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月の蘇る
  1
 燈陰(トウイン)の去った故郷は混乱の極みにあった。
 半鐘が鳴り響く。逃げる者と戦う者、或いはどっちとも決められない者でごった返す。
 どっちとも決められない――それは、自分の事だ。
 戦う力は存在した。事実、それで一度敵を撃退した。
 だから、また同じ事をすれば良い筈なのだ。
「朔夜!待って、朔夜、どこに行く気!?」
 ふらふらと外へ出て行く体を追いかけて、母さんは捕まえて抱き締めた。
「…戦いに、行かなくちゃ」
 熱に浮かされるように答えた。
 母さんは首を激しく横に振った。
 それを見ないように。
「戦わなきゃ。燈陰はその為に俺に刀を教えたんだから。…戦わなきゃ。みんな死んでしまう」
 泣いていた。その意識も無かった。
 それ以上に母さんが泣いていた。
 蹲る親子が見えぬように――実際目に入らぬ程混乱しているのだろう。すれ違う人々の荷が当たり、ぶたれ、蹴られた。
「朔夜!おばさん!」
 その中から希望のように呼ぶ声。
 華耶が走ってきて、泥の中で動けずに居る親子を立たせ、物陰に導いた。
「華耶ちゃんも早く、逃げなきゃ」
 母が言う。華耶は首を横に振った。
「母さんと話しました。逃げるなら、二人と一緒に!」
 母子ははっと顔を見合わせる。
「逃げよう、朔夜。一緒に行こう、ね?」
 頷いていた。
 分かった。刀を持つ意味が。
 この二人を守る為に。
 華耶は微笑んで頷き返した。
「一度家に帰ります。荷物を持って、母さんと来ます。母さんは父さんを呼びに行ってるの。みんなで行こう!」
 言うなり、ぱっと踵を返して駆けていく。
「私達も…」
 母さんが言いかけた。その時。
 太い叫び声と。
 悲鳴と。
「華耶!」
 巻き込まれたのではないかと、朔夜は駆け出しそうになったが。
「待って!母さんを一人にしないで!」
 彼女の悲鳴を聞いて、思い止まった。
 唇を噛む。誰よりも大切な人を失いたくない。
「家の中に。隠れていましょう」
 刀を振る音と、それが何なのか理解したくない音が、すぐ近くまで迫っていた。
 家の中に戻り、母さんは押し入れに俺を隠した。
「ちょっとだけ、ここで我慢していて。絶対に開けたら駄目だよ。良い?約束できる?」
 思わず頷いた。それで閉めようとする手に驚いて大声で問うた。
「母さんは!?」
 彼女は微笑んだ。
 その頬に、涙が落ちた。
「大丈夫。きっと、お父さんが戻ってきて助けてくれる」
 頬を撫でられて。
 抱き締められて。それが、最後の温もりだった。
 彼女の手が戸を閉めた。
 暗闇の中で。
 土足の足音が複数、家の中に入ってくる音を聞いた。
 足音は、何かを追う。
 追われる者は、そこにある物を投げ、壊しながら逃げ惑う。
 俺がここに居ると勘付かせない為に。
 どうして。どうしてそんな事を。
 悲鳴が聞こえた。
 すぐには動けなかった。
 約束があるから?違う。
 全身がどうしようもなく震えていた。
 また、悲鳴。
 何が起きているのか。
 身に付けている小さな刀を握りしめて。
 そっと、戸を開けた。
 約束を破って出て行く。悲鳴のする方へ。
 高い声音はだんだんと断続的になっていく。その意味は当然まだ知らない。
 この刀を持って自分がどうする気なのか。
 それすらも考えていなかった。
 ただただ怖くて泣きたかった。だけど、立ち向かわねばならないと本能的に動いていた。
 扉を開ける。その先の光景で、悲鳴の正体を知った。
 女の裸体を、いくつもの腕が押さえ付けていて。
 代わる代わる陵辱していたのだろう。勿論あの時はそんな事は分からなかったが。
 だけど、その全てに――体を許している母にすらも、嫌悪感を抱いたのは確かで。
 全てが消えて無くなれば良いと思った。
 守りたい、ではなく。
 殺したい、と。
 こちらに気付いた男が下卑た笑みを浮かべて手を伸ばす。
 やめて、と女の悲鳴が言う。
 硬直して動けない体を撫でられ、衣の中に男の手が入り込んで。
 お前も可愛がってやろう、そんな事を男は言ったと思う。
 俺も同じ目に遭うんだと、察知した。
 絶対に嫌だった。
 瞬時に刀を抜いて、目の前の男の腹へと突き刺した。
 別の男が怒鳴りながら軽い体を捕まえて引き倒した。刀は最初の男の腹に突き立ったまま。
 男が馬乗りになる。抵抗する細い腕を別の男が捕まえ、乗っている男は頭を二発殴って抵抗する気力を奪った。
 ぐらぐらと視界が揺れる。吐き気がする。それらを上回る、恐怖感。
 再び伸ばされる男の手を見た。
 冷たい感情が、頭の中へ流れ込むように。
 次の瞬間、生温い液体が体の上へ大量に落ちてきた。
 男の腕から下が視界の端に落ちる。
 悲鳴。阿鼻叫喚の、男達の声。
 みんな、みんな、殺してやる。
 立ち上がって、次々と男達の息の根を止めていく。
 異変を聞きつけた新手が家の中に入ってきた。次はそいつらだと思って部屋を出て行く。
 その時、母さんがどうなっていたか、見ていない。

 闇の中で息をしている。
 無意識の中で流れていた涙を拭って。そのまま掌で顔を覆う。荒く吐く息が掌に当たった。
「また魘されてたな」
 横の波瑠沙が目を開けて言った。
「ごめん、起こして」
 彼女の手が頬を撫で、腕が頭を抱え込む。
「薬が効かなくなったか」
「環境が変わったせいだよ。一時的なものだと思う」
「これから毎日変わるぞ」
「それに慣れたら大丈夫なんじゃないかな…」
 自信は無いけど。
 否、寧ろこれからどんどん悪化していく予感しかない。
 あの場所が、近付けば近付く程に。
「何の悪夢なんだ?」
 問われて、一度言葉に詰まって。
「母さんの、最後の記憶…」
 ああ、と波瑠沙は呻いた。その意味は知っている。
「忘れてたものがだんだん鮮明になってる…。夢なのに、感触とかも、全部」
 夢の中の吐き気が蘇ってきて、口元を抑えて起き上がる。
 雨戸を開けて、外に吐き出した。
 寝る前に飲んだ薬の味。それを体が拒んだのだと知った。
 波瑠沙が隣に座って背中を摩る。もう片方の手で顔に垂れる銀髪を抑えてくれていた。
 全て吐き出して、息を継いで。
 差し出された水を口に含み、吐き出す。
 そのままうつ伏せに沈んだ。
「もう少し眠れるか?」
 訊かれて、伏せた頭で頷く。
 眠らねば、体も心も持たない。
 抱え上げられて褥に戻され、懐の中に包み込まれて。
 それでもまだ震えている。
 怖くて、怖くて。
「どうやったら寝付けるかな」
 子供を寝かし付けるかのように、苦笑いしつつも背中を優しく叩いてみたり。
 だから子供のようにねだってみる。
「波瑠沙の子供の頃の話が聞きたい。なんか、こう、幸せなやつ」
「話?子供の頃の?そうだなあ…」
 言ってみるもので、彼女は考え考え語り出した。
「幸せだったのはやっぱり王宮に居た頃かなあ。退屈で仕方なかったけど。雅やかな生活が合わなくてさ。わざと粗雑に振る舞って大人を困らせるのが趣味だった」
「趣味て」
 けけっと悪く笑って、波瑠沙は続けた。
「飯はわざと食い散らかしてみたり、手で食ってみたりさ。あの紅葉の木に登って猿が出たって勘違いされた事もあったな。あの時は大変だった。降りれなくなって」
「お前でもそんな事あるんだ」
「だってまだ四つとか五つくらいだよ?春音くらいの。それがあの高い木に…確か王宮の屋根を見下ろしてた気がするから、相当登ったんだよ。大騒ぎでさ。みんなして梯子出してきたり、根元に布団重ねてみたりしてくれて。ま、最後は落ちて人生初の骨折を体験したんだけど」
「落ちたんかい」
 笑って朔夜は返す。
「腕と足を折ったねぇ。いやー、痛かった。でも懲りなかったけど。てっぺん目指してあの後も登り続けたね。ちゃんと降り方も分かったし」
「そういう問題じゃなくないか」
 無意味で人騒がせな挑戦だ。
「女官達にはよく怒られたけどさ。陛下と香奈多さんはいつもにこにこしてたよ。これがこの子の性分だからって庇ってくれてさ。刀を振ろうとして舶来のでかい壺を割っても怒られなかった。うん。半分わざとだったけど」
「俺、波瑠沙と子供の頃に会ってたら絶対仲良くなれなかったわ…。見てて胃が痛くなる。絶対」
「お前は良い子ちゃんだもんな?大人の顔色を窺って行動するから、こんな暴れん坊は有り得ねぇんだろ」
「密かに憧れるけどね。自分には絶対に出来ないから」
「大人になってこういう関係で良かったな?正反対だから惹かれ合うんだ」
「そうかもね」
 額から、瞼へと口付けされて。
 目を瞑る。闇への恐れが消えていた。
「子供の頃のお前に会えたら、守ってやれたのにな」
 波瑠沙の呟きは、素直に嬉しかった。

 戔を東北から南西に突っ切る旅だ。予定では十日ほどかかる計算で居る。何事も無ければ。
 今回は堂々と街道を通る旅だ。別に追われる事もなく、人目を気にする事も無い。珍しく。
 桧釐のお陰で路銀は十分にあるから、宿場から宿場へと一日の行程を考えて馬を走らせる。
 最初の宿を去って、南へと馬首を向けた。
 峠越えの道の中で。
「おおい、朔」
 呼ばれる声に振り返る。
「燕雷!」
 後ろから追いかけてきた彼は、二人に追い付いて馬を止めた。
「良かった、間に合って。都の様子を見て来たたんだが、帰ったらもう出てるって聞いて慌てて追いかけてきた」
「そうだったのか。都の様子って?」
 燕雷は周囲を気にする素振りを見せた。
「進みながら話そう」
 燕雷を中心に轡を並べる。
「先に言っておく。お前は都に入るな。恐らく面倒な事になる」
「碑未の野郎か」
「ああ。銀髪の首に懸賞金を懸けてやがる」
 朔夜は皮肉っぽく笑った。
「死体が増えるだけって言ってやったのに」
「自分じゃなきゃ良いんだよ、ああいう輩は」
 頷いて、横目に燕雷を見る。
「そうなると、お前に宗温への繋ぎを頼んで良いか?」
「ああ。そのつもりで来た」
「俺達は先に梁巴に入る。後からのんびり来てくれって言っといて」
「のんびりって」
 半笑いで返す。朔夜も少し笑ったが、消えて残った表情は固かった。
「どうなるか分からないから」
 馬を追いながら、その横顔を鋭く見て。
「やっぱり無理があるんだろ」
「そんな事ないけど」
 即座に否定したが、視線は逸らすように前を見据えたまま。
 息を吐いて、反対側を見る。
「とりあえず今日の宿まではご一緒させて貰って良いかな?今夜は酒を飲ませてやるから」
「お、気前が良いな。奢りだろ?」
 喜色満面で波瑠沙が問う。
「ある程度はな。お前の笊加減じゃ些か不安だが」
「俺は飲まないよ」
 聞いてもないのに朔夜は釘を刺す。
「飲ませる気は無いよ。お前の絡み酒は面倒臭い」
「そんなに絡んでねーよっ!」
「あったじゃん。婚姻直後にさ、華耶も龍晶も相手してくれないって泣きついてきた事が」
「新婚さん相手にそんな事言ってたの?お前」
「言ってない!燕雷がそう吹いてるだけっ!」
「嘘じゃねえよ。本当だもん。お前が記憶無くすまで飲んでたから」
「だったら証明出来ないだろぉ!?」
「燕雷が嘘吐く利点は無いよなぁ。十分ありそうだし」
 波瑠沙が敵の肩を持って、朔夜は口をぱくぱくさせる。
「お前も気をつけろよ。本当に面倒臭いぞこいつ」
 燕雷は波瑠沙に忠告するが、当人はけろっと言う。
「一発殴れば黙るだろ?」
 男二人が腰を引かせる。
「だから飲みたくありません」
 朔夜、禁酒宣言。
「そもそも許容量が少ないしな、お前。体はまだまだお子ちゃまなんだ」
「それとこれとは違う…。大体、不味いから嫌いだし。喜んで飲むお前らの気がぜんっぜん分からない」
「こっちこそ、不味いって言うお前の気が分からんわ」
 なあ?と二人頷き合って。
 除け者になる。
「もー、好きにしなよ。二人で好きなだけ飲んでくれば?どうせ俺の悪口言うんだ」
「なんだ。分かってんじゃん」
 さらっと伴侶に全肯定される。
 狼狽えた目を向けたが、すぐにしょぼんと下される。
「迷惑かけてるのは分かってんだよ」
「そういう顔をするな。悪口が言い辛くなる」
 どういう顔をして良いのか分からず、むーと膨れながら馬の鬣を弄る。
「ま、そう気にするな。燕雷に愚痴ったら私もお前に当たらずに済むんだし。今宵はさっさと大人しく寝てくれ」
「そうするけど」
 出来るかどうか。
「何なら、お子ちゃまを寝かし付けてから大人の夜遊びに行ったって良いぞ?」
「ふぁっ?」
「なあ燕雷、そうしようぜ?お子ちゃまが寝たら大人の時間だ」
「は?へ?え?」
「何顔赤くしてんだよ。酒飲むだけだよ」
 横から燕雷が腕を伸ばして頭を小突いてきて、また膨れっ面をして。
「好きな時に寝てるから構わなくて結構!お前らも好きにしろ!」
「あ、拗ねた」
 笑われて、今日はもう口を利いてやらねえ、と分かりやすく子供のような拗ね方をした。


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