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月の蘇る
  4
 血に汚れた体を川で流す。
 赤はすぐに下流に向かい、新たな清い水が身を包んだ。
 河岸に戻り、そこに座って下流に目をやる。
 多くの矢が浅瀬で留まり、水を堰き止めている。
「…潮時かな」
 隣に座った波瑠沙に呟いた。
「そうかもな」
 低く彼女は返し、立ち上がって岩へと登っていった。
 二人分の衣服と武器を持って降りて、朔夜の分はそこに置く。
 一番上に置かれた紐を指に絡めて持ち上げた。
 紐の先には巾着が付いている。開けて、中を確認する。
 白く丸いそれは、転がってしまえば川に洗われるその辺の小石と見分けが付かないだろう。
 しっかりと再び蓋をして、首に紐を掛けた。
「許してくれ」
 ずっと向こうに向けて呟き、立ち上がる。
 衣を羽織って帯を締め、己の刀を装着した時、林から人影が現れた。
「無事だった!?」
 賛比だ。よくよく考えたら、こいつを巻き込まずに済んで幸運だった。
 あの時帰らなかったら、多分命は無かった。
「お陰様で。敵の背後から兵を差し向けてくれたのはお前の采配か?」
「あ、うん。団雲に手伝って貰って」
「上出来だ。だけど別に要らなかった」
「ええ…そんな事言う?」
「お陰で彼女の体を無駄に人目に晒しちまったじゃねえか。どうすんだよ」
「どうする、て」
「どうもしなくて結構。私は慣れてる」
「おれが!いやだ!」
「駄々捏ねてんじゃねえの」
 額を小突かれて朔夜は黙った。
「冗談はともかく、怪我人は」
 真面目に波瑠沙が問う。
「二人が重傷。五人は軽傷」
 事務的に賛比は答えた。
 波瑠沙が朔夜に目をやる。
「死んでないなら良かった」
 彼は言いながら歩きだす。
 陣に戻り、重傷人から治療を施した。
 両方ともまだ少年だ。刀の握り方も知らぬうちにこの場に出されたのだろう。
 裂かれた腹と背中をそれぞれ治し、軽傷も診ようと思って立ち上がる。が、足は力を失った。
 そう言えばと自分で思う。波瑠沙の傷を治した上に、見えぬ刃を飛ばしまくっている。力が尽きるのは必然だ。
 倒れた体を支えて波瑠沙は言った。
「今日はこれでおしまいだな。寝ろ」
 唸った。今のうちに言っておきたい事がある。
「繍に、行く…。そろそろ…」
「分かってるよ」
 当たり前に返されて、拍子抜けしつつ瞼を下ろした。
 横の賛比が不安そうに問う。
「大丈夫かな」
「寝れば明日の朝にはけろっとしてるよ」
「いや、そうじゃなくて」
 地べたに座る波瑠沙の胡座に頭を乗せて、その人はすっかり眠ってしまっている。
「もう少ししたら総督は戻って来ると思う。今日のことで使いは走らせたから、きっと」
「うん。待たないと思うな、こいつは」
「どうして。一緒に行けば心強いだろ?無駄に一人で戦わなくて良いし、兵糧も問題無い」
「ああ、食い物の心配をしなくて良いのは有難いよなぁ。でも、それくらいじゃ止まらないだろうな」
「なんで」
「今日見たろ?繍は、こいつ一人を狙っている。近くに居れば巻き込まれるぞ、お前ら」
「おかしいよ。だって俺達は軍隊だよ?敵がそれを無視するのも変だし、俺達が危険に遭うのは当然じゃないか」
「軍隊の中身はお前のような子供だろ。朔はそれが許せねえのさ」
「許せないって…」
「自分がそれで惨めな思いをしてきてるからだろ」
 賛比は質問攻めをやめて、少し身を引いた。
「…俺、知らない。誰も教えてくれない。朔兄が何者なのか」
「それは本人から聞いてくれ」
「なんで皆隠すの…?」
「聞かせた所で良い事は無いからだよ」
「人間じゃないから?」
 波瑠沙は黙った。
「最近よく、自分のことを悪魔だって言ってるけど、そういう事?普通じゃないのは知ってるよ。戦い方も、さっきのように怪我を治す力も。でも、だから悪魔なのかな。そんな気がしないんだ。俺にとってはずっと、優しくて面白い兄ちゃんだから」
「だから、聞かせた所で良い事は無いって言ってんだ」
 少しがっかりした顔で見返される。
「良いじゃねえか。普通の兄ちゃんだと思えば。って言うよりもう弟みたいだけどな、見た目は」
「本当に。初めて会った時から年上だって信じられなかった」
「ま、こいつの時間は止まっちゃってるから」
「繍に居たから?」
 口を滑らせたなと波瑠沙は苦笑いして再び彼を見た。
 真剣に問われる。
「この前、ちらっと言ってた。繍軍は弱い、俺が居ないとって。朔兄は繍の人だったの?」
「故郷はここ、梁巴だよ」
「それは知ってるけど」
「ここで大きな戦があってな。十三年前って言ってたか。それで、連れ去られた。繍に」
「連れ去られた…?」
「お前達はまだ経験が無いか。戦ってのは強奪が付き物だ。金目のものも、女子供、戦場にあるものはいろいろ盗られる。兵にとってはそれが戦利品だ。その為に戦ってると言っても過言じゃない」
「前の戦で苴軍がそうしてた…。奴らだけじゃないんだ…」
「今の戔は宗温がそれを禁じているんだろうけどさ。一般的には戦地でやりたい放題が普通だ。ま、それで朔は繍に盗られた。こんなに綺麗な見た目の子供を男共は放ってはおかんだろ。その後は、本人から聞いてくれ」
「それ滅茶苦茶本人に訊き辛い前振りなんですけど」
「ギリ犯された事は無いらしいぞ?嘘かも知れないけど」
「いやそういう問題じゃなくて」
 にやっと笑って、ちょっと諦めた顔で波瑠沙は教えた。
「月夜の悪魔、って呼ばれててな」
 賛比は首を傾げる。聞いた事、あるような、無いような。
「その名前は北方まで聞こえてた。軍関係者を震え上がらせる名として。繍の持つ、生きた兵器だとね」
「生きた兵器…?」
 波瑠沙は下を向いて、顔にかかる銀髪を撫でて上げてやる。
 今は安らかに眠っている。母と己の過去の告白の後、何か自分の中で上手く消化出来たのだろう。魘される事は減った。
「龍晶はこいつを人間に戻してくれた。自分でそう言っていた」
「陛下が…」
「だから、繍に行かなきゃならないんだ。こいつは」
 数々の憎しみを、闇の中に解かして消す為に。

 夢。
 過去の夢。
 消そうとずっと頑張ってきても、こうして時々蘇る、嫌な夢。
 どうしてあの男を信じていたんだろう。それも、心から。
 自分を救ってくれると、縋るように。
 その桓梠自らに連れられて、王宮を歩く。
 当然、彌羅の屋敷を上回る華麗な建物だが、何も目に入らなかった。
 心を殺していた。
 何も感じてはならない。自分は単なる道具だから。
 王の欲求を満たす玩具になるんだと、桓梠に言われたそのままを自分に言い聞かせて。
 嫌だ、怖いなんて思ってはならない。それが口に出れば不敬罪となる。
 そうなれば俺もただでは済まんぞ、と桓梠は釘を刺した。決して嫌な顔をせず、王の機嫌を取って媚びた笑みを向けろ、と。
 そんな事が出来るんだろうか。やった事が無い。でも、やるしかない。
 考えれば考えるほど身も心も硬化して、あるべき態度から遠ざかっていく。
 桓梠は慣れた様子でずんずん王宮を進む。すれ違った人間は脇に寄って頭を下げてやり過ごす。
 偉いんだ、この人は。
 この時初めてそれを知った。
 扉が開かれる。見た事の無い両開きの大きな扉。
 その奥に、王は居た。
 周囲にびっしりと兵が並ぶ。更に自分の周りには数人の女を侍らせ、酒を注がせている。
 女達は半裸で甘い声で囁き王に絡み付いている。一目でも見たことを後悔して慌てて目を伏せた。
 あら、可愛い。お嬢ちゃんかしら、お坊ちゃんかしら。綺麗な髪色ね。口々に女達が自分を見た感想を囁き合う。
 その女達を手の動き一つで退がらせ、王は口を開いた。
「桓梠。今や比類なき権力を持つお前が、私に趣向を用意したと聞いたが、そういう事か」
 彌羅が死んだ事で、権力の邪魔者が居なくなった――一人を除いて。
 そんな事、少年は当時知る由も無かったが。
「畏れながら、陛下におかれましては必ずやお気に召されるだろうと思い持参致しました。梁巴で拾った月の化身です」
「月とは、不吉な」
「ならば退がらせましょうか」
「それには及ばぬ。不吉をも打ち破ってこその王ぞ」
「流石でございます」
「酌をさせろ。おぬしも飲め」
 主人に背中を押され、瓶子を手に取った。
 慣れぬ上に緊張で手が震える。王の差し出した杯から酒が溢れ、豪華な装束に散った。
 すぐに床に平伏して謝った。
「ごめんなさい!初めてなんです…!こういうことは…」
 王は無視して桓梠に問うた。
「誰の手も付けられていないのか」
「当然、陛下が初めてでございます」
「我が手で教え込めと?」
「お望みなら、出直して私が教え込んで来ますが」
「いや…良い。この初々しさも一興だ」
 王は足先で少年の顎を持ち上げた。
 顔を上げさせられ、初めて正面から王の顔を見た。
 中年だろうか。首周りも、頬も、肉に覆われている。言ってしまえば醜い。贅沢に弛み切った醜さ。
 一方で王は、殆ど泣きそうな少年の顔に下卑た笑みを浮かべた。
「この場で衣を脱げ。さすれば許してやろう」
 え、と小さな声を漏らしたが、あとの反発は飲み込んだ。
 横目に桓梠を見る。そうせよと、彼は頷いた。
 その場に膝立ちになって、帯を解く。
 骨の浮く、細い上体が露わになる。
 それで手を止めると、厳しい声が降ってきた。
「何をしている。全てだ。早く」
 更に泣きそうになりながら、下帯を解く。
 数日前の恐怖が蘇って、体が震えた。
 羞恥より恐怖が先立っていた。また過呼吸にならないように、己の息だけに集中しようと頑張る。
「桓梠、あとは手酌で楽しむが良い」
 王は言い残し、細い背中に手をかけて立たせ、奥の寝所へと自ら連れ込んだ。
 天蓋から垂れ下がるいくつもの美しい紗幕を潜った。普段ならその異空間にはしゃぐ所だが、もうそれどころではない。
 懸命に息を整える。そして笑わなければ。気に入って貰えるように、媚びて。
 思えば思うほどに悲しくなって、寝台に辿り着いた時には泣いていた。
 王は小さな体を抱き上げ、寝台の中に倒した。仰向けに。その顔がよく見えるように。
「泣くほど嫌か」
 首を横に振る。本音は縦だ。嫌で嫌で仕方ない。
 そんな事は見透かしているとばかりに、乱暴に体を起こし、顔と顔を近付ける。
 舌を伸ばし、顎から頬を舐めた。
 う、と声を噛み締める。気持ち悪い。もう嫌だ。声には出せず。
 背中を支えていた手は下へ滑り、柔らかな場所をまさぐった。
 やだ、と言いそうになった口を慌てて閉じる。そのせいで、意図しない声が漏れた。
「安心せい。すぐに気持ち良くなる」
 耳元に息と共に吹きかけられる言葉。信じられない。
 こんな男にこんな事をされて、どうして媚びなきゃならない。笑わなきゃならない。
 冗談じゃない。
 でも、そんなことを言えない立場。
 俺は罪を犯した悪い子供。だから、償う為に、なんだってしなきゃ。
 そうしないと許して貰えないから。
 誰に?
 ――誰に、許されなきゃならないんだろう?
 王が自らの下帯を緩めて、はっとした。
 同じものが、母さんを苦しめていた。
 こいつらが。
 許せない。
 その瞬間、王は身から血を噴いて倒れた。
 膝立ちのまま、その血を浴びて、硬直した。
 なんだ?
 なんだ、今の。
 俺?
 俺が殺した?
 膝が笑い出した。力を失い、その場に座り込んで。
 全身が大きく震える。
 やってしまった。
 また罪を重ねてしまった。
 取り返しが付かない。今度こそ。
 誰からも許されない。殺される。
 殺される。
 過呼吸が襲う。止める意思すら働かない。ただ喘ぎ苦しむ。このまま死ぬ。
 死ねば、楽になれる。
 今まで気付かなかったが、部屋の周囲で監視をしていた者達が異変に気付いて紗幕を上げ、中を窺い見、ある者は外へと走って行った。
 外に出た者と入れ違いに、桓梠が入って来た。
「やったな」
 言葉は喜色を孕んでいたが、誰の耳にも届いていない。
 血の海の中で溺れる少年の頭を支え、顔を己の身に押し付ける。
 口が塞がり息が吸えなくなり、少しずつ吐き出して、呼吸が戻ってくる。
「これからお前は王を殺した大罪人となり、拷問されるだろう。王に弄ばれる方が何倍も良かったと思うような、酷い仕打ちを受ける」
 漸く戻り始めた意識に聞かされる言葉は冷たい。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
 主人の身に縋って、泣きながら呪文のように謝罪を口にし続ける。
「殺そうと思って殺したのか?」
 最初は首を横に振った。激しく。
 しかし、思い直して弱々しく縦に振った。
 殺したいと思った。そう思えば、こうなる。
 薄々自分で分かっていた。
 桓梠は口元で笑った。
「なるほど?ならば、使えるな」
 主人の言葉が分からず、顔を見上げる。
 笑っている。
 その笑みをどう解釈して良いのかまた分からない。だが、少し安心したのは確かだ。
 怒ってない。この人は。許してくれる。
 ふっと、体が浮いた。桓梠が抱き上げたのだ。
「桓梠殿!下手人をどうされるおつもりで!?」
 部屋の中に居た男が怒鳴った。
「どうもこうも無い。我が物ゆえ、連れ帰る」
「許されませぬ!捕縛して、牢に入れねば!貴殿も罪を追及されまするぞ!?」
「やれるものならな」
 隣の間に脱ぎ捨てられていた衣を最低限体に巻き付け、自力で立つ力を失った体を再び持ち上げて。
 王宮から悠々と外へ出る。
 そこは、戦場さながらに兵が取り巻いていた。
「謀反人桓梠!観念せよ!投降すれば命は助けてやる!」
 叫ぶのは彌羅の家臣。
 不可解な主の死の要因は桓梠だと思い定めていたのだろう。
 そして王の死を利用して復讐をしようとしている。権力を再び自分達の元に戻す為に。
 仇は子供一人を連れて幾重もの兵に囲まれている。この戦いは勝ったも同然。
 が、桓梠の余裕は崩れなかった。
 少年をそこに立たせ、その肩を手で包み、耳元に言葉を落とした。
「分かるか?私達は今、殺されようとしている。不当に私を陥れている、あの悪人共によって」
 澄み切った碧眼に自分達を囲む篝火が映る。
「この状況を逃れる為には、お前が奴らを全て殺すしかない。先刻の王のように、この目の前の者全員を、殺せ」
 頷く。
 だってそうするしかない。
 自分が生きるか死ぬかはどうだっていい。
 この人を死なせてはならないから。
 恩人だから。
 罪を許し、新たな名前をくれた。
 この人の為になんでもすると誓った。
 死なせてはならない。刃向かう奴らはみんな、悪い奴だ。
「やれ」
 短い命令に再び頷き、敵に向かって走って行った。
 嘲笑が聞こえた。裸同然の子供が何をするのか、と。
 殺すまでもない。刀など不要だ。
 愚直に向かって来る小さな体を捕まえてやろうと伸ばされた腕は、しかし。
 手首から切断された。
「うわあぁぁ!?」
 ぼたぼたと落ちる血液を見てやっとその事に気付いた男が悲鳴を上げる。
 周囲はまだ何が起きたのか理解していない。こんな子供、片手で捕まえられるとばかりに次々と手が伸ばされる。
 しかし、誰も触れられない。手が、腕が、見えない何かによって斬り落とされる。
 碧眼はその標的を確実に目に入れている。
 故意にやっている。
 自ら、相手を斬ろうと考えて。
 徐々に、その理解し難い事態を人々は理解し始めた。
 この子供は只者ではない。危険だと。
 波が引くように取り囲んでいた兵が間を取る。逃げる者も居る。
「何をやっている!?殺せ!殺して構わん!」
 敵を鼓舞する叫びが上がる。
 その反対側で。
「殺せ、月。全員殺すんだ」
 桓梠の声だけを耳に入れて、悪魔は敵の殲滅に動いた。

 覚めて、舌打ちした。
 あの時、ついでに殺しておけば良かった。
 あれから桓梠は己が力を使う時に出て来なくなった。あれが最後の機会だった。
 奴こそが悪人だと、気付いていれば。
 純粋過ぎた己を呪う。
 否。機会はある。
 これから、また。
「どうした?」
 隣から声がした。少し眠そうに。
 真っ暗な庵の中。いつものように並んで寝ていた。
 ここまで自分で来た覚えは無い。波瑠沙が運んでくれたのだろう。
「糞みたいな夢を見た」
 剣呑な声音で答えて、彼女に手を伸ばす。
 甘い現実の夢を見直したい。
「しょうがねえな」
 軽く笑って応じてくれた。
 今の俺は、あの時の王や彌羅、桓梠よりも悪人なのだろうか。
 それが何だと腹の中で嘲笑う。
 悪くても、生き残った者が勝ちだ。
 そういう世の中だ。


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