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月の蘇る
  10
――華耶。
 愛しい人が呼ぶ声を聞いた。
 憎い男の腕の中で見る夢で。
「仲春」
 呼び返すと、朧げだった姿がはっきりと像を結んだ。
 そのままの姿で微笑んでくれている。
――ごめんな。俺の為に。
「どうして?私の事は憎んでくれたって良いのに。だってあなたを裏切った」
 夫は緩く首を横に振った。
 悲しげに微笑んだまま。
――言ったろ?あなたが汚れているとは思わない。誰よりも、美しい。今も。
 初めて結びつく事が出来た時の、そのままの言葉を告げられて。
「なんでそんなに優しいの…」
 夢の中で触れ、抱き締めた。
 彼の腕もまた、同じように返してくれた。
――華耶。ごめんな。辛くても、生きて。
「うん…分かってる」
 朔夜の時も同じだった。絶望的でも、待っていられた。
 信じていたから。
「待ってる。あなたの事」
――うん、でも、俺よりも前に、朔夜を…
「朔夜を待てば良いの?」
 引いて正対した顔が俯いた。
――俺でも今のあいつは救えない。声が届かないんだ。どうやっても。
「そんな」
――生きてるお前達に止めて貰うしかない。難しいとは思うけど。でも、
 上げた顔は辛く歪み、悔しげで。
――止めてやらないと、取り返しのつかない事になる。
「朔夜…やだ…」
 もう一度、優しく抱き締められて。
――本当にごめん。華耶が一番辛いのは分かってるんだ。頼むべき事じゃないんだけど、俺の声が届くのがお前だけだから…
「うん。良いよ。私も、朔夜の為なら頑張る」
――ありがとう。こうして夢の中なら会いに来れるから、諦めないでくれな。必ず迎えに行くから。時間はかかるけど、必ず――
 はっと目が覚める。
 どうして覚めてしまったのだろうと悔やみながら。
 現実には、憎い男の手足が体に絡み付き、目の前に息を止めてしまいたい顔がある。
 忘れたくてもう一度目を閉じた。
 朝になったら、もう一通手紙を書こう。
 私の言葉もどこまで届くか分からないけれど。でも彼に言われた事だから、出来る最大限の事はしないと。
 朔夜まで、失いたくはないから。

 少年は初めて王宮へ入った。
 玉座のある対面の場。緊張はしていない。
 これで目的に近寄ると、己の勘が告げている。
 王の姿が現れ、跪き首を垂れた。
 父親の崩御によって起こった後継争いを、弟達を死に追い詰める事で勝利した新たな苴王、泰白(タイビャク)。
 壮年の脂の乗り切る年齢であるこの王は、しかしそれに相応しい覇気を備えていない。
 誰もが口に出さずとも共通認識として持っている。この王は、飾りだ。
 否、飾りと言える美しさも無い。かつてこの国に捕えられていた戔王は、同じ愚王であっても飾りと言うに相応しい容姿をしていたようだが。
「そなたが千虎(センコ)の子か」
 本人を前に思考が過ぎた。噂通りの間抜けな声に笑いを噛み殺しながら更に頭を下げる。
「は。千虎の嫡男の涛虎(トウコ)と申します」
「よう来てくれた。是非ともお前に頼みたい事がある」
「何なりとお申し付け下さい」
 頭を上げる指示を忘れているようなので自主的に上を向いた。もう良いだろうと思って。
 咎める言葉は無かった。矢張り忘れていたようだ。こんな青二才を前に緊張する王の顔が見て取れた。
 だがそんな事はどうでも良かった。問題は、玉座の後ろだ。
 そこに立つ男。派手な金髪を長く伸ばしたやたら端正な顔立ちの男。
 これが現人神の姿かと思った。
 そして王を操るこの国の真の支配者。
「皓照殿、説明をしてやって下さらんか」
 王はその神に言を譲った。
 正しく命令を下せる自信が無いのだろう。
「良いでしょう。涛虎君と言いましたか。お父上は残念な事でした。死の間際に彼に会った者として、悔やんでも悔やみきれません」
 目を見開いてその人を見詰める。
 驚きは、父と彼が会っていたという事は元より、これほどの人が父の死を未だそう言って悼んでくれる事に対して。
 純粋に、この人について行こうと決めた。
「さて、君の本願は父上の仇討ちだと聞いています」
「はい…!あの悪魔の息の根を止めるべく、刀の腕を磨いて参りました。この目的の為なら、どんな努力も惜しみません」
「良き覚悟です。私としても、是非君に本懐を遂げて頂きたい」
「悪魔を討たせて頂けるのですか!?」
 喜色が顔に出る。
 皓照はにっこりと笑って頷いた。
「しかし今すぐという訳には。御膳立てをします。矢張り悪魔と言われる存在ですからね、葬るにはそれなりの儀式が必要なのです」
「何でも致します」
「よろしい。まず苴軍には繍へと出兵して頂きます。かの国をいよいよ滅ぼすべく動いて下さい」
 これは涛虎にと言うより、王へと説明している。
 皓照は再び少年の方を向いて付け足した。
「これはかの悪魔からの要求です。彼は何としても繍を滅ぼしたいのです」
「自分が飼われていたにも関わらずですか?繍の命令であの悪魔は父の元に潜り込んだのでしょう?」
「ええ、そうです。しかし彼がお父上を殺したのは命令故ではない。逆恨みです。己の故郷を滅ぼされた事への」
「軍人ならば街の一つや二つ命令で滅ぼす事も当然あるでしょうに。悪魔にはその理屈は分からないのですね」
「そういう事ですね。自身が多くの街や村を壊滅させているにも関わらず」
「許せぬ事です。しかし何故、その要求を聞いてやらねばならぬのですか?」
「彼が脅してきたからです。出兵せねば、こちらの陛下の娘御である戔皇后を殺す、と」
「そんな!許せませぬ!」
「どうせ口だけです。彼にそれを実行する度胸は無い。しかし、口にした事は大きな罪だ」
 涛虎は大きく頷く。
 戔皇后である王女白薇は、己より三つ年下のまだあどけない少女だ。その死を仄めかすだけでも許し難い。
「この際ですから繍には滅んで貰って…そして悪魔の力を削ぐのです。彼は全力でかの国に当たるに決まっていますから。そして君もよく知る通り、あの者は実は脆く、弱い」
「はい。俺でももう少しという所まで追い詰められたのですから」
「そう。君に引け目を感じて己を討たせようとするくらい、彼は甘いのですよ」
 涛虎は瞠目した。あの時の行動はそういう事だったのかと、初めて知った。
 当時の感触は、ただ大した事の無い仇だという、それしか感じていなかった。それに何処か落胆していたのも事実だ。
 こんな情けない奴に、父は。
「苴軍の本当の狙いは悪魔だという事です。繍の滅亡を見た後、この一人を葬る。簡単な事です。ですから是非、そのとどめを君に刺して貰おうという訳です」
「有り難き幸せ!決して仕損じる事のなきよう務めます!」
 皓照は頷いた。父の顔は覚えていないが、このような頼れる笑みを湛えていたのだろうと思った。
 少年は気負った表情で辞去した。
「さて、これで陛下も仇が取れる訳です。父上と弟君達のね」
 王は頷き、おどおどと尋ねた。
「白薇は…あの娘は本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。言ったでしょう。あれはただの脅しです。あの子猫ちゃんにそんな残酷な事は出来ませんって」
「子猫…」
「そうですよ。しかし、虎に化ける片鱗を見せたからには、ここで始末せねば」
 にっこりと、皓照は王へと笑いかけた。

 祥朗の薬のお陰で死んだように眠れるようになった。
 夢も見ない。だから魘される事も無い。
 ただ、眠りが深くなり過ぎて寝起きが辛い。
 目を背けたい現実があるから尚更だ。
 波瑠沙の手で起こされる、出立の朝。
「おーきーろー」
 揺さぶられて目を覚ます。
 それでもまだ瞼が重くて、枕から離れ難く顔を埋める。
「ったくもう、子供か!華耶からの手紙が来てるぞ!」
「…え」
 やっと目が開いた。まだ眠たげに半分だけ。
 その目の前に折り畳まれた紙を差し出される。寝転がったまま受け取る。
 畳まれた紙を開いて、ぼやけ滲む文字をなんとか判読しようと瞼をぎゅっと閉じたり開けたりしながら。
 やっと文字が見えてきた。
 華耶の字も随分上達して細かくなった。他に何も出来ないから、日中は手習の如く文字ばかり書いているのかも知れない。
『朔夜へ
 昨晩、彼が夢に出てきました。初めて夢の中で言葉を交わし、体に触れる事ができました。それはとっても嬉しかったのだけど。
 彼は、今の朔夜は俺にも救えない、声が届かない、そう言うのです。
 そして、止めてやらないと取り返しのつかない事になる、と。
 恐ろしくて、朝になってすぐにこの手紙を書いています。ただの夢とは思えません。
 お願いです。どうか遠くに行かないで。今、思い止(とど)まって。
 私はあなたまで失えません。彼は生きて待っていてと言ってくれたけど、これ以上は無理かもしれない。
 彼の声があなたに届きますように。
                華耶』
 くしゃりと、紙は小さな音をたてて。
 胸に押し抱く。しかし目は動揺して忙しなく動いていた。
「なんて?」
 説明できる言葉を持たず、直接読むように紙を差し出す。
 一読した波瑠沙は呟いた。
「成程な」
 今度はただの夢だと否定しなかった。
 朔夜はやっと起き上がって、彼女に告げた。
「今ならまだ間に合う。波瑠沙は哥に帰って」
「は?」
「やっぱり無事では済まないんだよ。だから巻き込む訳には…。俺一人で行く」
 頬を強(したた)かな力がぶった。
 息を飲んで。しかしすぐに苦しくなって、浅い呼吸になる。
「悪いな。すぐに手が出る私の難点だ」
 殴った頬を包んで、ぐっと正面に押し戻す。
「お前が選べるのは二つだ。私と共に哥に来るか、私と共に繍へ攻め上(のぼ)るか。どっちにする」
 深い溜息と共に肩が萎む。
 それでも十分に息が入らなかったらしく、苦しい息遣いは続いた。
「選べない」
「じゃあ私が選ぶ。哥に連れて行くぞ」
「えっ」
 それは出来ないと目で訴える。
「冗談だ。行くぞ。共に戦いに」
「…良い?」
「言っとくけど、巻き込むってのはだいぶ失礼だぞ?私が自分の意思で行くんだ。お前の同志なんだから」
「波瑠沙…」
 抱き締められ、包み込まれる。今は、男女として。
「辛いんだろ?怖いんだろ?私が居ないとお前は崩れる。分かってるよ。だから共に行こう。お前が嫌だって言っても離してやらないからな?」
 うん、と胸の中で呟いて。
「ありがとう…」
 彼女は一つ頷いて、身を離して。
「時間が無い。華耶に返事を書いて桧釐に託せ。出立の支度は私がする」
「分かった」
 簡潔な返事に力が込もる。表面だけでも元に戻ってきた。
 華耶への返事もまた簡潔だった。
 俺は行く。心配するな。と、それだけ。
 もう引き返せないのだ。行く所まで行かねばならない。
 夢に出るならもっと早く出て来いよと、友に毒付いた。
 一枚の紙を持って、桧釐の元へ行く。
「行くか」
 顔を覗かせただけで彼は察して立ち上がった。
「これ、華耶への返事。今度からお前が手紙を出してくれる?その繋がりが無いと、華耶も不安だろうから」
「分かった。…悪いな」
「えっ?」
「彼女を守れなかった。お前に言われたのに」
「それが出来なかったのは俺だよ。致し方ない。これ以上の犠牲は出せないから」
 桧釐は頷き、手紙を受け取った。
 代わりに重そうな巾着袋を押し付けられた。
「路銀だ。十分に入れたつもりだが足りなければ向こうで宗温に立て替えて貰え。後で返しておく」
「おお、ありがとう。野宿しなくて良さそうで助かる」
「祥朗から請求が来たんだが」
「…あ。悪い。言うの忘れてた」
「わざとだろ?いや、金の問題じゃない。本当に大丈夫なのか、お前」
 笑っていた顔が真顔になった。
 真顔と言うよりは、ずっと切迫した表情だった。
「…大丈夫じゃなくても、やらなきゃ。分かるだろ?」
 目は動揺し揺れ動くまま、口元だけは元の笑みを戻そうと。
 桧釐は鋭く問い返した。
「何の為に?」
「何の…?」
 今更と思いながら。
 いつの間にか、その部分が複雑化した果てに抜けている自分に気付いた。
「命を懸ける理由をお前は見失ってるぞ」
 震えている。何も答えられない。
「前にお前の刀が逃げて迷っていると言ったが、今のお前は虚無だ。何も考えてない。それは却って良い事なのかも知れないが、見ていて危うくて仕方ない。自分が生きようが死のうがどうでも良いと言っている」
 首を横に振る。
「生きて帰るよ。今までに無いくらいそう思ってる。そうじゃないと波瑠沙を守れないから」
「お前が自分を守る気が無いだろ」
 虚無の目が、なんでもない一点を見詰めていた。
 やっと、どうにか、繰り返している呼吸で。
 飲み込んで、言った。
「いや…そんな事は無い」
 見上げて、弱く笑って。
「そうじゃないと、わざわざ祥朗から薬を貰ったりしない。お前にツケてまで」
「そうか。それなら良いが」
 桧釐は追及を諦めた。足を止める事が目的ではない。隠そうとしている本音に気付いているぞと知らせる事が目的だ。
 そこに自分で向き合わせねば、大きな目的は果たせない。
 こいつの精神の脆さはよく知っている。それが如何に危険な事かも。
「…行くよ。ありがとな、今まで」
「帰って来いよ」
「うん」
 玄関口に回ると、波瑠沙が馬を二頭連れて出ていた。
「さく」
 足元に春音が居た。
「いっちゃうんだね、さくも、はーさも」
 波瑠沙と目を見合わせる。彼女は軽く頷いた。
 もう説明は終わっているのだろう。
 朔夜は屈んで四歳になった子と視線を合わせた。
「春音、あのな」
 伝えねば。
 友に代わって、まだ希望のある事を。
「俺達も、お前の母さんも…父さんも、遠くに行ってもずっとお前の事を想ってるから」
 納得しない顔で彼は黙った。
 それはそうだろう。遠くから想っていると言っても、何の意味も無い。
「龍晶はさ…お前の父さんは、自分と同じようにお前に寂しい思いをさせたくなくて、お前をここにやったんだ。ここなら於兎も桧釐も、お前のきょうだい達も居るだろ?」
「うん…」
 頷いて、暫く考えて。
「とーさま、さみしかったんだね」
 我が子のような彼の成長を見て。
 朔夜は微笑み、小さな体を両腕で包んでやった。
「お前は大丈夫だ、春音」
 俺達のようには、ならない。きっと。
「強くなれ。誰よりも」
 肩の上で小さな頭が頷いた。
 離れる。波瑠沙と同時に騎乗して。
「さく」
 幼い声が響いた。
「つよくなるよ、おれ。だから、また、あそんでね」
 笑って。
 刀を抜いて、子へと翳した。
「楽しみにしとく!」
 晴れ晴れと、笑い合って。
 別れた。
 いつか、また。
 笑い合える。あいつの魂と一緒に。


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