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月の蘇る
  6
 北州にものんびりと夏が訪れようとしている。
 明るい日差しの中、桧釐が都から呼び寄せた人が到着した。
 額に汗しながら木刀を振っていた春音は、馬車の到着に手を止めた。
 誰だろう。知らない人なら賢くない子の振りをしなきゃいけない。
 桧釐が出てきた。春音に微笑み、馬車へと寄る。
 中から出てきたのは、春音の知らない老人。
「舎毘奈(シャビナ)殿、遠路を有難うございます」
 桧釐が言う。
 そう言えば聞かされていた。都から北方語の話せる師を呼ぶ、と。
 父にとっても師だった人。それを聞いて春音の心は久しぶりに弾んだ。
 父に近付ける。今や憧れとなった存在に。
 続いてもう一台馬車が乗り入れられ、驚いた。
 桧釐もまた驚いた顔をしている。これは予定外の事のようだ。
 幼心に警戒しながら待つ。と、中から出て来たのは。
「春音!」
「兄さま!」
 弾かれたように走り出す。伸ばされた腕の中に飛び込んで、そのまま抱き上げられた。
「大きくなったなぁ!もう重たいや。前みたいに高い高いは出来なくなった」
 鵬岷は諦めてすぐに春音の足を地に付けた。
 そう言う十五歳の少年こそ随分大人に近付いた。
「陛下…何故に」
 桧釐が衝撃の余り挨拶も忘れて呆然と問う。
「私が若様の師になる事を伝えると、是非にご自分も会いに行きたいと」
 舎毘奈が後ろから答えた。
 少年は輝く笑顔で言った。
「碑未には黙って後宮を抜け出して来た。今ごろ私に出し抜かれて怒っているだろう。ざまあ見ろだ」
 この物言いは誰に習ったのだろう。まさか亡き人の影響だろうか。
 何にせよ、このくらいの逞しさは欲しかった。碑未の操り人形から本人が脱しようとしているのなら喜ばしい事だ。
 矢張り今は亡き彼の事が思い浮かぶ。彼とて、兄の操り人形から脱しようと足掻いて、また溺れて、しかし再び藻掻いて、やっと。
「初めて戔の都以外の街を見れた。良い所だな、ここは」
 ぐるりと見回し、青空と木々の疎らでも夏の青さ増した山々を見て。
「この音、金を採掘する音か?」
 街に木霊するいくつもの高い音。
「ええ。金と鉄を掘る音です」
「そうなのか。是非その現場を見てみたいものだ。…なんだ?何か可笑しい事を言ったか?」
 思わず笑い出した桧釐に鵬岷は怪訝に問うた。
「いいえ。失礼。つい、あなたの父上と重なってしまって」
「父上?」
「龍晶陛下と全く同じ事を言われるので」
 目を見開いていたが、鵬岷もふっと笑った。
「成程、それは光栄な事だ。まずは父上の墓参をしたい。案内してくれるか、桧釐」
「おれも行く!」
 久しぶりに会った兄から絶対に離れないという姿勢で春音は宣言する。
「私も。龍晶様には結局会えずじまいでしたので、報告が多々あります」
 舎毘奈も言い、桧釐は頷いた。
「皆で行きましょう。あの人も喜ぶでしょうよ」
 歩いても間もない距離だと伝えると、若い王は歩いて行くと言って譲らなかった。
 碑未を騙して来た事が一つきっかけになったのだろう。気弱だった少年は、ひと皮剥けて王としての意志を持ち始めたようだ。
「兄さま、おれね、かたなをもってるんだ」
 歩きながら春音がひっきりなしに喋る。
「刀?守り刀を貰ったのか?」
 満面の笑みで顔を横に振る。
「ほんものだよぉ。さくにもらった!」
「さく、って…」
「朔夜ですよ。あいつ、若様に刀を教えて去って行ったんです」
 桧釐に教えられ、鵬岷の顔は翳った。
「何の為に…」
「つよくなるんだ!つよくなって、母上をたすけに行く!」
 大きな声で幼子は宣言する。
 鵬岷は完全に真顔になった。
「そうするように…彼が言ったのか」
「うん!さくがもどってきたら、いっしょに行くんだ」
 ついには溜息が出た。
 考えたくはない。それが実現したら、どうなるか。
「桧釐、灌から報せは来ている。母上…いや、かつてそうであった人は、今や父の愛妾として絶対的な地位を築いていると。我が弟の養育まで務めているらしい。それを無理に辞めさせる事は無いと思う」
 一体、どういう気分でそれを言うのか。桧釐は理解しかねた。
 一方は母として一度は慕った人、そしてもう一方は紛れもない実父。
 その二人を好きにさせておけと、この王は言う。無論、己の立場もあるからだろうが。
「俺が若様と朔夜を止めろという事ですか」
「是非そうして欲しい」
「その報せが何処まで本当なのか、その時まだそれが続いているのか…見極める必要はありますがね」
 それでも妾という立場は微妙だろう。王に飽きられれば終わりだ。或いは皇后の怒りを買ったり、他の女に陥れられる事も考えられる。
 そういう女の戦の地獄の中で、本当に愛する人を失った傷を抱えたままの華耶が何処まで耐えられるのか。
「戔としては…私としては関われる問題ではない。黙認するより無い」
 鵬岷の言葉は桧釐を落胆させた。
 矢張り、人の本質は変わらない。
 寧ろ開き直ってしまっている。
「兄さまは母上をたすけないの?」
 鵬岷は目を見開いて小さな弟を見下ろした。
 今の会話でそれを理解出来てしまうのか。
 桧釐は焦った顔を過(よぎ)らせて息子を抱き上げた。口封じが必要だ。
 この賢さを兄に見せては、後々問題となる。
「若君は俺が嫌でしょうがないんですよ。朔夜の方がずっと好かれている。困った事に」
 春音は悟った顔を一瞬見せ、「やだ!自分であるく!」と駄々を捏ねた。
 兄すら騙さねばならないと、幼心に察したようだ。
「早く皆が戻って来て欲しい一心ですよ。そりゃ分かりますけどね。この歳で父上を亡くされた身が哀れですよ、ねえ?」
 鵬岷は頷くより無い。
「ごめんな、春音。兄も近くに居てやれなくて」
「兄さまはおうさまだから、いそがしいんだよね」
 訳知り顔で笑って見せる。
「良い子だな、お前は」
 微笑んで、下ろされた頭を撫でた。
 実際は忙しさなど微塵も無い。何も出来ないのだから。
 碑未は王の不在を知って怒る事はあっても焦る事は無いだろう。何ら困る事は無い。この身が無事であれば。
 坂を登り、墓園に足を踏み入れる。
「父上は失望しておられるだろうな」
 桧釐に呟く。
「私は最期の時、確かに遺志を託されたのに…戔の要となれと、そう言われたのに。何も出来ないままだ。挙句、戦まで始めてしまった」
「戦は御父上の無念を晴らす為です」
「そう思うか?」
 自嘲して、続ける。
「私は悪魔に脅されて踊らされているだけなのに?」
 桧釐は息を呑んで王を見やった。
 鵬岷の目は、白い彫像に吸い込まれている。
「朱華様の像です。龍晶陛下の御母上です」
「…お顔がそっくりだな…」
 思わず手を伸ばし、大理石の肌に触れた。
「お美しい…。そのせいで父上が様々に苦労をされたと知ってはいるが」
 苴で起こった惨劇は耳に入っているのだろう。
 桧釐とて、噂程度にしか知らないが。
「現世にこんなに美しい女性が居れば、何処の王も欲しがるだろうな。灌でも聞かされた事がある。戔は惜しい事をしたと」
「陛下、それは」
 桧釐はひやりとしたものを感じた。
「褒め言葉だよ。私だって、このような方が目の前に居れば側室にと考えるさ」
 何の罪も感じていない。
 眩暈がするようだ。
 この男、実の父親の気質を引いている。
「龍晶陛下の墓前ですよ」
 窘める意味で桧釐は告げた。
「そうか。こちらか」
 何事も無かったかのように名の刻まれた石に向き直った。
 桧釐には龍晶の冷めた視線が見えるようだった。
 矢張りこの男を養子に迎えた事は間違っていた。あの苦悩こそ正しかった。
 もう何もかも遅いが。
「きょうは、りゅうがいないね」
 春音は空を見上げてそう言った。
「龍?」
 兄が問う。
「まえここで、おそらにりゅうがいたんだよ」
 小さな手が指す空は、夏らしい入道雲と青空が半々。
「前って、埋葬の時か」
 桧釐の独り言に春音は頷く。
「父さまは、おそらにかえったんだ。あれからいなくなったもの」
 見えない父の存在を信じていた。その気配が、幼子の言葉から消えた。
 そういう事だったのかと桧釐は空を仰ぐ。
「龍か…」
 鵬岷は墓前で呟く。
 龍の名を持たぬ戔王。
 鵬(おおとり)は、灌王家の名。
「改名した方が良いだろうか」
 背中を向けたまま、かつての臣に問う。
「そういう事は碑未殿にご相談下さい」
 冷めた口調で桧釐は返した。
「無視されるだろうな、きっと」
 大っぴらに戔は灌が乗っ取ったと喧伝したいのだ。だからこれまで名を改めるなどと誰も言わなかったし思い付きもしなかった。
「私は龍の名が欲しい。父上に頂いておけば良かった」
 その名さえあれば、民の目も違ってくる。
 灌王家からの精神的な独立も出来る。碑未の占有も全ては許さずに済むのではないか。
 全てはこの名のせいだという気がしてきた。
「りゅうき」
 突然、春音が口走った。
「おれのなまえ。兄さまにあげようか?」
 大人達は目を剥いて四歳の子を見た。
「ほ…本当か…?」
 鵬岷の口元は引き攣りながらも笑みを浮かべている。
「馬鹿な」
 本気にしている。桧釐は低く罵って我が子に言った。
「若様、それは父上様より頂いた大事なお名前でしょう?そう簡単に他人に譲って良いものではありません」
「兄さまだからだよ!」
 春音は声を大きくして言い返した。
「だいじな兄さまだから、だいじななまえをあげるんだ!それに、父さまはないしょでもう一つなまえをくれた」
「はっ…!?」
 桧釐とてそれは初耳だった。
 春音は大事そうに懐から紙を取り出した。こうしていつも持ち歩いているらしい。
 桧釐に差し出す。
「よめないから、よんで」
 貰ってはいるが本人もまだ知らぬらしい。
 桧釐は何かに急かされるように書状を開く。
 紛れもない龍晶の字。少し震えて乱れてはいるが。
 死の直前、字が書ける程に手の震えが収まったと聞いている。その時の書だろう。
『春音改め、その名を隆統(リュウトウ)とする』
 すぐにその意図は読めた。
 彼は大事な子を王にさせたくはないのだ。己が散々苦しめられた権力の醜い闘争の中に入れたくは。
 書状には続きがある。
『五歳になったらそう名乗ると良い。民の中で平凡に、幸せに暮らすこと。それより他は父は望まぬ。
 ただし、万一の時は隆の字を改めよ』
 ――万一の時。
 目は、今の王を見ていた。
「父上は春音になんという名を?」
 鵬岷が問う。
「なあに?」
 嬉しそうに春音も問う。
 桧釐は顔に笑みを貼り付けて答えた。
「隆統様だそうですよ」
「りゅうとう、…かっこいい!」
 気に入ったらしい。
「ならば、その…龍の名前は本当に、私のものにしても良いのか?」
「いいよー!」
 震えながらの兄の問いに、天真爛漫な笑顔で答える。
「どういう字なのか知っているか?」
「うん、ええとね…」
 枝を拾ってきて地面に書く。
 父に教えられて練習していたから、さらさらと書ける。
「龍起…」
 書かれた名前を鵬岷は呟く。
「きょうから兄さまのなまえ!」
 嬉しそうに春音は言う。
「有難い…!ありがとう、春音!やっぱりお前は可愛い弟だ!」
 抱き締め、頬擦りされる。春音は擽ったそうに笑う。大好きな兄の役に立てて嬉しいのだろう。
 問題は碑未がそれを諾と言うかどうかだが、最早桧釐にはそんな事はどうでも良かった。
 隆統。
 万一の時は。
 ――龍統。
 龍が、統べる。国を、民を。
 再び、この戔という国を、龍が統べねばならない、と。
 龍晶がこの名に託した裏の裏。
 死の前夜に彼が考えていた事。
――このままじゃ終われないだろ。
 諦めていなかった。まだ。
 その責任と共に、戦い続ける魂は生きている。
 しかし同時に、平凡に幸せに生きて欲しいという親としての願いも本物だろう。
 どちらの道を取らせるか。
 それは、運命のみが知る事で。
 どちらに転がっても良いように準備せねばならない。実の親として。
――お前に任せるよ。
 投げ槍のようで、信頼の証である声が、聞こえた気がした。

 王の改名は広く国中に発布された。
 それが事実上の戴冠のようなものだった。実際の戴冠の時は、前王の哀れな失脚ばかりが人々の話題を攫っていたのだから。
 それを機に、王は人々の前に姿を現すようになった。前王よりも更に若い少年の姿に人々は好意を抱いているように見えた。
 最初だけは。
「陛下、明日は都の西側に向けて視察を行って頂きます。次第は…」
 碑未は詳細の書かれた紙を広げているが、鵬岷改め龍起は上の空で言った。
「何故だ、碑未」
「何がでございましょう?」
「龍の名を持ったのに、何故民は私を認めぬのだ?」
 碑未は注意深くその顔を見返した。
「誰が、そのような事を」
「誰も言わぬ。私が自分で感じ取った事だ」
「感じ取るとは、どのように」
「大っぴらに口にする者は居ない。だが彼らの目だ。目は嘘を吐かぬ。何故こんな者が王なのかと、彼らの目はそう言っている」
「気のせいでございましょう」
 きっぱりと碑未は言った。
「お疲れなのです。改名を機に急に張り切るからですよ。疲れれば思考は後ろ向きになるもの。明日の視察は止めにしましょう。後宮にてお休み下さい」
「しかし…やっと父上の言う通りに民を見る事が出来るのに、この機を逃しては…」
「民を見て気鬱になるだけならお止めなさいませ。前王にお言葉を返すようですが、民など見ずとも政は出来ます。この碑未にお任せ下さい。陛下は一日も早く後継をお作りなさいますよう。それより大事な政務は御座いませぬ」
「まだ私は十五だぞ…」
「こう言っては何ですが、何があるか分かりませぬでしょう。前王は二十二歳で病死なされたのですから。早く後嗣を定める事が王としての責務です」
「病死…?」
「何か?」
 空惚けている風も無い。本気で言っているのか。
 しかし、知らぬ筈は無いのだ。
「父上は、刺客に…繍からの刺客に殺されたのだろう?何故病死と…」
「刺客?誰がそのような事を?」
「えっ…?」
 誰だったか。最初は噂として聞いていただけだ。半信半疑だった。
 決定付けたのは、後宮に忍び込んできた彼の言葉。
「悪魔…」
 呟く。
「矢張りそうですか。おかしいと思っていたのです。陛下がご自分から繍と戦をしたいなどと仰せになる筈が無いですから」
「待て、碑未。父上は病死なのか?それが真実なのか?」
「そうですよ。灌からそう報せが来ております。ご覧になったではありませんか」
「そうだったか…」
 気の抜けた声で龍起は応じた。
 その書状は見た。ただ、父の死を報せる第一報で、その死の方に衝撃を受けて、原因まで頭に入って来なかった。
 だが冷静に考えれば、あの病み衰えた姿を見ている。病死と考える方が自然ではないか。
 一体、何を信じていたのだろう。
「悪魔は繍に恨みを持っています。自分が飼われていた国ですが、故郷を滅ぼした国でもある。かの者は陛下を利用し、戔を己の復讐に使おうとしているのです」
「そうなのか。ならば、出兵は取り止めた方が良いのだな」
「いえ。戦はしましょう、陛下。苴灌との取り決めが御座います。共に繍を滅ぼした後、悪魔も滅するという」
 恐ろしい事を聞いたように少年の顔は強張った。
「彼は…殺されるのか」
「それが世の為です」
 春音の顔が頭を過ぎる。
 可愛い弟は心から彼の帰還を待っている。
 父と同じくこの世の人では無くなったと聞いたら、どれだけ落胆するか。
「分かった…碑未」
 しかし、彼は悪魔で、自分は王だ。
 龍の名を継いだ、この国の王。
「計画通りに事を進めてくれ。任せる」
「御意に」
 立ち上がった王に、臣は朗らかに告げた。
「ああ、仰せになっていた側室の件ですが、近く後宮に入る事が決まりました」
「本当か!?」
「灌王室も喜んでおりますよ。そのような娘が居るのなら早く言えば良いものをと、灌の陛下より小言を頂きました」
「いや…忘れていたのだ。父上の見舞いの際に出会ったものだから、その後が大変だったろう?父の小言を受けたお前には悪いが」
「いえ、私にとっても喜ばしい事ですから、お小言など何でもありませんよ」
「そうか。碑未、ありがとう」
 先刻までの表情を一変させて、浮き浮きとした顔で部屋を出て行く。
 結局は世間知らずで無知な少年だ。扱い易い。
 にやりと背中を見て笑う佞臣の顔を、彼はまだ知らない。


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