月の蘇る
5
敵を半分ほど減らした時、急に眩暈がした。
とは言え、今の今まで自分が何をしていたのか分からない。
こいつらを殺さなきゃと動いていたのは覚えている。殺す?自分が?
混乱する。息が詰まる。怯えた目は周囲を落ち着きなく見回す。
間を取っていた敵が変化に気付いた。
「来なくなったな」
「ただの子供に戻ったようだ」
その兵はにやりと笑い、斬りかかって行った。
月は己に振り下ろされようとしている刃を見た。
殺される。
死ぬ。
母さんの所へ、逝ける。
ちっとも怖くなかった。自然に笑みが浮かんだ。
なのに。
降ってきたのは、相手の血。
自分に下される筈だった刃は、その身を避けるように横へ滑り落ちた。
どうして。俺は。
生きてしまうんだろう。
敵の背後からわっと人の声が湧き上がった。桓梠の手勢がやって来たのだ。
否、今まで潜んでその時を待っていたのかも知れない。悪魔の力が弱まる時を。
敵の意識は全てそちらに向いた。
月は一人、のろのろと立ち上がる。
誰も居ない方へと歩く。
もう嫌だ。
もう誰にも近寄りたくない。
もう誰も殺したくない。
もう、何も。
涙が次々に溢れる。足は自然とある場所へと向かっていた。
喧騒を他所に、城廓の外へと出て。
階段を降りる。
「朔…?朔夜!?」
華耶の驚いた声が響いた。
「どうしたの…!?」
答えは無い。向き合って顔を手で包むと、激しく泣きじゃくり始めた。
漸く腕に引っ掛かっている衣以外は何も身に付けていない。そしてその衣も肌も、血塗(ちまみ)れだった。
「朔夜、怪我は?どこが痛い?」
泣きながら首を振る。
痛い。
痛いのは、怪我じゃない。
「これはご自分の血ではないのでしょう」
横に来て様子を見た彼女の母が教えた。
華耶もそれ以上は口を噤んだ。
この前の事が頭にあった。下手に何かを訊けば、彼はまた苦しむ。
泣き声だけを聞き、必死に背中を摩り、やがて泣き疲れてその場に倒れた身にそっと毛布を掛けた。
「…騒乱の物音が外から聞こえていたけど」
母が呟く。
その音はもう止み、戦勝を祝う雄叫びが上がっている。
「朔夜…」
寝顔は血に汚れている他は今までと変わらない。
戦うのは嫌だと言った時も。
梁巴の皆の為に、戦わなきゃいけないんだと諦めていた時も。
今と、同じ顔で。
華耶は知っている。虐めっ子に石を投げられても、組み伏せられて殴られても、朔夜は絶対に持っている刀を抜かなかった。
抵抗の術があるのにそれを選ばなかった。
なんで?と訊くと、彼は笑って言う。
だって、刀を抜いたら向こうが怪我しちゃうじゃん。
そういう、優しい彼が。
今、全く関係の無い人々を傷付け、殺めて。
不安な眠りの中で呻いている。
死にたい、殺して、と。
夜明け前、朔夜は目を覚ました。
まだ眠っている人々を見渡し、どうして自分がここに居るのか、何があったか思い出した。
もうそこに自我は無かった。何も考えず、地下牢に戻らねばと立ち上がる。
「朔夜」
呼ばれて、振り向いた。
この名前。まだ。
俺が俺じゃなくなった今も、呼んでくれる。
「生きて…ね」
華耶の願いに、はっきりと頷いた。
俺は死ねないから。
死にたくても、死ねないから。
地上に出ると、朝の光にくらっとした。
闇に目が慣れ過ぎている。目だけではなく、体も、頭も。
後ろの気配に振り向く。
そこだけがまだ夜の闇の如く。だから何となく落ち着いた。
「月。桓梠様は褒めておいでだ」
足を止めて俯く。
伏せた目で問うた。
「殺される事は無い?」
「当然。褒美を取らせるとの事だ」
「別に何も要らない」
歩き出す。覚めれば覚める程に混乱する。
俺は何をやった?
どうしてそんな事になった?
何をされた?何をやらされた?
それが正しいのか?
罪、とは。
「得物は何を使っていた」
影の問いに顔を顰める。
「得物って」
「お前の使う刃だ。物質の方の」
意味は解る。
それを問う意味が分からない。
否、解る。分かりたくないだけで。
故郷の景色が目に浮かぶ。
大好きだった、まだ信じていた父親の顔と。
「双剣」
それだけ答えて、走り出した。
己の巣に戻って、泣き喚いた。
――お前が戦えば、この村は守れる。
嘘つき。
――お前の力で、この戦は勝てる。
嘘だ。
負けた。負けたから、こんな事になった。
裏切られたんだ。
裏切られた。
何に?誰に?
全てに。
俺は独りなんだ。もう誰も信じられない。
戦って、殺して、いつか死ぬ。
もう、そうするしかない。
嬌声の響く狂乱の最中に再び扉は開かれた。
灌王は慣れた様子で使いを追い払おうと目を向ける。華耶は矢張り奥歯を噛み締めて我慢した。
「陛下、あの…」
言い淀んだ従者を追い払おうと手を出した時。
「失礼致しますよ」
その声に二人共、息を飲んだ。
「皓照殿」
「大変不粋かとは思いますが確認に来ました」
燭台の明かりに金髪を輝かせて、皓照は近寄ってきた。動きを忘れて固まる二人に。
「ほう。矢張りこれは紛れもなく戔国前皇后の華耶様であらせられる」
王は漸く彼女の体から離れた。
萎えたものを隠すように足を組んで。
華耶はすぐさま横にあった毛布で身を包んだ。顔ごと隠してしまいたかった。
「何か、問題がありまするか?」
開き直って王は問うた。
皓照はにっこりと笑って答える。
「それ自体に問題はありません。男女の事は私には分かりませんし。しかしね、一つ気になる事がありまして」
「なんでしょうか」
「陛下が繍殲滅の出兵を断った事ですよ。それだけは困ります。それで、確認を」
王の顔は訝しんだ。
「繍殲滅?お断りしましたかな。何かの間違いでは」
「そうなのですか?では何かの手違いでしょうか。ああ、断る理由に華耶様の名が上がっていたので、もしやと思いまして」
「華耶の?はて、何の事やら…」
「何故に戔皇后であった華耶様の名が灌で上がるのか、確認に参ったという次第です。しかしこのような事情なら得心しました。あとはお断りになった理由ですが」
言いながら皓照の目は華耶へと。
「まさか華耶様が奴隷扱いを受けた繍を庇う事はありますまい?いくら寛大な御心をお持ちの貴女様でも」
「皓照さん」
震えながら彼女は言った。
「繍であろうと何処であろうと、私は戦を望みません。権力のある者が戦を抑える。それが私が戔で教わった事です」
「つまりは龍晶前陛下の無謀ですか」
「無謀であろうと、私は彼の志を今も敬しております」
「ふむ。それは本音でしょう。若いお二人が分かち合っていた青い志は全く脆いものでしたが、誠意は伝わりましたよ」
華耶は微笑さえ浮かべて頷いた。
「未熟でした。子供だったんです、まだ。二人とも」
「龍晶陛下は子供のまま逝ってしまわれましたか」
「純粋な人でしたから。それで良かったんです、きっと」
「華耶様は?そのままでは居られなかったと?」
「ご覧の通りです」
「こういう事が見て分からぬのが私の玉に瑕な所です。どちらなのでしょう?華耶様は純粋に鵬達陛下を愛しておられるのか、何か打算あってのものなのか」
灌王の目が自然と厳しく注がれる。
彼女は嫣然と微笑んだ。
「どちらもでしょう?愛とはそういうもの」
「はあ。分からないなぁ」
皓照は笑いながら首を傾げる。灌王の視線は彼に戻った。
「思い出した。繍殲滅とは聞かなかったのですよ、皓照殿。私は繍に居る悪魔の包囲網を作ると聞いた。だからお断りしたのです」
「悪魔ごと彼の国を滅ぼすのですよ。意味は変わりません」
「いいえ」
厳しく否定したのは華耶。
「違います。それとこれとは、全く違うでしょう。その悪魔とは誰の事ですか?あなたは分かっていて言っていますよね。彼は繍ではなく、戔に居るべき人」
「華耶」
王に制止の意味で呼ばれる。彼女は振り切って続けた。
「繍では悪魔でも、戔では救国の英雄です。何故滅ぼさねばならないのですか。彼が一体何をしたと!?」
口を塞がれた。
王の手で。中に入れられた指が舌を弄ぶ。
「それがお前の本音か」
非情に彼は言った。
華耶は必死で出来る限り首を振った。誤解だと伝える為に。
「陛下、出兵して頂けますね?」
駄目押しとばかりに皓照が訊く。
「無論。詳しい事はまた、お知らせ下され」
「畏まりました。では、お邪魔を致しました」
全く邪魔だった。
皓照が去り、解放された口で、華耶は叫んだ。
「誤解です!陛下!私は戔の常識を申したまで!罪も無き彼に兵を差し向けて返り討ちにされては、灌の衰退に繋がりかねます!」
王は答えなかった。無言のまま女の体を手篭めにした。
「陛下…信じて…」
怒りはそのまま身に打ち込まれる。
死ぬ程の我慢の果てに築き上げたものが崩されながら。
それでも生きねばならなかった。
生きて、と彼に言った。
自分がその言葉を守らないのは、卑怯だから。
離れ難い山野を歩き、沢を覗き込んで、その水を掬って。
立ち上がり、山の声を聞く。
鳥が鳴く。梢が揺れる。せせらぎは、優しく。
ここにあるべき彼女の声だけ聞こえない。
目を閉じる。
いつかきっと一緒に帰れる?否。
きっと叶わない。そんな夢。
甘い、甘い、いつかの夢。
朔夜は目を開けて振り返った。
同じくらい大好きだけど、違う人が待っている。
「行こう」
誘うと、彼女は迷いなく頷いた。
「ああ、行こう」
肩を並べて歩き出す。それぞれ馬を引いてはいるが。
「賛比が煩かったんじゃないか?」
彼は出立にずっと反対していた。
出立自体より、先を越される事に。
「大丈夫。ちょっと黙らせてきた」
「え?どうやって?」
波瑠沙は流し目で意味深に笑う。
「は?え?そんな…えっ、それ!?」
「どれだよばーか。何を想像してんだか」
何かは、青くなったり赤くなったりの顔色が物語っている。
「ちょっとシメてきた」
「あーなんだぁ…じゃない。大丈夫かそれ。あいつ生きてる?」
「大丈夫大丈夫。死なない程度にやった」
「なら良い…のか…?」
騒ぎにならなきゃ良いのだが。
「良いじゃん別に。私達は抜け駆けしてんだし」
「まあ、な」
やり逃げと言った所だが、そんな事はどうだって良い。
繍軍との戦いの跡はまだ残っている。落とし穴は埋められたが、土の色はまだ馴染んでいない。
元々あった土は血を含んで赤黒くなっている。
投石と矢は片付けられずそのままだ。
どこかにまだ死体が残っているのか、濃い腐臭が漂ってくる。
これ以上の地獄を作り出す。この手で。
憎い、あの国を滅ぼす為に。
故郷の村の端まで来て、朔夜は回れ右をした。
今日も麗らかに晴れ渡る空。
山の青みは来た時よりずっと濃くなった。
また戻る。きっと。
生きて戻る。そうじゃないと。
皆の笑い声が風の中に聞こえた。
幼い自分の声も。
逝った人の声も。
「…行ってきます」
ここから、やり直す。
取り戻すんだ。失った時を。
「行こう」
波瑠沙に微笑んで、騎乗した。
あとは振り向かず、真っ直ぐに戦地へと向かって行った。
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