦になると民に伝わっているんだろうか」
朔夜は己の推量を口にしながら、その責任も感じていた。
戦は何の関係も無い民を巻き込む。
知っている。だが、そうだとしても。
「…こんな国に住んでいる限り、自業自得だけどな」
低く吐き捨てる。
「らしくない事言うね。どうした」
「別に。だってそうだろ」
それだけで済まそうと思ったが。
人家の無い方へ馬を進めて、彼女の探る視線に負けて、口を割った。
「この国に住む人達を守らなきゃならないって…そう自分を納得させて戦ってきたんだ。嫌で嫌で仕方なかったけど、その為ならと思って。なのに、桓梠に背いて捕らわれたら…俺は誰にとっても悪魔なんだ。守ろうとしてた民に早く死ねと言われて、勝手に裏切られた気がして、殺してくれって自分で言う所まで追い詰められた。結局俺は誰にとっても居ない方が良い存在なんだって…ここの民に教えられた」
その時受けた傷が、今また生々しく痛む。
誰にとっても居ない方が良い存在。その範囲は広がって、国を跨いで皆が自分を亡き者にしようとしている。
「仕方ないよな。俺は悪魔だ」
己を納得させようと呟き、笑おうとしたが、頬は強張って上手くいかない。
「少し休むか」
波瑠沙は言って、馬を降りた。
木立の中に入ってゆく。朔夜もそれに従った。
馬を繋ぎ、水溜りで水を飲ませ、自分達も草の中に座る。
波瑠沙の腕が肩の上に伸びて、抱かれるままに横に身を預けた。
この地に来て心に吹き荒んでいた風が収まり、温かさが戻ってくる。
「どうあっても、私はお前の味方だ」
彼女が言う。
「敵がどれだけ居ようと、二人なら勝てる。そうだろ?」
人懐っこい笑顔で、朔夜は頷いた。
「うん。そうだよな」
この笑顔が見たいから命を懸けられるんだと、波瑠沙は思った。
喉を潤し、携行食を口にして。
「…なんか、居るな」
波瑠沙が囁く。朔夜も頷く。
「行くか」
馬に乗り、道へと戻る。
気配は付いて来る。
馬を飛ばせば捲けるだろうが、敢えてゆっくりと進めた。
そのうち異変に気付いた。
「なんだ…これ」
先に波瑠沙が顔を顰めた。
「なに?」
まだ分からない朔夜が首を傾げる。
「血の臭いがする。強烈に」
「え…?」
すぐに朔夜の鼻にも嗅ぎ慣れたそれは届いた。
暑い時季、時間の事だ。血の中に腐臭も混じる。
敏感な波瑠沙は強烈過ぎてまともに息が出来ず、布を鼻と口に巻いて道を進める。
一段とそれが濃くなった場所で。
朔夜が馬の足を止めた。
赤黒くなった筋が林の中に入っている。
「…ちょっと見て来る」
「大丈夫か」
朔夜は頷きながら下馬して血筋を辿って行った。
波瑠沙も馬を繋いで付いて来た。
彼女としては、女の変死体がある事を心配していた。無論、死体の心配ではなく朔夜への心配だ。やっと薄く塞がった傷が開きかねない。
が、それは杞憂だった。
しかしその光景はもっと凄惨だった。
「なんだこれ…」
子供だった。
その死体というだけで残虐だが。
異常なのは、胸から腹にかけて掻き切られ、身を開かれて、内臓が捌かれたように飛び出ていた。
近付いた時、鴉が飛び立った。既に食い荒らされている。
「うわぁ…吐きそう」
臭いで既にやられている波瑠沙がげんなりと言う。
「いいよ、戻ってて」
「お前は?」
これ以上、何を探るというのか。
朔夜はその直視し難い死体に吸い寄せられるように近付いている。
「なんか、気になる」
「は?」
ついには横にしゃがみ込んで観察している。
「お前、医者か」
「医者じゃないけどさ」
振り返って。
「この死体、心臓が無い」
「…はあ」
波瑠沙からすればそんな事はどうでも良いのだが。
「心臓って見て分かるのか。お前」
「暗殺の基本じゃん?心臓の位置なんて」
「はあ」
また生煮えの返事。
珍しく及び腰の彼女にやっと気付いて、朔夜は笑って引き返した。
「ごめんごめん。気持ち悪いよな、こんなの。帰ろ」
「戦場なら別に良いんだけどさ、臭いが…。腐りかけってキツいんだよ」
「完全に腐ってた首はいけたのに」
苴で見せられた瀉冨摩の首の事だ。
「腐臭だけなら別に。ってか、あの時は頭に血が上ってたからそれどころじゃなかったし」
「普通あれの方が無理だけどなあ」
「一般人はこっちの方が無理だろ」
言外に、お前は血の臭いに慣れ過ぎているだけだと言われた。
苦笑いしか返せない。
馬に乗り、再び道を進むが。
臭いが消えない。
「これって私の鼻が麻痺してるからじゃないよな?」
「そうだと思う。俺にも分かるから」
「まだ新しい血の臭いがするんだが」
「別の?」
「ああ。こっちはまだ腐ってない」
「さすが野生動物…」
「ああん?」
「なんでもないです」
今度は道の真ん中だった。
矢張り子供。そして体は掻っ捌かれて。
「やっぱり心臓が無い…」
馬上から見て朔夜は呟いた。
何者かが心臓を奪う為に体を切り開いたのは明白だ。
「なんだこの国…」
心からの軽蔑を込めて波瑠沙が言う。
この国をそれでもまだ知る筈の朔夜が首を捻る。
こんな光景は初めて見た。
ふと、顔を上げる。
ずっと付き纏っていた気配が近寄ってきた。
波瑠沙に目配せする。
「えー、ここで?」
はっきりと渋られた。臭いが嫌なのだろう。
「じゃ、行くかぁ」
間延びした言い方で。
次の瞬間には馬に鞭をくれていた。
二人して爆走する。そのまま山を降りた。
里に着く。馬を止める。降りて、そこに流れている細い川の水を飲ませながら。
「流石に追って来れないか」
「さてな。相手の正体が分からん」
「隠密じゃなかった。素人っぽい」
「素人にしちゃ上手いがな」
「手慣れてる感じはしたね。あの死体の原因かも」
「身を潜めて子供を襲う稼業ってか?何の為に?」
「子供の心臓を狙って盗る…それこそ何の為にって感じだけど」
腕を組んで朔夜は考えている。
「どうでも良くないか?こっちには関係無い」
「そうかも知れないけど」
「何がそんなに引っ掛かるんだよ?」
「気に入らないだけ。奴らの狙いは俺だったんだろうし」
「ああ、子供」
「見た目だけな」
苦い顔で言って、視線を巡らせる。
既に日は暮れようとしている。山の中の暗がりに視線だけを向けて。
「…また来やがった」
「しつこいな」
小声で囁き合って。
「宿でも探すか」
これ見よがしに声を上げて言う。
「こんな寂れた所に宿なんかあるかなあ」
「泊めて貰えたら厩でも良いんだけど」
「私は嫌だ。それなら野宿が良い」
「まあそう言うなって」
ぐるりと小さな里を見たが、案の定宿らしきものは無く、人家の戸を叩いても出て来る者が居ない。
諦めて、川沿いに進んで見つけた空き地を夜営の場所とした。
焚火を付け、携行食を夕食として、早々に寝転がる。
毛布の中で身を寄せ合いながら、囁き声で話し合う。
「来るかな」
「これで来なきゃそれこそ何の為にって話だろ」
「ただの監視かも知れないよ?」
「監視?」
「俺の」
「…お前の正体を知る奴か」
「桓梠の犬でな、影って呼んでた奴が居る。ずっと俺の監視をしていた。この前久しぶりに会ったから挨拶がてら足をぶっ刺しておいた」
「また随分な挨拶だな」
「だから奴の代わりが来てるんじゃないかと思う訳。本物ならもっと上手い。俺でも気付かない時がある」
「ふうん?それなら放っておいても良いか」
「出来れば始末はしたいけどね」
「尻尾が出ないとな」
「出させるか」
立ち上がって。
「眠れないから散歩してくる」
波瑠沙は眠そうな振りで手だけ挙げてひらひらと振った。
川に沿って歩く。浅い水面は月明かりを反射してきらきらと輝く。
反対側は木立の闇だ。その中に息を殺して付いて来る気配が確実に存在する。
前にもこんな事があったなと思い出す。
華耶を救いに行く道中だ。後を尾けてくる気配があるから夜中にわざと単独行動をした。
そうしているうちに悪魔に憑かれて。
燕雷を斬った。
今その心配が殆ど無くなったのは、本当に幸いだった。そうでなければ波瑠沙と行動を共に出来なかった。
何が俺を変えたんだろうと考える。
気付いたらこうなっていた。いつから?
龍晶と出会ってから。
あいつと出会って、共に過ごして、心からこいつと共に居たい、笑っていたいと思ってから。
繍時代の孤独が消えた。人間への不信感と共に。
あいつは俺を人間へと戻してくれた。
そして人を愛する事を教えてくれた。
だから波瑠沙が今横に居る。居られる。逃げずに、ちゃんと。
俺は変わったんだ。あの頃から考えれば。
あいつのお陰。
でも俺は、あいつに何を返せただろう。
結局、守り切れなかった。
何度でも後悔する。溺れて息が出来なくなる程に。
足を止め、座り込む。
頬を涙が伝う。
いくら泣いても、いくら悔いても、足りない。
進むべき道も無い。闇ばかりで。
あいつの居なくなったここから、何処にも行きたくない。
どうして置いて逝った。
どうして。
心とは裏腹に、手は刀へと伸びていた。
身を翻したかと思うと、林の中に飛び込む。すぐそこまで近寄っていた気配を逃さなかった。
木陰に潜んでいた一人を斬り、飛び掛かってきた二人目の刀を受けつつ、今斬った刀を翻して腹を突いた。
刹那、後ろから薙ぎ払われた刀を身を屈めて避け、そうしながら逆手に持ち直した短刀でその足へ突き刺した。
抜き、立ち上がる。
相手は倒れて悶絶している。
敵は三人で全て。それは最初から分かっていた。
「何者だ?」
相手の傍らに屈み、喉元に刃を突き付けて問う。
「べ…別に、何者でもねえよ」
答えにならぬ返答に眉根を寄せる。
「どうして俺を狙っていた?」
「餓鬼だからだよ!しかも銀髪」
「…どういう意味だ」
悪魔だから、と言っている訳ではない。
その特徴は知っているが、それが何者なのかは知らないのだろう。知っていればこんな無謀はしない。
「知らないのか!?餓鬼の…それも特に、銀髪の餓鬼の肝は、食えば不老不死の薬になるんだよ!高く売れる筈だったのに」
咄嗟に理解出来なかった。
頭が拒んだ。全てを理解する事を。
解るのだが。何もかも、その裏まで一瞬で見通したのだが。
それを認めるのは辛かった。
せいぜい、小さな舌打ちで虚しい怒りを漏らすしかない。
「桓梠…」
奴が、こんなありもしない与太話を流したのだ。
俺を追い詰める、その為だけに。
「お前らが…山の中で子供を殺したのか」
「獲物だよ」
嘲るように言った口を。
横から殴り、また反対側から殴って。
顔の形が無くなるまで繰り返した。
そしてまだ息のある胸に、刃を突き刺して。
朔夜は崩れるように座り込んだ。
顔を両手で覆って。
叫びたくとも、声が出ない。
「…朔」
波瑠沙が後ろから呼びかけた。
応えたくとも、唇が震えて言葉が発せられない。
後ろから抱きかかえられる。
そのまま持ち上げられ、屍に囲まれたその場から脱した。
焚火の前で降ろされ、毛布に包まれて。
そこでやっと、自分が泣いている事に気付いた。
どうにか息を整えて、教えた。
「銀髪の餓鬼の肝を喰えば、不老不死になるんだって」
「…は?」
「こんな馬鹿話を信じて、奴らは子供達を殺していた…」
それ以上は喋れなかった。
波瑠沙もまた、察した。
「桓梠の罠か」
泣きながら頷く。
その涙の訳なら聞かずとも解る。
「朔、あの子達の死は、お前のせいじゃないからな」
反応せず、炎を前にしても尚暗い目を開いて。
「お前は怒っても良いが、気に病む事じゃない。絶対にお前のせいじゃない」
やっと頷いた。かと思うとそのまま腕の中に顔を埋めた。
波瑠沙は肩を抱き、幼子をあやすように軽く揺らしながら。
「早く終わらせようぜ。こんな馬鹿馬鹿しい事は…」
はっきりと、腕の中で頷く。
桓梠を殺す。
長年の憎しみは、確固たる目的のある殺意となった。
桓梠は空いた玉座に月を使って殺した王の甥を座らせた。
その甥はまだ十代の少年で、如何様にも操れる。
誰も桓梠には逆らえなくなった。
朔夜はそんな事は知らず、影に言われるがままに暗殺を繰り返していた。
前王と彌羅を支持していた残党を闇討ちにしていく。時には不意打ちで。時には寝所に潜り込んで。
己が繰り返している行為の意味など分からなかったし、考えもしなかった。
まともに考えたら最後、己が壊れる事は分かっていた。
それでも心は蝕まれる。
殺していたのは自分の心で。
ある時、地下牢の床に倒れ伏して、動けなくなった。
このまま自分も死ねば良いと思った。
呼吸以外の一切、生きる為の動きが止まった。
どうしてまだ呼吸をしているのか分からない。しょっちゅう止まろうとしている癖に、こんな時だけ。
まだ許されないんだと思った。
母さんの所に行ってはいけないのだと。
泣く事もできなくて。
鉄格子の向こうに桓梠が現れた。
自分を救ってくれる人。でも、救われたいとも思えなくなった。
許してくれる人。でもまだ、許されない。それどころか更に罪を重ねて。
それでも縋りたくて。
「どうした?殺しに飽きたか?」
言われている意味を考えられず。
ただ、見上げるだけ。
「まだ私の為に働けるだろう?」
頷く。見放さないで欲しくて。
「なんでもするよな?」
また、頷く。見放されたら終わりだと信じていた。
「月、戦さ場に行く為の刃が欲しいだろう?お前が以前言っていたものを用意した」
双剣が鉄格子の隙間から滑り入れられる。
「これを持って戦場に行け。お前の恐ろしさ、人々の目に焼き付けて来るが良い」
絶望の目を向ける。
まだ、誰かを殺さないといけないのか。
「どうした?何か不満か?」
首を横に振る。
逆らう事など思いもよらない。
許されるまで、この人に従い続けないと。
「戦場に現れる月夜の悪魔――これは良いな。すぐに各国の噂となるだろう。面白くなってきた」
悪魔?
なんでもいいよ。
どうせ人にはなれない。
あなたの道具。道具に命は要らない。
だからもう、許して。
俺を、殺して。
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